第13話 桜華

 秋は深まり、鮮やかな黄や赤や紅や橙の錦繍も色褪せ乾きかさかさに枯れ散って終わり、寒気が来た。初雪を見た十一月の下旬も疾く、師走の賑々しき華やぎを含む忙しさのなか、凛冽な空気にまた、どこか焚火の懐かしさを覚える匂い。十一月二十八日、僕は再び寺に逝き、出家を願い出たが、許されなかった。

「では、在家の信者として、坐禅の場所をお貸しいただくことはできないでしょうか」

 到底、承認され得ない無理なことと思っていたが、願いは意外にも許され、僕は釈迦が解脱したという十二月八日を期限と定め、堂に籠った。食事は僕より若い僧が一日に一度、運んでくれることとなった。かつて、ともに修行していたことがある。彼の名は澄鏡であった。

 僕は敷地の隅にある廃れた堂に籠り、仏像のない壇に向かい、只管(ひたすら)、坐禅する。もともと、壁に向かって坐し、修行した身である。本尊がないことなど苦ではない。

 こころを虚しくする。決して努めない。ただ、呼吸を整え、息をより深く、より長く、さらに静かにして逝く。次第次第に。煩悩がおのずと湧く。 

 それはさまざまにあらわれては諸行無常と言うがごとく遷移し、やがて消えるも、時には長く反芻された。

 問いが脳裡に繰り返し生じた。全ては生死のこととこころ得る。いずれ死ぬという時間性がこころを急かす。貪欲に求めさせる。その欣求のとおりにならねば瞋(いか)り、殺戮も厭わぬ。生存とは虚しきことに執著し、死への虞(おそれ)、死なぬことを希う。それは癡(おろか)さであるが、自然が与えたものでもある。だが、それもそう観ぜられる丈であって、しみじみ想ふと、東洋的な曖昧さのなかにあり、根拠は明らかではない。

 死を義しいとすべきか、死が生に喝を入れると知るべきか。死を生であると観じ、生を死であると睿らかにすべきであるか。 

 脈絡もなく、想いは果てない。勝手に動く。放置するしかない。

 なぜなら、その解答を知っても、覚悟がなければ空疎だ。言語を超えた体験を求む。イタルのように超絶狂裂に。こころが僕に求めても、僕は〝え応えず侍りつ〟。

 骨から湧き、筋繊維に籠り盛り上がり、血を熱し、細胞に含まれて実存する解答でないならば、それは答えたことにならない。魂に実在しなければ。

 金剛界曼陀羅と胎蔵界曼陀羅とが浮かぶ。理を超えてこれらを体得しよう。まずはそれを突破口にしよう。鬱勃と、そのような動機が湧き上がった。こころのどこかから。それが誰の意思かはわからなかった。僕ではない。この想いは魔界の境か? わからない。わかり方が見出せない。

 自由、解脱、超越、彼方へ、遙か彼方へ、絶空へ。生存を超越したい。

 生存。それは時間によって、炙り出されている。時間とは、いつかは終わりがある、いつかは喪われる、いつかは無くなる、いつかは滅ぶ、いつかは死ぬという、無意識的な焦りだ。焦燥が物事を意識させる。気遣わせる。意識するから、気遣うから存在として、かたちが炙り出される。明晰に網膜を刺す。

 生存への意志、生きようとする意欲、生きたいという盲目的な意志、生き残りたいという我武者羅な欲望。当事者である僕らにとって、そこには実存がある丈で、理由も説明も解釈も根拠も意義もない。ただ、そうしたい。溺れる者が無我夢中で、必死に足掻き藻掻くように。死にたくない。その恐怖と渇望との起源は生存だ。

 廃れた堂に籠って七日。娑婆に出ずれば、雪が白く全てを覆い尽くし、全く別世界となっていた。境地は何も得られていない。挫折も虚しさもない。

「そんなにうまく逝くものか。それは瀝青のようなものだ。生存は僕らよりも深く強く僕らそのものだ。僕らより遙かに根源的な僕だ。引き剥がせようはずもない」 

 僕は新たに決意し、諸々の準備をし、知識を蓄え、行法を研究し、計画を練って、万事整った一月の終わり頃、寺に再々度赴き、もっと長期の堂籠りを願い出た。幾度も断られたが、幾度も懇願して拝み倒し、漸く許可を得た。

 再び廃堂に籠り、灯明もなく昏い、埃っぽいなか、経を誦し、坐禅三昧、食事を運ぶ者がいないため、炒った種などを保存して食べ、ペットボトルで水を摂取した。乾燥していたため、乾きものの保存には適していた。やがて、闇に慣れ、経文も読めるようなっていく。外に出るのは、屋外の厠所へ入る時丈であった。ときどき、様子を見に来る者がいるらしいことが気配でわかる。感覚は鋭敏になっていった。眞神に逝かなくとも、齊会議に出られそうな気がする。だが、もっと、ゆっくり様子を看よう。寂莫に。

 齊会議に出席できたことは、よい経験であった。

 こうした感覚への刺激が少ない、禁欲節制の果て、死にも近い生活のなかで、生存が最後の生き残りを賭けて猛襲する時、打ち敗れることも、狂気に陥ることもなく、じっと堪えて遣り過ごせるのは、あの経験があればこそであった。

 繰り返して過ごす。日々は、ただ、過った。疾風怒濤、波瀾万丈の海のように、死の沙漠のように。日々は。過る。諸行は遷流して逝った。諸法は行(遷流)にしかず、実体がないもののように観ぜられた。そう想えば、関心を持たず、さらさらと眺められる。存在は生存への意志に拠る。全ての論理思考も、その派生でしかない。生き残るために、現実を分析し、法則を見出し、未来を推測する。言語も諸概念も考概も、同様に派生でしかない。一切のかたちもそこから生まれた。全てが、だ。

『大毘盧遮那成三菩提神変加持(佛所護念)經』、いわゆる『大日経』に於いて、悟り(菩提)とはこころであると云う。こころはおのれのうちになく、外になく、無分別でなく、妄念妄想ではない。こころは色界(生存世界)になく、無色界(非物質界)にない。こころは空であるという。おのれのこころを知れば、菩提(さとり)を知ると云う。それは萬物萬象萬世萬界の実相に参入することである。それらを網羅し、それと異ならず、それそのものであることである。萬物萬象萬世萬界に齊しく、かつ、かたちないということ。そうではないこともまた可也。

 空は空をすらも絶つ。

 それあたかも、非が非をすらも否むがごとし。かたちなき哉。空は非空(有)であるがゆえ、萬物萬象萬世萬界はかく在る。こころは虚空である。こころは世界一切の真実である。

 それ空とは、かたちなきゆえ、とてもかくても候。こころが萬物萬象萬世萬界であっても候、虚空であっても候、世界一切の真実であっても候。そうであっても疑義はなく、証を要さず、僕らは安堵する。

 非は非非にて、全肯定である。全肯定は一切と異ならず、全てを遺漏なく、網羅する。全てを網羅するとは、いかんや。甚深微妙である。全てを網羅すれば、全てを網羅しないことを遺漏する。一部しか網羅しないことを遺漏する。それらを網羅せねば全網羅全肯定全不異とは謂わず。しかし、それらをも網羅するとても、全てを網羅しないことのみであることを網羅せず、一部を網羅することのみであることを網羅せず、全網羅とは謂わず。これを網羅するとき、それ狂裂とふ(という)。

 これ、おのれがこころなり。こころを知れ。かくして超絶超越の絶空に至らんや。自在無礙に至らんや。全く別世界、異界なる天界へ至らんや。

 恐らくは、自在無礙を得たときに惟ふであろう。執著が、存在が、かたちが重荷であったと、苦しみの轍を刻むことであったと。釈迦が貪瞋癡を解体せよと言った意味がわかる。貪りも、瞋りも、癡かさも、全て生存に由来する。

 貪りは、より確かに生きるようと、際限なく、余剰に貪る。自己肯定を強化するために、あらゆる贅澤を貪る。そこに陶酔を覚える。

 自己の尊厳が貶められれば瞋る。威嚇してでも、尊厳を守ろうとする。自己の尊厳が損なわれることは、野生にあっては死を意味する。愛する者を瑕つけられれば瞋る。家族は種の存続という、生存への意志の大きな根幹だ。権利を奪われれば瞋る。権利を奪われれば、生きる手段を奪われる。それもこれも無明なる生存への意志のなすがままにされていることである。

 仏教ではそれを癡かさであるという。昏沌として闇雲なる生存への意志の怒濤に翻弄されていることを癡かさだという。

 そう想えば、貪瞋癡を解体すれば、生存を超越する道筋が見える可能性があろう。解脱への道が。自由への道を見出せるであろう。狂裂なる自由へ逝く道を。

 生存の超越は死か? 死を意味するのか。そうだ。むろん、死だ。

 無余依涅槃は完全なる死だ。だが、生命でもある。生命は生存ではない。正義のために死することは生命だ。自己を超越することは崇高であり、生命そのものだ。自己を狂裂する自己超越は生命である。彝之イタルは生命であった。生死の分別を超え、炸裂したからだ。生命の大義は超越である。

 現象的ではあるが、鑑みれば、全生命は自己を超越して進化してきた。自己の限界を超えて進化してきた。それが生命の意志か? わからない。わかる必要もない。現象に囚われるな。

 寂滅して楽を為せ。静かに。しずかに。そう、平常道は為そうと想っては為せぬ。無為自然にせよ。時の経つのを忘れていた。平安のうちにいる。きよらかな平安のうちに。

 それは凪の湖面のようであった。明鏡のごとくである。知ではないかたちの〝知〟によって、それを知っていた。

 ふと一刹那、向こう岸へ渡ったように感じる。あちらへ。彼の岸へ。

 あゝ、凄まじい解放、かたちということがどれほど重みであったか、束縛であったか、壓であったか、存在がどれほど苦しみであったかを知る。苦というものを初めて知る。苦を知ることが仏教の基本であるが、僕らがいかに苦ということを知っていなかったかを、まざまざと悟った。 

 あゝ、もう死んでも善い。成すべきことは成された。

 蒼穹よ、あゝ、自由なる蒼穹よ。無限をすらも超えて、きよく澄み切り、いずこまでもさやかにひろやか。全く重さがない、かろやかさ。寂莫、全く負荷がない。平穏にて静寂なる快さ。完全過ぎるほどの完全。

 入滅しようと想ったが、堂の扉を開けようかという考えが頭を過った。そう想った瞬間、霧散した。燦晰なる喪失感のなかにいた。惜しくもなく、残念でもない。

「ふ。そんなにうまく逝くものか」

 同じ言葉を独り言つじぶん。鼻尖で笑う笑い方が真兮くんみたいだなと思った。

 まあ、いいか。出よう。そう思った。

 出たいからではないような気がした。やめたいからでもない。とは言え、そうではないかもしれなかった。どっちでもいい。深くは追究しない。ただ、季節が変わるように、移り変わり、そう想った丈であった。

 立ち上がった。ふらつく。縋りながら、扉を開けた。


 桜華。


 もはや、散るしかない満開爛漫の春であった。桜華の死は生命の横溢、爛熟であり、美しい。死が生命の精華であった。

『死を生と齊しく觀じ、生を死とぞ睿らめる哉』

 そんな言葉が突如、脳裡に閃く。恍惚とした。何と美しい言葉か。どこかに出典がないか考え抜いたが、何も思い出せなかった。言葉と言うよりは舊字体を遣った字面として泛かんだ。美しい文字だ。出典を探したり、意味や根拠や意義を追ったりすることはやめた。こころに直截得られた観があまりに美し過ぎたからである。醒めた陶酔があった。燦然たる神の崇高の光を浴びたかのように感ずる。

 薫風は芳しく何と爽やかなことか。久々に吸う新鮮な空気であった。何も変わってはいない。

 顔を洗い、髭を剃り、鏡に映る、青白く窶れたじぶんの顔を、沁みじみと見た。衣を整えて、寺への挨拶を済ませ、辞す。帰り掛けに、苔や石垣や伽藍や大樹などを眺めて、暫時、茫然とする。存在は何とアバンギャルドなのか。僕は既に決意していた。特に深い考えなどではなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る