第4話 理由のない不安
暇乞いして躙口から露地へ。去りつつ、過ぎってから、蹲踞を顧みた。蹲踞もじっと僕を見上げる。知性を感じた。西洋で謂うところの知性だ。東洋で言えば、こころと言うのが適正かもしれない。いずれにせよ、この情は何であろう。
全ての問いは虚しい。格別なことなど、何事もなくても、存在者は、ただ、侘しく、もののあはれを観ぜしむ。それをどうこう想おうとも、虚しく儚い。考えて分析するなど、あぢきないこと。それそのものに参入するようにすべきこと。平常道へのこころであるが、目指すべきではないから難しい。
何ということもない日々を、ただ、過ごし、いずれ死して逝く。桜華が散り果てるように。碧い海の白い砂と真っ白な流木のように。朽ち葉が風に舞うように。厳しい銀嶺に映える皓月のように。それはなろうとすればなれないが、なろうとしなければ何事も起こらない。妙義の会得が必要とも言える。ともかくも、眼横鼻直をことさらに、眼横鼻直と言って仕舞えば、そのこころが喪われてしまうように、花鳥風月も、たださらさらと眺めるがよい。想いを追わぬこころで。
しかしながら、僕は真兮くんから何を聞きたかったのであろうか。僕が真兮くんから聞きたかったことは聞くことができないものであった。無は存在しないということ。どこにもない。それが無ということであった。だから、僕は聞きたいことが聞けたとも言える、聞けていないからこそ。それはどういう聞こえ方かと言われれば、まあ、そう、たとえば、隻手の声※片手で打つ拍手の音。「隻手の声を聞く」とは、禅の有名な公案。を聞くようなものか。
ちなみに、真兮くんが高野切(こうやぎれ)※『古今和歌集』最古写本の通称。その書は仮名の最高峰とされる。の模写が彫られた文學倶楽部の木製引戸をがらりと開け、つかつかと部屋に入り、Levi Strauss & Co.製の十六オンスのジーンズの尻ポケットに突っ込んで金属製リードを冷やさぬようにしていたハーモニカを出して、ベンド※吹奏の際に唇を強く当てて強く吸い、音程を半音から二音程度下げる奏法。し、かつ、ミュートした、金属的即物音を鳴らすことによって、観た者たちには一つの場面が髣髴したという。
それが『New York, Harlem. 赤煉瓦の古いアパートメント、玄関前の手摺つき階段に坐り、大きな手で小さなハープをくるむように持ち、唇を当て、痩せた細い脛と手首とを見せ、ラフな黒シャツにソフト・ハットを被った人』であった。
なぜ、皆に同じ想が湧くのか。それは摩訶不思議であった。不思議であったが、もう起こってしまったことだ。原因など想像もつかないが、ある種の集団無意識に訴えるものがあったのか。ハーモニカの音が? あり得ない。共同幻想などという聞き齧った言葉が刹那、浮かんだが、頭を振ってすぐに払拭した。
しかも、それは単なる空想ではなく、事実、存在した光景であることが、後にわかった。
僕はたまたまYouTubeで、それと同じ光景の動画を見掛けたのである。当然のことながら、僕は真兮くんの即興を目撃したという文学倶楽部の生徒たちがこれを見た可能性があると思い、確認した。間違いないと考えたが、意外なことに、その動画を観た者はいなかった。念のために、それに類似、又は関連する動画、あるいは画像等を見た者がいないか、確認したが、それすらいなかった。他のメディア、たとえば、文章などに於いてすらも、ないとのことであった。
僕は得体の知れない眩暈を覚えた。何かはっきりとしない、未解決の状態、謎のまま、不思議な暗合として明晰な解もなく、何となく暗澹とした心地、昏い憂鬱を覚えさせられた。幽玄な霧が降りて来て帳を閉ざすなかに封ぜられ、陥って逝く。そんな感覚になった。いたたまれない気持ちで、胸が苦しくなるような、壓されるようなきぶん。
そもそも、僕はこの動揺を払拭したくて、出家の道に入ったのではないか。中国禅の第二祖である慧可は心が苦しくて堪らず、達磨に教えを乞うため、断臂までした。僕もものごころついた頃から、この動揺を感じていて、中学二年生のとき、学校へ行くのが辛くなった。どうにか起きることはできた。休んだ日もあったが、登校し続けていた。両親や誰かに相談すべきであったが、誰にも何も言えなかった。当時は、存在の不安などと、気取った言葉を、その意味もよくわかっていないくせに、じぶんでじぶんに囁いて、きぶんを高揚させ、微かにこころを癒すようにしていたものだ。虚しいことだった。もっとじぶんに向き合うべきであったが、できなかったし、寧ろ、思いもよらなかった。受験に逃避して大学へ進学し、坐禅会に参加するうち、今の師と出会い、弟子となり、在学中、卒業間近の頃、得度を受けて剃髪し、受戒して僧となった。一時、精緻な妙法の世界に陶酔し、七堂伽藍の下、教えや瞑想や仏像や菩薩坐像や瓔珞の煌びやかな美や金箔・金泥の屏風・障壁画や格子天井の図の壮観や枯山水の(白い敷砂の箒目が作りなす様式化された波状の幾何学的な文様によって、作庭家がそのなかに工夫を以て配置した自然石の不規則な荒々しさが突出して浮かび上がる)味わいの妙義に耽溺し、救われたような気もしていたが、再び不安は蘇り、安寧は長く続かなかったのである。
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