第1話 母さんごめん…わたしは描くよ
わたしの名前は
わたしはバスを降りて遠ざかってゆくエンジン音を聴きながら帰路を早足で歩いていた。参考書やノートなどが詰まったスクールバッグがいやに重く感じる。
ゴールデンウィークが明けたのがつい先日の事。突き刺すような冬の寒さは完全に沈黙し、温かい風が流れてくるようになった。
早足で帰路を進めば、少しばかり汗が滲む。けれどわたしは歩調を緩めなかった。早足のまま自宅へと向かう。
日本のどこにでもあるような特徴の無い閑静な住宅街。その中に佇むマンション。その一部屋がわたしの自宅だった。マンションまで辿り着くと正面玄関のセキュリティを突破し、そこから廊下を進んでエレベーターに乗り込む。わたしが立ち止まっていたのはセキュリティ認証をしていた時とエレベーターの中で待っていた時だけ。エレベーターを降りればわたしはまた早足で歩き出す。
自宅の玄関扉を開ける。
「ただいま」
そう言いながらわたしは靴を脱いだ。
「おかえりなさい、春佳」
台所から顔を出した母が言った。わたしはその台所へと進んで行く。喉が乾いていたからだ。
コップを取り、蛇口から水を注いでそれを一気に呷った。空になったコップを机の上に置く。
そして、台所を出て自室へと向かおうとした時、母が言葉を発した。
「春佳、これから部屋で勉強?」
わたしの動作があまりにもなにかに急かされているようにきびきびとしていたのでそう思ったのだろう。母の眼差しには心配の色が含まれいた。
「まあ、そうだね」
わたしは母の方を見ないままに言った。
「そう……勉強に励むのは立派な事だけれど、無理だけはしないでね。春佳は昔から真面目過ぎる所があって、それが少し心配なの。休む事も大切よ?」
「分かってるよ、お母さん」
「……うちはそれほど貧乏じゃないから別に私立の大学でも平気よ? それに、良い大学に入る事だけが全てじゃないわ」
「ありがとう。でも、わたし頑張りたいから。勿論無理はしないって約束するよ」
「それなら良いの」
母の声音からは幾分かの安堵が感じられた。
わたしは台所を出て、自室へと向かった。自室の扉を開けると、小さな空間が現れる。その小さな空間には沢山の物があった。
壁にはポスターが貼ってあり、机上にはアクリルスタンドが佇んでいる。
わたしは椅子を引き、その上に腰を下ろす。
机に向かい、わたしは参考書を開く――事は無かった。
わたしは机の隣に鎮座するパソコンの電源ボタンを押した。パソコンのファンが回転する音が聞こえて机の上にあるディスプレイには起動画面が表示される。
その間にわたしは机の引き出しの中から平べったいデバイスを取り出した。
これはペンタブレットと言う。
ペンタブレットにはデバイスに液晶が付いている液晶ペンタブレット――液タブとそうではない板タブが存在しているが、これは後者に該当する。
わたしはパソコンの起動時間の最中に板タブをパソコンに接続した。すぐに画面はパスワードの入力を求めるものへと切り替わり、わたしはキーボードを叩いて素早くパスワードを入力した。
デスクトップ画面が表示される。わたしはマウスを手にするとカーソルを動かして、デスクトップ上にあるファイルをダブルクリックした。
ソフトウェアが立ち上がり、画面が切り替わる。
画面に一枚のイラストが大きく映し出される。
そこには二人の女性が描かれている。彼女らは非常に密着しており、唇と唇が今にも触れ合うのではないかという距離感だった。
女と女の絵。
だがこのイラストはまだ完成していない。わたしは板タブに取り付けられたペンを手に取った。
ペンタブレット。それはパソコン上で絵を描画する為のデバイスだ。
わたしはペンを板タブ本体へと近付けた。すると、マウスを動かしたわけでもないのに画面の上でカーソルが動く。板タブの上でのペンの動きをそっくりトレースするように動いていた。
わたしは画面の左側にあるツールの中から一つを選択した。『不透明水彩』と名前の付いたツールだった。
このイラストは、線画と下色塗りは既に終わっている。これからするのは繊細な色彩の描画だった。
カーソルが一人の少女の肌へと向かう。そして、そこに基本の肌色より暗い色が塗られる。陰影だ。陰を描画する事によってその絵は立体感と繊細さを獲得する。
そうして一人の少女の肌の陰を塗り終わると、もう一人の少女の肌を塗り始める。それも終わると、赤い色を選択し、二人の頬に柔らかく赤色を乗せる。化粧を施しているようだった。二人の表情は先ほどよりも愛くるしいものになる。
肌が塗り終われば、次は髪。それが終われば次は服――。そうやって絵を完成へと導いてゆく。
絵を描くわたしの所作に淀みは無かった。わたしの中には明確な完成形のビジョンが存在しており、そこに近付けて行くだけ。作業は素早く淡々としていた。
しかし、矛盾するようであるが、わたしは確かに強い熱をこの身体に抱えていた。
歯を食い縛り、血走った眼で画面の中の二人を見据えていた。わたしは真剣だった。妥協が許されない状況でこのような形相になるのは道理だった。
これは戦いだ。生きるか死ぬかの戦い。そんな状況下で誰が冷静で居られるか。戦場でアサルトライフルをぶっ放す兵士は正確に弾丸を目標へと叩き込んでいたとしても、胸の内には激しい感情を抱えている筈だ。それと同じ。
負けられない戦いにわたしは挑んでいる。
絵が完成へと近づいてゆく。その一方で時間は刻々と経過してゆく。いつの間にか窓の外に見える景色は夕焼けの街並みではなく夜闇になっていた。
ふと、わたしは心の内で呟く。
お母さんごめんなさい。
わたしは勉強なんかこれっぽっちもしていません。
わたしは百合を描いています。
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