第10話 眞神神社

 叭羅蜜斗くんが言う、

「あの中腹に見えるのが眞神の大御社、眞神神社だぜ」


 石の壁面をぐるりと廻るように神社の廻廊が附築されている。奇観だ。帯のようだ。又は裳階(もこし)のある胴巻き(そんなものが存在するはずもないが)に見えなくもない。


 聖域を囲む環濠のようにも見える渓流には。粗野な石造りの太鼓橋が架けられていた。欄干の初めの一柱に『波羅蜜』と彫ってあった。風雪に磨られ、相当古いものと感じられる。


 波羅蜜はパーラミーター。サンスクリット語で、意味は到彼岸。彼岸に至る。つまり、此岸(この世)を超越して向こうの世界、悟りの世界、解脱の世界に逝くということだ。なるほど、激流を渡る橋に相応しい。


「西暦で言えば、二八七年に竣工した。それまでは木製でね。彝之魁偉太朗という巨軀の男が氏子にいて、橋が壊れたから石にしたと伝えられているが、ちょっと眉唾物っぽいかね。身の丈が三丈(約九百九センチメートル)、体重四千貫(約一万五千キログラム)ということだから。アフリカ象よりも大きい。超豪傑だった、って話さ」

 そう言って笑った。


 僕はそれよりもこれから逝く先をみて、血の気が引く。橋を渉った先は桟道であった。垂直の石の壁に、直角に刺した丸太や石材をステンレスのような金属で補強してできている。僕は恐る恐る幅百五十センチメートルほどの桟道を登った。冷や冷やする。彝之魁偉太朗は『波羅蜜』橋よりも、よほどこっちの方が逝けぬと思うが、やはり、伝承は民話にありがちな誇張か。


「実は旧式の外附エレベーターがなくもないが、正統派はここを登るのが常だ。最も上古は岩をよじ登ったという説もある」

 いずれにしろ、信じ難い。


「命懸けですね」

「昔はな。経験は大事だ。どんな言葉よりも叡智を鍛える。現実でしかわからない、真の叡智をな」

 と言い、僕の後ろの叭羅蜜斗くんがさも愉快そうに笑う。そこで僕は経験知という言葉を思い出した。経験知とは、日常では経験してその知識があることなどを言うが、もともとの哲学術語の意味はそうではなくて、経験でしか理解し得ない知識のことで、たとえば、自転車の乗り方などのように、知識や考概で得ても意味がない、経験でコツを覚えるしかない類の知のことだ。密教の身口意の三密も、それと繋がっているかもしれない。


 欄干は桟を斜め四十五度で支えるステンレスのような金属と直結した金属で、漆のように黒く塗られ、彫りや装飾があった。しかし、僕はその欄干には近づかず、壁面に縋るように逝く。掌で触れながら、沁み〴〵と見れば、岩肌には味わいがある。粗く嶮しくも深く、儼しくも複雑な精緻さを持つ。知性をも感じた。言語ならぬさまざまな情報が怒涛のように伝わる。大して歩かないのに疲れた。


「だいぶ苦しそうだな、土埃くん。少し休むかね?」

 彼が指差すところを見れば、窪みが穿たれ、石の椅子がある。椅子は置いて在るのではなく、彫られていた。


「こういう休憩場がこの先にも、いくつかある。気楽に行こう。

 人類は狩猟から農耕に移行する過程で、安定を得た代わりに自由や勇壮を失った。農耕は朝から晩まで、毎日、みっちり仕事がある。効率的な方が良い。狩猟生活は違う。過酷な時に氣を集中するが、獲物さえ得られればそれ以上はない。戦いは常に気宇を鼓舞し、誇りや勇気が試された。荒まじくはあったがね。

 まあ、そういうことで、少しずつ解放されながら、ゆっくりと逝こうか」


 すると、窪みの奥の陰から、

「やあ、来たね」


 普蕭くんが幽玄と坐っていた。

「ようこそ、土埃くん、さあ、休んでいきたまえ。僕はね、もう体力がないから、この先を考えて、大いに休んでいくよ。

 のんびり休む、それがいいさ。悠々と流れる雲のようにね、天地自然と一体となってね。あくせくするなんて莫迦莫迦しい」


 暗かったので、ライブの時と同じ服装に見えた。やはりあれは衣装ではなかったんだ、と思った。


「ふむ、ふむ」

 真兮くんがパイプを出す。キャラバッシュパイプだった。昔、劇場の俳優がシャーロック・ホームズ役の時に使ったアイテムだ。

「そうするか、さあ、土埃くん、小生らも坐ってみないか。一望できる」

 そう言って坐り、メシャム(海泡石)の火皿に煙草の葉を詰めることもなく、ただ、咥えた。僕も坐る。良い心地だった。開放的な光景だ。それが第一印象、こころが死への畏怖から解放された。刈り終えた田んぼと丘陵と山脈と蒼穹。素朴な景色だ。秋をしみじみ想う。中枢にある広い田は畦道を碁盤の目のように整然と配するも、その末端は複雑な形状の丘陵地帯の谷へ深く入り込んでいる。何でもないようでいて、吸い込まれるように心地よかった。涼やかな風が額の汗を乾かす。絶景だ。

古来、明媚なる良き風景には、神がいる(もしくは神性がある。同じことだが)と信じられ、災禍を蒙ることのないよう、歌を奉じて荒御魂(あらみたま)(いや、和御魂(にぎみたま)であっても)を慰撫したと聞く。今日的な、良き景色によって感興し、歌でも吟じようかということとは全く違っていた。歌には祭祀的、古くは、呪術的な意味があって、それが生活に密着していた。


 道殣者を悼む歌も、怨霊にならぬよう鎮魂するのである。


 僕は理を超えておのずと観取し、感得した。神聖な気持ちになる。


 山や岡に囲まれた眞神の水田は、恐らくは古代には入江だったのだろう。一万九千年前、北米や欧州北部の氷床が融解を始め、海面が上昇し、日本では約七千年前に海面が今より百メートルくらい高くなっていた。その後、増大した海水の重みで海洋底が沈み、マントルが陸側に移動して陸が隆起し、海は後退したように見える現象となる。縄文海進と呼ばれるこの現象は氷床から遠く離れたところでしか見られない現象で、氷床のあった地域では逆に氷床の重みがなくなり、陸が隆起していた。


 地球の鼓動を感じる。あるいは、神の崇高か。


 蒼穹を見上げれば、それは鼓動に応じるかのように鳴響し、どこまでも青く、どこまでも無際限に拡がり続けていた。自由、神のように無限なる自由、狂気にも近い、超越をも超越する自由、空気のように、世界に遍満する。


「扨、逝こうか。普蕭くんはもう少し休むか?」

「あゝ、そうするよ。きよらかな風だ。急ぐのは体に悪いね。魂を瑕つける。何事も閑静に、細やかに逝きたいね。寂莫に。まあ、すぐ追いつくさ」


 僕らは再び歩き出す。しかし、早くも再びバテてきた。普蕭くんの休む意味がわかった。意外に体力ある真兮くん。ソクラテスもそうだったらしいが。僕は息も荒くなり、風は乾いて涼しいが、体が熱くて、汗が流れた。初秋のこの辺りは結構、寒いが。少し休もうかと言い掛けた時、

「一の鳥居さ」


 真兮くんが指差す。顔を上げた。鳥居だ。素材は黒い石のようだが、なめらかと言うか、きめが細かい。

 真兮くんが言う。

「讃岐岩だ。非常に緻密で、固い。叩いてみたまえ、高く澄んだ音がするであろう。

 さあ、よく見てみたまえ。とても細い流紋がガラスのように光っているのがわかるかな。黒曜石が象嵌されているのだ」

「凄い、見たことがない」


 僕は美しさに恍惚とした。全体に明神鳥居のようだが、彫りや造作があり、繁縟だ。流紋も彫も黒くて目立たないが。 インド古代の仏教門トーラナや中華の牌楼を聯想させる。それでいて日本の粛たる清楚な佇まいを見せていた。


 扁額には『裂』とある。こういう場に掲げる文字としては、非常に珍しいものであった。聞いたこともない。真兮くんに尋ねると、

「ま、小生らが民の独自の、ある意味、術語みたいなものかも知れないな。

 意味は、読んで字のとおりだ。その趣は、躬らを超越し、躬らを裂き超える、ある種の狂気、掟を破って禁制を超え、定めを、定義を超え、かたちを超えて、自由に、新たな地平へ、無限の彼方へ、無際限に狂って裂く、狂ったように牽き裂く。狂い咲く。そうさ、裂くは咲くに通ず。又は幸(さ)くに通ずるのだ。

 真幸(まさき)くあれ。ただ、その幸せは普通の幸せではない。

 いかなるものや、いかなることにも囚われない。世俗の価値観に囚われない、事実上の無空、無空にも囚われぬ絶空、寂滅為楽(じゃくめついらく)ってことさ」


 絶空? それもあまり(いや、全く)聞かない言葉だ。


「それも眞神独自の言葉ですか」


「絶空のことかな? そうだね」


「それって、まさか」

 僕の頭に唐突に、それが啓き閃いたので、

「イタルくんは、それを」


 叭羅蜜斗くんが鼻尖で、音を立てずにへッと笑った。真兮くんは静かに微笑んだ。僕も何もそれ以上は言わず、いや、言えなかった。


 何か、とても怖くて。又、恐れ畏(かしこ)みて、近づき難くもあった。


 世の価値を超える。それは親の悲嘆も顧みなかったということか。僕は釈迦の弟子で、幼い子と若い妻とを顧みずに捨てて出家した青年のエピソードを思い出した。釈迦がそれを賞讃するエピソードだ。確かに、出家とは本来、そういうことであった。


 桟道をさらに逝くと、中途に唐の時代を思わせる四阿(東屋)のようなものがあった。そこを潜らないと進めない。

「手水だよ」


 水盤があり、龍頭が三つならんで水が垂れていた。手を清め、口を漱ぎ、笏に水を注いだ。心身を齋(いみきよめ)た。儼肅なる儀式だ。

「下の渓流から水圧で、ここまで上げているんだ。古代からある給水のための絡繰りで、二千年近く変わっていない」


 渓流から二十メートルくらいか。

「さっきから伺っていると、日本の歴史とかなり懸け離れているようですが」

「むろんだ。もともとは異民族だから。眞神族は二千七百年前に日本に上陸した」

「すみません、途方もなくて理解不能です」

「諄々に話すよ。まあ、まずはご覧あれ、百聞は一見にしかず、さ」 


 二の鳥居が見えてきた。

 扁額には『天網恢恢』とある。

「天網恢恢疎にして漏らさず。老子の言葉だったように記憶しています」

「これは二千五百年前に彝之奕仁(やくに)が崑崙山で太上老君から直々聞いた言葉と伝わっている」

「本当ですか」

 冗談かと思う。そう思うのが普通であろう。僕は真兮くんの顔を見た。叭羅蜜斗くんが金髪スパイキーを掻きつつ、

「嘘みたいだろ? へへっ」

 と言う。

「どっちなんですか」


「まあ、一応、本当ではあるが、所詮、現象だからなあ」

 真兮くんがどちらとも受け取れる言い方をする。曖昧と言うよりは両義的な。

 何だか、狂人たちの集団妄想につき合っているかのような、疑惑と不安の気持ちが大いに擡げてきたが、真兮くんを信じたい気持ちも強くあり、じぶんでもわからないまま、考え考え、

「現象だからって、いったい。

 つまり、それって、五蘊(色・受・想・行・識)だからと言うことですか」

 人はじぶんが欲しい答を勝手に想い込むものである。


「五蘊か」

 真兮くんは、ちょっと違うなあ、とも読み取れる表情を醸す。


 僕は有名な経典を思い浮かべていた。仏教徒の間では宗派を超えて誦される短い経典。『色空 空是色 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色』が一番知られているが、僕にはさらに興味深い聖句がある。ちなみに、最初の『色空 空是色』は玄奘の翻訳では省略されているが、サンスクリット語の原本には記され、鳩摩羅什訳などには翻出されている。


 照見五蘊皆空。


 この聖なる句だ。照見とは事実・本質を叡かに見ること。般若波羅蜜多心経の一節である。色は受(感受)の原因となる因子のこと、受は色を感受する感受作用、想は感受による表象作用、行は表象したものを構築する作用(諸行無常の〝行〟である)、識は構築されたものを物事とする認識作用(=物事それじたい)だ。


「世界は五蘊というと、君はどう感じるかね」

「どうって言うと」

「感覚作用や知覚作用が世界を構成すると言うことは、現象学的には自明なことのように思えるであろう」


「現象学、フッサールの現象学のことですか」

「そう。何かが在って、感受が起こると普通の人々は考える。しかし、感受する者の本来の立場から言えば、実際には、そうではない。人は(人に限らないが)現象が起こって、その起因である感受作用があると知り、感受があるからには感受の起因となる外的な実在物があるはずだと、経験的に推論しているのだ。

 ちなみに、感受した信号を現象として構築するフォース(力・構成力)又はアルケー(原理、又は棟梁)をロゴスという。仏教的に言えば、法(ダンマ)というところか。いずれにせよ、実際には、わかったという気分を醸成・捏造しているに過ぎない」


 真兮くんは冷ややかに微笑み、言葉を継なぐ、

「小生ら眞神の伝統的解釈は現象学とは、似て非なるものだ。五蘊の考えもまた、現象学とは異なる。

 小生らの考えは以前にも示したが、意識やこころを内的な作用とはせず、それが客観的な実在であるとしているというものであるが、同じ話をしても仕方があるまい、今は端折るとするよ」


 僕はまだ頭に馴染まなかった。

「いや、確かにそのお話は以前にも伺いましたが、未だによくわかりません。僕は従来、全て存在するものは人の感受や知覚に基づく認識作用から創り出されていると考えていました。


 色彩がよい例です。色彩は存在しないけど、光の波の長短を視覚が感受して脳髄で解釈し、色彩として構築、すなわち、一定ルールで創作している。実際に色彩は存在しない。ただ、物質によって吸収しやすい波長や乱反射させやすい波長がある丈で、乱反射した波長の光線がその物質の色彩として構築される。緑の葉は特定の波長の光を反射させ、人はその波長を網膜で捉えて緑として解釈して緑色を観る」


「音も匂いも味も触覚も原理は皆同じで、それとしては物的に存在しない。まあ、そういう理解でもよい。理解なんて大した違いじゃない。所詮、考概だし、インパルス(神経細胞内で発生する電気的な発火現象)に過ぎない。ケミカルな現象でしかない。無味乾燥、無色透明だ」


「そういう理解でもよいとは。それも正しいということですか。他の理解も正しいけれども、それも正しいという」


「まあね。空と空とに差異はない。崑崙山のエピソードも実在しない」


「そんなことを言ったら、何もかも」


「むろんさ」


「では、感受や感覚作用や知覚作用や認識作用(これらは僕らにとって実存です)の起因となっている存在が実在は存在ではない、と」

「ふ。君は空を何とこころ得る?」


「空、空をですか。難しいです」


「ふむ、そうだろうね、たとえ、僧侶である君であっても」


「はい。しかし、今は還俗してしまい……」


「しかし、学んだはずだ。それに、沙門であるということは、制度ではない。こころのあり方だ。志だ」


「体験でしか知り得ない。そう思っています。禅宗の教えでは、『不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏(言葉によらず、経典の別に伝えられる。人心と仏とは同じで、それを直截導き、自己の仏性を見出して解脱する)』が基本です」 


「ごもっとも。だが、だからこそだ。敢えて、口先丈で言い切って構わないのさ。ふ。さあ、空とは、何かね」


 僕は落ち着こうとして眉間に指を当てた。作麼生・説破のときのような緊張が奔る。

「言語的には、サンスクリット語のシューニヤ(舜若、शून्य)です。意味は『零』です。欠如、缺を表し、〇〇がないことを意味します。

 物的に存在がないこと丈でなく、抽象的な概念であっても、その存在がないことを意味します。

 かたちがない、特性がない、など。

 僕はあなたから、かたちがないということの凄さと現実性を教わりました。空にかたちがないとわかってはいたのに、惟いが至っていませんでした。

 かたちがない、って、凄いことです。無も、空も、考えのなかに在るときは、一つのかたちですから。かたちがないってことは、いかなる考概が画く輪郭のうちにも収まらないということです。むろん、今述べているこういう考概にも、です。

 どんな結論も遂げられない、どんな想いにも着地していない。それって、想い描けないということで、想い描けないと想ってもダメです。そして、だからこそ、それが現実である、と」


「ところで、君、土埃くん、還俗したんだよね。何と呼べばよいかな?」


「はい。俗名、つまり、世俗の本名ですが、草葉あきらです」


「そうか。草葉くん、では、天網恢々の意味を言いたまえ」


「えーと、確か、天の網は、ゆったりのびのびひろやかで、網目も疎ら。粗い(大雑把)ようにも見えるが、精緻細密で何一つ漏らさない。天羅地網、悪事を逃さない、天罰覿面みたいなニュアンスを含む意味でしたよね」


「然り。然り。

 何一つ漏らさないって、どういうかたちならば、そうなるのであろうか。わかるかね」


「かたち?

 そうか、かたちがあっては、かたちが合わないものができてしまう」


「そのとおり。そのとおりなんだが、それは、君が言ったとおり、なかなか得難い概念だ。普通の理解では至れない。かたちがないということもまた、一つのかたちを形成してしまうから。

 全てを網羅して餘すところがない、ということは、論理的に(そう、飽くまでも論理上なんだが)大いなる矛盾を生む。矛盾しなくしては成り立ち得ない。とは言え、矛盾ということじたいが論理(という措定(かりおき)されたもの)に遵って、捏ねて造る拵えものでしかないのだがね。

 事物であると事象であるとを問わず、抽象概念であろうと、何であろうと例外なく、全てを網羅する、としよう。全てとは、むろん、一切全てだ。何もかもだ。何であろうとも、どれもこれも、考えられることも、考えられぬことも、見境もなく、禁忌もなく、だ。ありとしあらゆるものやこと、なきとしなからんものやこと、それら一切全て何もかもを超えて、一切全て何もかもだ。一切全て何もかもではないということをも含めて一切全て何もかもだ。

 全てを網羅し、もはやそれそのものとなって異叛違互がない、畢竟、肯定とも言える。異叛違互がない全肯定だ。全てと齊しい。全肯定ではないという状態であることも、このことと異叛違互しない。全齊ではないという状態になっても、異叛違互ではない。全否定や、一部の否定や、一部肯定である状態にあることも、矛盾にはならない。かたちがないということは、そういうことだ。論理上はね。

 そう、飽くまでも論理上のこと。論理という、措定された球体の内部丈で、堂々廻りをする戯れに過ぎない。『善』の説明は『善い』であり、『善い』の説明が『善』であるというように。虚しい設定上のことだ。措定。仮。捏造。架空。全く解決のない零だ。どうしたって、空疎にならざるを得ない。どうしたって、同義反復(ταυτολογίαトートロジー)になる。どうしても、どこかを端折る、どこかを無条件で是認して前提としなければならなくなるからだ。どうしても、臆断になる。誤魔化しが残る。 

 零から証明することが不可能だからだ。どうしても最初の一歩は無条件に証明なしで是認された前提が必要になる。それがないと足掛かりがない。出発できない。純粋に論理丈で構築された完全証明は(根拠は不明だが)実際問題として、ない。

 結局、未遂不收のままさ。李朝の普段使いの茶碗の侘び、枯葉を濡らす雨の秋の午後の寂び」


「李朝の茶碗……。

 いや、いや、まだまだ、理解できません。言っていることは、一応、わかりますが、感覚に馴染まない、って言うのか、つまり……、その。

 腑に落ちるような安心はありません。人は理によってものを解しているのではなく、経験によって感覚に磨り込み馴染ませ、納得という感情を醸している丈であることがよくわかります。

 こんなじぶんの状態をよく閲してみれば、確かに、考概による概念もまた、決して本質あるものなどではなく、風雨や、干潮や、(あなたが先ほど言った)化学的な発火現象であるインパルスや、食物を消化する酵素の作用のような、天然自然の現象であることがわかります。経験的に感じ取ることができます。物的な存在であることが何とはなくわかります」 

 と言いながら次に向かって進む。歩きながらも、僕は想った、でも、生活に支障はない、と。だから、人は皆、眼を逸らし、忘却する。日々忙しく、生きるに精一杯。仕方がない。それが現実を生きるということだ。


 三の鳥居が見えてきた。シンプルな木造の鳥居だ。無垢で凛としていた。僕は感嘆し、思わず言う、

「何だか清々しいですね」


 清浄なる空気が流れていた。空気の変化は高さのせいか。きよらかであるということには、深い意味があり、概念にならぬ哲学がある。思考ではない真理がある。聖なることを感じた。聖なる力によって齋戒されたかのごとく、さやかで神聖な気持ちが高まる。扁額はないけれども、最も崇高な文字の刻まれた扁額があるかのように感じられた。さらに隘路を進む。


 桟道は古くてところどころ欠けた石段に変わり、岩壁に張りつくような楼門があらわれた。深淵のように昏く美しく奥深く濃い緋なのに、眼が痛くなるほど烈しく鮮やかで眩い、楼門。


 壁龕のような洞に大御社はあるのだ。楼門の幅は十メートル、高さは幅の倍はある。両脇から壁が始まっている。壁の高さは五メートルくらい。その上には瓦屋根があり、廻廊をなしているようであった。


 楼門の扁額には蛇の意匠がある。


 躬らの尾を噛む蛇。原蛇ウロボロス。躬らをすらも喰らい尽くす蛇。喰らい尽くせるのか。少なくとも、僕らの三次元空間では、そんな動きは不可能だ。


 もしかしたら、四次元の空間ならば、可能なのか。五次元、六次元ならもっと可能なのか。空間の次元数が増えるということは、運動することが可能な方向が(現在、僕らがいる三次元では左右・前後・上下という三つ)増える、ということだ。運動方向が増えれば可能かもしれない。


 だが、もしも、可能だとした場合、喰らい尽くす蛇は喰らわれ尽くされて喰らうことができたのか、できなかったならば、喰らわれ尽くされずに喰らい尽くせるのか。

 わからない。僕らの思考は空間の次元数に制限されている事実を感じた。純粋な論理は無条件な零から出発するのが論理的には理想だが、それは不可能だ。


 そもそも、概念の全て、考概することの全てが臆断や思い込みではないか。純粋ではない。でも、なぜ、純粋論理でなければならない?


 僕は再び見上げた。事象に還ろう。事実に。


 一色しかない、その壮麗な門の左右は廻廊で、瓦屋根や裳階がついている。これが帯、又は胴巻のように見えていたのだ。一辺が百メートルだから、楼門の幅を除くと、左右のそれぞれが四十五メートル先で直角に折れているはずであった。その全てが濃厚であるが鮮烈なる唐紅に塗られている。大動脈からあふれる深い緋色を聯想させ、生命を思わせる。聖なる霊妙を。八卦における乾、陽の極致を。


「古伝によれば、深く濃く鮮やかな赤(又は唐紅、又は緋色)は陽の極致でありながら、強烈が過ぎて、苛烈過ぎ、畢竟、非を意味する。奇しくも緋も非も大和では同じ音を用いる」

 真兮くんが誰に言うともなく、言った。進む。


「え」

 くぐると、眼の前は、またもや門であった。ストーンヘンジのような巨石柱の列。しかも、白堊のように白い石だ。タブラ・ラーサ(ラテン語tabula rasa)。白紙の状態。ほぼ、自然石のようであった。


 なぜか僕はその真白を見るうちに、見えるということに眩暈を覚える。


 ものが見える時、僕らはものが在って、在るそれを視ることによって、脳裡にその映像が浮かぶと考えている。しかし、実際の順序は逆である。すなわち、僕らの〝視る〟があって映像が結ばれるから、恐らくはそこに実在があるのであろうと推定している。そういう捉え方が直截だ。


 だが、僕らはじぶんの視覚作用の過程を観察しているわけではない。視認をする時、実際にじぶんが何をやっているかは見えていない。視ることができないのは当然だ。三次元世界では、眼は眼を見ない。物理的に不可能だ。不可能だからだ。


 だから、僕らが〝視る〟は推定でしかない。他人が見ている姿を見て、じぶんも同じくそのようにしているのであろうと推定するが、それを見ているじぶんの〝視る〟が確認・確定できていないのだから話にならない。全ての観察は不確かでしかない。


 じぶんという主体の不確かさでもある。


 そんな不安を煽るように、白堊の石の門の上に、唯一の人工作物と言える扁額があって、墨跡があるが、読めない。文字であるかさえわからない。


 真兮くんたちのコメントもなかった。無記なのか。記別せざる、……か。僕は周囲を見遣る。洞内の高さも深さもかなりあることがわかった。

「これは、社と言うか、石器時代の神域に来たみたいだ」


 よく観ると洞窟の天井とも言うべき壁面が頭上に見えるが、アルタミラ洞窟のような壁画が見える。

 白い自然石柱の門を過ぎると、また門が。


 煉瓦積みの濃くて鮮やかな青。古代エジプトで神聖視された瑠璃(ラピスラズリ)のような青。建築様式としては素材も含め、バビロニアの青き門のようだった。熱砂の国の聖なる青。


「さあ、この先はさらに見慣れない光景かも知れない」

 真兮くんが言うと、叭羅蜜斗くんがヘヘッと笑う。僕はこれ以上どんな驚きがあり得るのかと思った。だが。

「本当ですか、いったい。え?」

 図らずも立ち止まってしまった。


 それは逆の驚きである。何でもない木造の御社であった。無垢の檜か。白く見えた。屋根は檜皮葺。全体に拝殿・幣殿・本殿のある香椎宮を思わせたが、勅使が来るはずもないので、幣殿に見える部分も拝殿なのであろう。


 本殿は二階建てで、浅間造を聯想させた。一階の屋根は左右が切妻、正面が入母屋だが、入母屋の下から流造ふうに檜皮葺の屋根が伸び、それがとても長く、最初は急角度で下がって、途中から水平になり、最末端で反り返り、長さと言い、かたちと言い、見たことがない様式であった。屋根が降下する角度から、又それが水平になる位置から、本殿の床が高い位置にあり、そこへ上がる階が急であることが察せられた。


 また、幣殿のように見える拝殿の左右から透塀が始まっている。それは本殿を囲っていた。

「止まっていても仕様がない。逝くぜ」


 叭羅蜜斗くんの言葉で一歩踏み込む。見上げれば、手前の拝殿には、またもや読めない文字の扁額が掲げられていた。


 真兮くんが言う、

「眞神文字さ。眞神語だ」


 幾何学的だが、藁筆で強く捏ね捻り込むように押し叩きつけられ、四画に見えた。荒巖のようであった。


 僕は問う、

「何て書いてあるのでしょう」


 叭羅蜜斗くんも、

「日本語にはな、該当する言葉がないだろーぜ」


 思わせ振りな言葉で、僕には、疑問が残る丈であった。思惟思考は遂げられず、不安の情も、居場所を求めるこころも、智慧への飢餓も、宙ぶらりんのまま、いずこへも收まらない、いずれのかたちにも收まらないままになる。今思えば、そういう言葉が書かれていたのかもしれない。


 喩えて言うならば、〝存在〟だ。どんな考概でもない。説明でも言葉でも解釈でもない、ならない。唐突で、遠慮会釈のない者たち。別の言い方をすれば、〝現実〟かもしれない。言葉を寄せつけず、どんな言葉も概念も追いつかない。経緯もない、ただ、唐突に。だから、かたちがない。


 だから、木造の御社なのであろうか。そう思った瞬間、途方もない巨大な宇宙のような空間に抛擲された。東西も、上下左右も、中央もここも、ない。呼吸ができない。イオニアの瞳孔の水晶体のように無限に透明な純粋だ。生存が絶滅するかのような純粋過ぎる純粋。気を失いそうになった、魂を簒奪されそうになった。もしも、その時、真兮くんが声を掛けてくれなかったら。


「さあ、上がろう。社殿は社殿、小生らは小生らだ。気にしても、考え抜いても何もならぬ。階を踏もう。昇殿しよう。雲上へ。天へ。聖の聖なる至極の高みへ」


 我を取り戻しながらも、僕は戸惑う。

「え、今はとても……。あ、いいえ、何だか。いや、それに、ここは神聖なる極み、善いのですか、聖域中の聖域では」


「むろんだ。むろん、聖域だが、実際、構わんよ。全てを齊として肯んずるのさ。眞神の大御社の祭神は、一切を潔(きよ)む」


 階を上がる。床は無垢の木、かたちは方丈。四隅の柱があり、手前右が南東の柱、左が南西の柱、奥右が北東の柱、左が北西。北東と北西に榊が奉られている。


 真兮くんが正坐して礼拝したのでそれに倣った。叭羅蜜斗くんは胡座で礼拝し、

「奥拝殿へ進もうぜ」

 そう言った。 


 なるほど、奥拝殿と言うのか。あまり聞かない言葉だが。これも眞神独自か。

 一度、方丈を廻る回廊へ再び出た。それから左側の廊下を(右回り方向に=半時計回りに)進む。なぜ、そうするのか、それはわからないが、作法の理由というものは小賢しく頭で考えるよりは、経験で体得すべきであろう。体験で知るべきであろう。思惟はあまりに限定的だから。より自由になるために。そんなことが自然と考えられるようになっていた。


 正面に至って、三段の階を上がった。


 奥拝殿は檜皮葺屋根の下を壁が囲む。入り口には簾があり、叭羅蜜斗くんが巻き上げる。内に入る。入ると、四方が障壁画である。青龍・白虎・朱雀・玄武だ。僕らは朱雀から入った。ここでも正坐し、礼拝。再び出て、右回りに廻りつつ進む。透塀のうちへ向かった。


 荘厳な水紋の螺鈿が施された黒漆の階がある。白蓮華の龍神に象られた欄干があった。透塀のうちへ入る。段を上り尽くし、本殿の入口の前に。


 扁額には『龍肯』とある。〝龍肯〟。唐突に漢字? しかも、これもまた聞かない言葉だ。


 真兮くんが再び解説。

「君の顔はわかり易いね。小生ら眞神独自の言葉さ。龍神は天空を自在に遊弋する偉大なる神で、大地に漲る氣に龍脈の名が当てられるように、聖なる生命の力の象徴でもある。その龍のごとき、偉大なる、巨大な、聖の聖なる、神なる無際限の肯定という意味さ。

『眞神神統記』の第一書『太祖神』の第一篇『礎』の第一部『彝』の第一章『究竟神』の第一段『清明』の第二節に「太祖イージュは語りて曰く、『清明たれ、龍のごとくに肯ぜよ』とぞ」とある。これに由来しているのさ。

 ちなみに、眞神語では、龍肯と書いて、『ゐい』と読む。『ゐ』は「龍」を顕す。これはあまり大きく言わない。短く小さく言う。その次の『い』という読みは「肯」を顕す聖なる文字の読みがなで、肯定ということなのだが、もっと正確に言えば、言語によって睿らかにされるような意味を持たない。『ゐい』と言うとき、一般に「龍肯」と訳されるのであるが、『い』と単独で使う時は「彝」と表記され、真究竟にして真究極の真実義を顕す」


 何と応えてよいか。


 観音開きの扉があった。左右の扉には、身体を複雑に絡ませる龍の文が浮彫られていた。開く。扉の厚さと重さがわかる。


 内は左右と手前の三方が壁だが奥は空いていた。燭の灯で幽かにわかる。洞窟の奥突き当たる先がそのまま見えていた。


「坐したまえ」

 真兮くんに促され、坐す。正坐だ。


 奥窮の洞壁には『彝』と彫られていた。それはなぜか太陽の光燦のようにきよらかに、崇高なる神聖に見えた。僕は、なぜ、真兮くんがイオニアのところに来たのかがわかった。これはイオニアの青き燦々の双眸である。嗤われるであろうが、僕は真究竟の真実義ということじたいを直截に拝受したかのように感じた。言葉でも意味でも概念でもなく、物質として臓血骨肉の体で直截に、体験で直截に。僕の禅経験は無駄ではなかったように感じた。


「よお、来たな」

 後からぶらりと来たのは〆裂くんだった。相変わらず紺絣に袴、蓬髪を粗く束ねて、脱藩浪士か、風来坊、無頼の浪人ふう。それなのに、精悍な輝かしさ、不思議と燦然たる光背を持った人。それこそが本当の説得なのかもしれない。ふっと尖った鼻先で無音に笑いながら、

「間もなく、普蕭も来る。鳩の足取りでな」


 叭羅蜜斗くんが眉を顰め、少し意外そうに、

「お前も登って来たのか」


「最近は、ここに住んでないぜ。不便だしな」

 〆裂が嘲るように言い、何のことだかわからない僕に、真兮くんが説明してくれる、

「この大御社は彝之家の本家の家屋敷でもあるんだよ。実際、彼らはここに住んでいる。〆裂くんは本家の跡取りなのさ。第五百二十七代目だ」


 僕は呆れ果てた。五百って、何百年か、いや、数千でも済むかどうか。尋ねた。 

「五百代って、いくら何でも。何千年も前から続いている、ということですか? そんな家系がもしあれば世界最古……」 


 そこへ、普蕭くんも追いついて来た。「やあ、どうも」と言いながら。燈明の下、近く見ればステージとは違う服だったが、基本型が変わっていない。彼が、

「ところで、唐突に割り込むけれども、そのことについてなら、眞神の者は皆、知っている」


 そして、僕は今頃気づく。

「そう言えば、あの岩壁の文字は彝之さんの名字にある字と同じですが」


「そう、彝之家は眞神民族の王家なのさ。

 眞神族の奥義を冠する家だ。

 祖は初代王、彝玖邇に連なる系譜で、その遠い祖先が太祖イージュ、紀元前五万四千年前に眞神族をまとめたという伝説上の族長にまで繋がる。

王朝が建ったのは紀元前八千年頃(眞神神統記に拠る眞神元年、西暦で言えば紀元前八千七十九年)。 

 眞神族の古来の最高神の大真義に還るべく、世界を真実の世界へと戻すべく、暗黒と非情と無明の暴激流に筏を泛べ、棹を差すように、こころの機らきを糺して世界を建築すべく魂を滾らせる、彝玖邇という偉大なる王が現れ、眞神之国を建国した(古代エジプトで集落を作り始めるのが紀元前五千年頃とされる。その原始王時代はさらに紀元前四千二百年以降のことだ)。

 なお、眞神之国の場所は特定されていないが、当時は南アフリカから北上し、一説には、現在のチャド共和国あたりと言われている。

 彝玖邇の系譜は、彝之家として現代まで続くこととなった。ちなみに、イ(彝)とは聖なるものを顕し、当該する概念がないが、ナミブ※何もない。と同義ともされる」


 考えがまとまらず、漠然たるままの疑問が幾つか湧く。しかし、口から出たのは脈絡のない、間の抜けた質問であった。

「ちなみに、ここの御祭神は」


「神の名については、濫りに口にしない慣わしなのだ、ご了承、ご容赦願う次第。

 ちなみに、最近の南アフリカでの発掘調査で、その名が古代に於いてどのように頌されていたかが確認された」


「アフリカ?」


「眞神族の起源はアフリカなんだ」

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