第14話 普通

 草葉あきらは生活を求め、眞神に定住する。そう決めた。

 時間を見つけて数日、逍遥し、渉猟した。美しい東北の自然。ただ、残念なことは縄文人が見た景色はこれとはだいぶ違うものであったであろうことだ。植生もかなり違っていたはずであった。時や歴史とは不思議なものだ。

 瀧や渓流を眺め、こういう場所が好ましいが、普通の生活はできない。こんな景勝でする修行のような日々、苦行者に近い生活が僕には佳いと感じられるが、飽くまで普通の生活を試みたかった。

「あゝ、これは」

 僕は湖を見渡す。

 龜鹽村に龜鹽という湖があり、その畔に使われなくなった農家の納屋があって、電気もガスも水道もないが、僕は住み始めた。家賃はない。納屋の持ち主である老夫婦の農作業を少し手伝い、少しの野菜と米とをもらって暮らした。ときどき、棄てた芥なども拾い集める(こころない旅人であろうと考えられる。近くに住む住民は湖水を使用しているし、少し離れた所に住む人々も龜鹽を神聖視している)。飲み水は井戸、若しくは湧水であった。残飯も油もない食器洗いは龜鹽の水を盥に汲んで済ます。終わったら、土に撒いた。顔を洗うも口を漱ぐも井戸か、湧水か、龜鹽の水だ。洗濯洗剤を使わずに手製の洗濯板で衣服を洗った。

 時々お婆さんとお爺さんがお布施と言って、蝋燭や香をくれた。僕が読経する姿を見たからであろう。僕は僧ではないからと辞したが、布施は布施する者の功徳になるのでと言って譲らなかったので、僕は有り難く頂戴した。お布施は手拭いや石鹸などであることもあった。彼らが供養と想うなら、供養にもなり、僕もまた供養される対象と言うべき者なのかもしれない。沙門は僧籍にある必要も、寺に属する必要も、ましてや宗教法人に認定された団体の一員である必要もない。

 釈迦の時代、沙門は世俗を離れ、修行する自由思想家であった。思えば、荘子の説いた〝真人〟も大きく世俗の価値観を超越した人ではなかったか。それが人類のファイナル・アンサーなのか。

 僕には決められない。むろんだ。ただ、生きる上での選択はしなければ生きていけないが。正解はない。人は皆、窮極に於いては、独りで死の淵へ陥って逝く。人は皆、本当は独りなのだ。それぞれじぶんで決めなくてはならない。独りで生き、独りで死す。そう、まさしく人は独り死す。死の淵に陥るそのさなかには、たとえ、看取る者たちがいても、陥るそのなかへは家族すらも立ち入れない。独りで陥って逝く。

 老爺や老婆の素朴な笑顔は、束の間、それを忘れさせてくれた。人とは、有り難いものだ。人は人と繋がって安心しようとする。素朴で誠実な人は安心だ。心底が読める。結局、そんな功利的な理由で、素朴な人々は好まれてきたのだ。それの何が悪い? そんなひねた考えなど持たぬが良いのだ。ここの老爺や老婆も、彼らの父母や祖父母や曽祖父母が教えてくれたことを、そのまま信じ続けて何百年も生きて来た人たちのうちの一人である。釈迦の教えにも適う人たち。古くから人類の間に培われてきた社会倫理にも適う人たち。すなわち、仏教に言う、不殺生・不偸盗・不邪淫などを守ってきた人たちだ。

 人間の価値観や信条をそのまま信じて来た。だが、僕らや釈迦たちは必ずしもそうではない。一度は全てを疑い、全ての束縛を超越し、絶空の上で、甚深に瞑想した。どちらかが正しいのでもなく、間違っているのでもない。

 そんな差異は理窟でしかない。表層的なことでしかない。どちらも現実であって、現実でしかなく、今生きている現場、まっただなか、現実であることに相違はない。僕らの実存であることに間違いない。

 切実であれば、それは在るのであり、ただ、それをどう生きるかの問題であり、いずれは死して逝く時が来るので、その時に何を想うかを試みに空想して、参考のうちの一つにすることは必ずしも無為にならない。魂の声に聴従し、今というこの瞬間を、真摯に見据えて。僕はそう想う。それ丈だ。そうやって生きる。生きて逝く。

 そんな日々、お爺さんが木製の歯ブラシをくれたことがあった。僕はアーユル・ヴェーダで神聖なる薬木とされるニームを十数本植えて、毎朝、枝を折って先端を噛んでほぐし、歯ブラシにしていたので、用は足りていますと伝える。歯磨は大事だ。

 蒙を啓く釈迦は弟子たちに伝承の呪文の数々を禁じたが、歯痛を癒す呪文は赦したという。真偽は定かではない。僕がどう考えるかだ。

 独りでさまざま考える。天の月と、湖面の月とを飽かず眺めて逍遥した。そのうちに明けの明星が一際輝く。六月上旬までは明けの明星が見られる年であった。黎明を感じ、しばし休もうと想う。しゃがむと、こんなに素晴らしい大自然の素朴のなかに、誰が棄てたのであろうか、ブリキ製の空き缶が転がっていた。

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