第9話 眞神山
気がつけば、イタルくんの墓前にいた。異端の子とされて彝之家の墓地には、入れなかった彼の墓標は土から少し出た、起伏のある平べったい石で、草が伸び、苔が生し、地面から少し出た自然の石に見えた。もし、ジャン・バルジャンの墓があったら、こんなふうだったのではないだろうかなどと勝手に空想が虚しく駈け迴った。究竟涅槃と彫られている。そこは貞観正國寺という寺で、叭羅蜜斗くんの実家だった。
「奇遇だね」
僕は吃驚して振り返った。真兮くんがいた。
「なぜ」
「人は全てを知る。想起できない丈だ」
「それも、占星術ですか」
「いや。勘だよ。虫の知らせ。脳裡の抽斗から出て来たのさ。アカシック・レーコード、って知っているかな」
「全ての、あらゆる宇宙の記録、原初から未来までの全宇宙の記録」
「人間の無意識層の最真奥、集団無意識のさらに奥、全存在者の深層意識の最奥下底にあると小生らは考える」
「全存在者?」
「人も動物も、爬虫類両生類魚類、虫も植物も、水も空気も光も、有機分子も無機分子も、時空も概念も、非存在も、全てかたちあるもの、その在り方を持つ者は存在者だ。
存在者全てはその在り方に応じてそれなりの様式で〝意識〟というものを持つ」
「しかし、客観的・科学的な証明が」
尖りすました鼻尖で、
「ないよ。しかし、それが何であろうか。証明? 検証? いったい、証明とは何か。検証とはどういうことか。一つのやり方さ。
証明という一つのやり方・方式、その妥当性やいかなるや。客観、科学、証明という概念、そんな思惟や考概など、そもそも、措定でしかない。架空、虚仮、仮の建築。
そもそも、言語や概念による捉え、理解ということ、論理という約束事、こころ、感情、精神、いずれも全ては科学的、かつ、事実的な精密さ・正確さを以て言えば、神経細胞、いわゆるニューロンの脱分極化による電気的な発火現象である。化学(ばけがく)的な現象に過ぎない。
そこには人間が期待する本質的な理解も解釈もロジックも説明も倫理すらもない。ただの物的な現象だ。ただ、わかったという感情が醸されている丈だ。ドーパミンでも分泌されるのかな。
まあ、ともかくも、心理的、いや、生理的な、ケミカルな反応、機械的、化学的な現象に過ぎない。実感されるものは単なる納得という感じがあるという丈だ。そこは荒野のように何もない。ナミブだ。
意味と定義が定かではないという以前に、意味と定義という設定、それを設けたコンセプトの妥当性が定かではない。意味と定義とが何のことだかも、実際には全くわかっていない。
そんな為体で、それがどうして事実の捉えになるのか。科学的な証明などと、笑止。
そもそも、小生らの観察は正しいのか? 小生らは事実を見ているのか? 観察とは何か? 事実とは何のことか?」
「そんな」
「ま、それを言えば、多くの人が莫迦〴〵しくて現実離れしていると考えるかもしれないが、小生の言うところの方が、衆人の言うところの科学的な知見によく合致し、彼らの生活感覚こそが彼らに常識として了知されている知識に大いに反している。全く矛盾し、異逆している。愚昧この上ない。
まあ、来たまえ」
「どちらへ」
「眞神の聖地、眞神の大御社(おおみやしろ)さ」
墓地所を出ると、叭羅蜜斗くんが大きくて頑丈そうな車で待っていた。彼の家だからいて当然だが、僕は驚いた。何もかも準備してあったようだ。
「俺の車だ、乗りな」
装甲車のようにデコレーションされたアメリカン・フルサイズのダッチ・バンに深く坐り、ただ、田園風景が過ぎ去って逝くのを眺める。田んぼの尽きたところで舗装路も尽き、林道のような轍を辿って樹木の繁った岡を登った。渓谷に沿った隘路は車のすれ違いができないどころか、轍の凸凹で横揺れするアメリカン・フルサイズのごつい車幅がはみ出しそうである。
異様な岩山が見えて来た。太い巖でできた立方体、極太の角柱のような漆黒の山だ。少しの松木以外には草木がほとんどなかった。アルファベットの大文字のIを潰して極太にしたような見映えでもある。太いから、ローマ数字のⅡにも見えなくもない。真兮くんが見上げながら言う、
「さあ、ここさ。今、この瞬、まさにね」
降りると、柔らかい草と凸凹した硬い土で、足場がよくない。
「着いたんですね。ここですか、この岩山。まるで、人工のオブジェみたいだ」
この轍に蛇皮のブーツでも、真兮くんは気にならないようであった。指でモノクルを直す。
「これが聖なる眞神山だ。眞神の大御社は、この山の垂直の壁の中腹に廻廊を廻らせている。環のようにね。丸くはない、四角だが。実際には、山と言うよりかは、一個の巨石(まあ、岩か、巌などと言ってもよいが、それらの違いが、小生の知る限りでは定かではない)さ。まるで、立方体、四角い寸胴(いや、良い喩えじゃないな。寸胴と言えば、普通は円筒形だ)、角柱のようである。方形の巨石が垂直に聳えるさまは、ビルディングに喩えられる。
ちなみに、垂直の岩壁の面の全ては東西南北に対して垂直になっているんだ。むろん、自然にね」
石。一個の石。僕は瞼の開閉を繰り返し、何度も見直す。第一印象がアルファベットの(極太の)大文字のIであったが、見れば見るほど、I(又は、ローマ数字のⅡ)にしか見えなかった。
それは凄まじいまでの威厳を湛えている。その荘厳は地響きのように大地を激震し、天穹に鳴り渡るかのようであった。崇高さは途方もなく、その聖の聖なる神聖さは恐ろしいほどに儼然と聳え、人間を原罪の意識で根源から怯えさせ、神の偉大さに畏怖させる。
存在が放つ巨大さは大宇宙をも壓倒、凌駕するかのようであった。あたかも、眼前に太陽神アメン・ラーが燦然とあらわれたかのようであった。夜陰も日影もなく遍照なる絶対性のある太陽で在る大毘盧遮那佛の太炸輝の眩さが網膜を刺すかのような錯覚を観ずる。きよあけくさやかなる燦めきの太陽の女神が天空を超えて、すうっと立ちあらわれるかのようであった。
存在が言葉にも概念にもならぬ無数の言語を以て、思惟・思考や諸考概を収まらぬ氾濫を起こす。壓倒であった。
存在は摩訶不思議だ。いったい、何であろうか。わかりようがない。わかり方がない。わかるとは何か。わかったから何だと言うのか。真兮くんと出会って以来、僕のなかで繰り返される問いだ。だが、虚しい。まるで、ナミブの沙漠だ。無すらもない。だから、存在なのか。何もわからない。摩訶不思議でしかない。喩えようもない、妙義としか言いようがない。
思惟を超えた睿智というものが存、甚深微妙で、妙法白蓮華のごとくであり、実在が超狂裂の末であることを直截に思い知らされた。
頂上はほぼ水平であった。まさしく立方体なのだ。垂直に屹立する黒い巨石の天辺には、眞神の御山を縦に短くしたようなかたちのものが載っている。それも石(又は、岩か、巖)であるが、下から見る限りは〝屋上〟の面積のほとんどを占有し、かつ、東方向にはみ出ていた。しかし、かたちが似ているとは言え、眞神が垂直と水平と直角とで構成されている人工物のようなかたちであるに比し、純粋に自然石っぽく、尖った起伏や鋭い凹凸、又亀裂などがあった。直線と不規則な自然の線とが組み合わされている。
僕には、唐突に、山全体が漢字の〝彝〟として幻視された。頂上にある、自然形の石が偏旁の「彑」、又は「彐」(けいがしら、いのこがしら)に見える。尤も、漢字の彑は横にずれて右にはみ出したりはしていないが。
まあ、素直に単純素朴に脳裡に映えるがまま、物的に見るなら、印象どおり立方体のような太いアルファベット大文字のIであるが。
僕のこんな想いを察しているかのように真兮くんが、
「ちょうど、頂上に巨大な磐代(神の依代)が載っているのが見えるであろう。眞神山が変形したかのようなかたちをしているものが」
「では、あれが」
僕は思わず言った。真兮くんがうなずき、
「イタルが究極最後のパフォーマンスを演じたステージさ。古代の眞神の神聖な祭祀の場だ」
僕は震えた。あそこが彼の死んだ場所なのだ。炎となって炸裂した場所だ。常軌を逸している。炸裂、まさに狂ったかのように奔放な炸裂だ。現実的にも、概念的にも、存在としても、現実存在にあっても。僕は真兮くんのさり気ない言葉に対して、何も応えられなかった。ただ、山は儼然と聳える。一つの石であるその山は。存在である。
僕らの生も死も無みするかのように。それが唐突に、異様で、底知れぬ非情性を以て僕らを壓し、無感情に無表情な睥睨をする存在に見えてきた。
高さは麓から、つまり、地上露出部分からは、高さ百十四メートルらしい。ちなみに、周囲は凡そ四百メートルで、一辺が約百メートルとのことだ。海抜で言えば、さらに百か、百数メートルは高いのであろう。その上に立つ磐代も、高さは四十四メートル。縦横百二十メートル。御山と磐代との総高は百五十八メートル。彼はあの四十メートル以上の高さから飛んで、眞神の頂上に墜ちて死したのだ。古代の祭祀が行われた場所で。
震えが止まらない。何か恐ろしいものを見てしまったかのように。
現実的に考えても、もし、勢いが余って、さらに下に墜ちていたら。あり得なくない。〝屋上〟の面積は狭い。一辺が百メートル四方の正方形のうち、控えめに言っても、五分の四くらいを磐代が占めている。実際、東側が〝屋上〟から、大きくはみ出したりしていることを考えれば、磐代の面積的な大きさは〝屋上〟の面積以上だ。
麓は激しい渓流で、山に当たって一旦、二つに分かれ、廻ってまた合流している。飛沫を上げる怒濤は岩に砕け、轟音で場を裂いていた。
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