第12話 齊会議

 真兮くんが言う、

「さあ、そのくらいにしようか。まもなく、定例の齊会議が始まる」

「齊会議?」

「萬物萬象萬霊萬神が集う大集会議だ。集わぬものとてない」

 何を言っているのか。全く理解できない。

「君も入場が可能だ。ここに来るまでの間に秘儀参入のための儀式、イニシエーションが済んでいるからね。実際、本当の本当には、誰もが参列しているが、三次元しか見えないから、わからないのだ。解釈上にないから、意識できない丈だ」

「それも何のことだかわかりません」

「まあ、見たまえ」

 真兮くんが腕を振り放くように廻し、周囲をぐるりと指差し示す。周りを見てご覧という仕草だが、何も変わっていない。だが、僕は驚愕した。何も変わっていないから、何もかもが全く異なる。それが自由ということなのだと、初めて悟った。全く縛られていないからこそあり得る。矛盾や異互がない。違う、そうじゃない、ということがない。理不尽がない、起こらないことがあり得ない。

 物凄い光景だった。

 そして、その存在しない大公会堂を埋めつく無数の存在者。途方もない騒音と、大宇宙のような静寂。

「これは、ああ、理解ができないのに、理解が襲って来る」 

 何十億なんてもんじゃない。何千兆、いや、数限りない。皆言語ならぬ言語を話すが、それが全て通じるのである。犬猫牛馬は、むろん、魚類爬虫類両生類、草木や虫、菌やアメーバや有機分子や火や水や酸素や光やエネルギーや空間や時間や無までも。さらには鬼神や羅刹や魑魅魍魎や神仙や天人や神霊や天使までも。ありとしあらゆる、なきとしなからん一切が。凄まじい光景、凄まじい騒然、凄絶な寂莫。にんじんとキャベツが必死に議論していた。

「動物を食うのが可哀想だと言って、我々野菜ばかり食う奴らがいるが、まるで我々には生命や知性がないみたいじゃないか。人間と同じかたちの知性でなければ、知性ではないと思っている横暴さよ。仮に我らに知性があるのがわからないとしても、我々も生命である。少なくともそれは動物と同じだ。人間と同じだ。

 だったら、何も考えないでウサギをただ食う丈の虎の方がまだしも残酷じゃない。菜食主義者どもは我らの生命を否定した上で、さらに喰らう。

 我々だって生きているし、思惟も感情も文化もある。彼らに見えない丈だ」

「知性がある(喜怒哀楽がわかる、共感できる、人間と同じ)者たちを殺生するのが哀れという。じぶんたちの価値観が全てだと考える専制君主のような考え、思慮の不足、客観平等の智慧のなさ、じぶんらの常識が全てだと思う愚かさ。つまり、理解できないものに対しては、何をしても善いと考える幼稚な暴力だ」

 僕はなるほどと思いながらも、だからと言って何も食べられなくなってしまっては困る。牛を食ってもいいなら鯨を食ってもいいし、犬を食ってもいいなら人間を食ってもいい。そういう理屈にもなる。いや、全く困った問題だとも思う。解決不能だと思うのであった。

 もしも、知的な生き物は食べてはいけないとするならば、知的な生き物と知的ではない生き物との区分は、どこで線を引くのか。どんな民族も納得し、どんな文化にも受容され、万民が正しいと思える線引きは。あゝ、ヨーロッパ中心主義の植民地支配的暴力よ。人間の多くはじぶんが育った文化や価値観が全体の一部でしかないことを自覚できない愚かな無自覚者だ。

 そうこう嘆いているうちにもまた、次のような者たちをも見る。すなわち、有史以前に忘れられ、名も遺さぬ尊き古代の霊が、

「我ら崇高な、木や岩や清流や、海や空や月や星々の霊が数えられるものだと思っておる無礼な連中がおるわい。数値化できるは、ただ、物的なもの丈じゃわい。数えられるは、礫や林檎や鳥獣の類」

「それを言うなら、もっと無礼がおるわいな。わしら萬物萬象に遍き自然の霊には異も背くもない。古代自然の霊にして完全無欠なる我らならば、異他も異端も背反・叛逆もないわいな」

「空想とは怖きものかな。それでも、人を争わせ、人を死なす」

 しかし、それを聞いていた愉しき森の嘲笑者たちや、大審問官の衣服を着た悪魔たちがせせら笑った。彼らは民衆への阿諛追従者でもあった。

「しかし、それを民の罪とは言えまい。実際、この世は理不尽と異逆と矛盾と非道と悲惨とに満ちあふれているから。民が言うもわからないではない」

 どうにもならないことだ。実際、どうにもならなかった。もはや不動・固定の現実の非情性は、全く唐突で、どうにもならない。僕はそう考え、憂鬱になった。

 又、不思議な観を呈するのが無の出席である。無は席がない。それが無の出席なのである。つまり、ないところに遍満している。それが無である。何処も彼処も無の席なのである。無のプレゼンス。

 そして、それ以上に見たことも聞いたこともない、考えられない在り方の存在者たち。恐らくは全く違う異世界の存在者たちなのだろう。それがどうして見えてしまうのか、不思議でならないのだが、どうにもこうにも言葉にも概念にもできないやり方で見えてしまっているのである。

 真兮くんが笑いながら、僕を振り向く。

「どうかね。興味深いことばかりであろう、最初は。そして、人々がいかに偏った考えに縛られているかが、幻を見ているか、現実を知らぬか、思い上がっているかがわかるであろう」

 すると、普蕭くんも言う、

「人間は自己中心的だ。超越的ではない。じぶんの感覚や価値観が当然で、かつ、自明だと考えている。癡(おろ)かだ。自己を超えられないことは癡かさだ。

 だから、智慧は大事だ。超越、脱自、自由叛裂、客観性は大事だ。自己超越の果てにある超絶無際限なる客観性こそが悟りの領域だ。

 真なる人は解脱、悟りの境涯であるべきである。涅槃を究竟すべきである」

 ……それはそうだけれども、凡俗の僕らには難しい。それも自然淘汰か? 僕のような者たちは生き残れない? 生き残るべきではない? 滅ぶべき存在か? 普蕭くんは鋭利、かつ、怜悧だが、それゆえに峻酷でもある。僕は応え、

「想像を絶すとはこのことでしょうか。世界への認識が根底から変わります。確かに、解脱とはこういう経験なのもかもしれません。説明できません。思惟不可能、理解が難しいなどというレベルではなく」

 普蕭くんが笑いながら真剣に言う、

「理解が難しいのは、意識が制御するからだ。

 我らが尾を噛む蛇(躬らを喰らう蛇)を理解し得ない、思い描きし尽くせないのは三次元の空間に生きているからだ。空間を(現実を)どう観るかは意識が制御する。三次元空間での動きしか理解できないのは、意識がそのように限定するからだ。意識が指示する。〝ここまでだ!〟という限界の表明に他ならない。固定の時間、固定の場所、固定のかたち、固定の名称、固定の概念、固定の固定だ。僕らの意識は三次元空間の思考で閉じられている。

 ともかくも、僕らにとって、四次元以上の次元数の空間の世界、又は二次元以上の次元数の時間の世界の在り方は異様に見える。想像を絶するかに思える。

 たとえば、君は四次元空間を空想できるかね」

「できそうもありません。できそうな気がしないのです。何かが思考や意識を塞ぐかのように。

 三次元の空間は上下左右前後の三本の軸のそれぞれがいずれもその他二つの軸と、直角に交わる座標によって表現される空間ですよね。

 四次元の空間は直角に交わる直線軸がさらにもう一つ加わることによって表現される空間ですよね。

 運動できる範囲というか、動ける方向が僕らの世界よりも一つ多い世界。僕らの三次元空間の世界よりも動きの選択肢が多い、自由度が高い空間ってことになりますか。ざっくりですが。

 球体に閉じ込められた人が球体を破らずに、ヒョイっと外へ出られるような動きが可能な空間、って聞いたことがあります。ですが、僕には想像もつきません」

 普蕭くんは眉間を人差し指と中指とで抑え、 

「思考の型が三次元の空間のパターンで固定されているからね。仕方ないのさ。空想にも描けない。ごもっともだ。

 空間の座標軸が一つ増えるということは、君の言うとおり、運動の自由度が増えるということだ。箱を閉じたそのままで、ひらりと裏返す、とか。

又は、袋に入れた猫が、袋の口を縛られたまま、内側と外側とをひっくり返して外へ出る、みたいな。袋の外に絵柄があれば、袋を閉じたまま、絵柄を内側にできるようなイメージかな」

 僕は額に手を当てる。眩暈を覚え、頭が痛いような気がしたのだ。

「何だか、わかりそうで、上手く言えない。でも、なぜ。焦燥するようなことではない。別に、どうでもいいことのはず。もどかしい感じです」

脳裡を魔法のスペルが廻り、金胎両部の曼荼羅が華やぎ、Joujouka(ジャジューカ。モロッコにあるスリフ族の村に伝承される音楽で、スーフィーを起源とし、こころを浄化する「バラカ」を内包するとされる神聖な音楽。なお、スーフィーとはイスラムの原理に従い、神以外を放棄して清貧・禁欲・苦行の実践により神と一体化を体感し、魂を浄化する神秘主義者。開祖がスーフ(羊毛)製の白く粗い質素な長衣を着ていたことに由来する)の音が響鳴する。万華鏡のような動きをしていた。

 対照的に、普蕭くんは愉しそうですらある。

「これが五次元や六次元、七次元八次元ともなると、もっとややこしい。運動の自由度は想像を絶する」

「いや、もう四次元で十分に絶しています」

「量子力学的には、十次元の空間と一次元の時間とで十一次元時空ということになっているらしいが、我々は百次元空間や一兆次元空間など、無際限に次元の数があると考えている。実数・虚数など一切を含む無限複素数次元の空間、無際限無極限自由、一部のみの網羅も、非全網羅すらも含む全網羅、そういうものには、かたちがない。それが絶空だ。いずれにせよ、路傍の石さ」

「それも勘ですか」

「いや、自明な、証明不要の理さ。かたちがないからね。

 ただ、意識が制御して世界を分別している。意識と言っても、普通に考えるような意識というものではない。

 世界が意識だ。それは「客観世界というものは幻影で、世界が意識によって構築され、捏造されている」という意味ではない。逆だ。客観世界が意識なのだ。主観意識はなく、客観世界のみがある。〝客観世界〟がね。それが僕らの意識なのだ」

「真兮くんからも何度か聞きましたが、その高説がよくわかりません」

「僕らの脳裡は脳裡のうちになく、客観世界じたいだ。それじたいだから、むろん、全網羅、全合致、全不異だ。なぜなら、強いて言えば、自由・零・空(=非空・絶空・超絶に超越的な超自由)がゆえに、ってことさ。さっきも言ったがね。そんなことがあって悪いという定義がない。自在奔放狂裂さ。

 だから、この世界は無数次元の世界なのさ。無数次元の世界の自由度は無際限だ。途轍もない狂裂さだ。狂裂だから、無数次元数の世界だ。

 僕らの三次元世界は三次元世界で留まる意識で、三次元世界が三次元世界しか見せないから、僕らは三次元世界しか普段は見ない。そういう考え方さ」

「あなた方の言う意識は普通の意味での意識ではない。そこはわかっているつもりです。でも、まだ腑に落ちていない」

「意識は現実だ〝外部の客観的実在〟さ。

 無限複素数の次元がある。自由度は無際限だ。ありとしあらゆる動き、ありとしあらゆる在り方が可能だ。かたちがない。意識がそれを采配する。二次元、四次元、五十次元、八千億次元へとね。そして、そのそれぞれのうちで、現在・過去・未来に區劃される。區劃されなければ、區劃されない。ただ、それ丈だ。何せ、全てはかたちなく、かたちないというかたちもないから。だから、全ては(だから、同時ではない)〝同時〟に存在すると言える。よって、誰もが既に未来を見ている。そうでなければ、予知など可能なはずがない。

 面倒臭い言い方になるが、全ての次元の世界に於いて、その世界の過去・現在・未来が〝並列〟〝混在〟しながら、〝同時〟〝異時〟に〝一体〟〝別々〟で〝同じ〟〝異なり〟在る。要するに全網羅の原理さ。

 ありとしあらゆるもの(又は時と場所が)もまた、さようにある」

「もし、そうであるならば、予知夢が実際にあるということも、全く不思議ではないということになりますね」 

「どうかな? 予知夢には他の要因も考えられる。そもそも、あらゆる想念は漠然とした感覚を構築した捏造物だ。解釈だ。ある不特定の漫然たる想念が後に実際の経験と結びつけられ、あたかも、その経験を以前にも観たことがあるかのようなきぶんになる。ふ。ありそうなことだ。

 いずれにせよ、真の真においては誰もが現在過去未来も含め、一切森羅万象を知っている。沈む船からネズミは逃げる。誰にも教わらなくとも、生まれたばかりの仔犬は母の乳に縋りつく。鳥は巣を構築できる。向日葵は太陽の方へ向く。だから、アカシック・レコード(虚空蔵(あきゃしゃぎゃるば))もある。人も獣も草木も菌類も有機物も無機物もそれ以外も含めた森羅万象は皆、本当は全てを知っている。

 僕らは皆、アカシック・レーコードのなかを生きている」

「凄過ぎて、思考が追尾できません」

「まだまださ。もっと狂裂に。イタルのように、ね。

そうさ、まだ、こんなもんじゃない。それ丈のことじゃない。

 次元の数が異なる異世界丈が異世界の全てではない。そもそも、軸の数など関係ない異世界もある。時間や空間を座標では表現できない、いや、時間とか空間ではない世界という世界とその住人たちがいる。そのことはもっと理解し難い。まるで、異質、根底から異なる概念、概念などに成りようもないは世界だ。世界とは言えないかもしれぬ。

 自由自在、自在無礙、無際限自由、絶空、自在狂奔裂なのさ、何の理由もいらない、何があってもおかしくない。じゃなくちゃ、物理法則生誕以前であった宇宙開闢が起こるはずもない」

 確かに、空間や時間がない時代に、物理的な法則があるはずがない。時間がなければ、宇宙開闢の時点を特定できるはずもない。それは、すなわち、今でも、明日でも、よい、ということになる。あゝ、何と言う自由か。何と自由なことか。もしもそうなら、本当にそうであるならば。

 元来、一切は自由であることが本質で在るとするならば、見たこともない、見ることもできない、かたちのない、異次元的な、いや、それ以上に全く異質な認識でしか捉えられない存在者たちがいたとしても、それは道理であった。

 だから、唐突に存在があっても、おかしくはない。

 もう、この問題は未遂不收のまま、放置した方がよさそうだ。皆、日々現実を生きている。焦燥する僕の思惟の狂った狂言妄言戯言につき合う暇はない。皆、日々の生活に忙しい。腹の足しにもならぬ与太話につき合う暇はない。

 あゝ、そうだ。虚しいことだ。虚論だ、戯論だ。生活に還れ、事象へ還れ。

 真兮くんがふっと応えた。普蕭くんに比べると、彼はいつも飄々として端的だ。

「別に、それも悪くない。そういうことさ。在ったことが現実だ。存(あり)しことが真実さ」

 そうか。この現実、今生きる実存。定義のない(という定義もない)このまま、未遂不收。

 ただ、理由もなく、現実であるのみ。現実丈。唐突に、朴訥に、在る。不可思議もなく、曖昧もない。全てはっきりしていて、不明解な点はない。途方もない自由であった。路傍の道祖神が草叢に在った。それが釈迦牟尼如来だ。なぜなら、釈迦は鍛治工の子チュンダの料理を食べた後、食中毒とも言われるが、血痢などの症状のある病に罹った。苦痛を堪え、旅を続ける。クシナーラーへ着き、「疲れた」と言った。沙羅双樹の間に横たわる。「喉が渇いた水が飲みたい」と求めた。かくして、竟に偉大な聖者、釈迦牟尼如来は亡くなられる。老いさらばえ、窶れた老人の亡骸となって果てた。清(すみ)み明(あ)けき崇高の美を帯びている。喩えようもなく、燦々たる黄金のオーラを霧のごとくに漂わせていた。それは又、一人の老人の死であった。



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