第3話 真兮と会う

 夕餉を終え、孤(ひと)り、しずかに読経した。その後は少し読書をし、やや飽いて、パソコンを立ち上げる。


 既に真夜中であった。

 ふと。


 気がつく。そこへカーソルを置くと、矢印のアイコンから、指差す手のかたちのアイコンに変わることに。


 行燈の暗い灯明のなか、不思議なことだという想いに囚われたが、何でもないことであった。ただ、それだけのことだ。寺はじんとして静かであった。液晶画面が鳴るようにさえ思えた。


 むろん、そんなことはない。違和感のせいかもしれない。僕はパソコンやスマホを持ち込むことを否定していたが、一ヶ月くらい前から使い始めている。調べものが速くて楽だし、大量の電子書籍を保管することもできるし、本の購入も簡単だから。


「売れるものしか電子化されていない拝金主義がいかにも卑しく浅ましく悔しいが」

 下卑た、くだらない、腐った、功利の世を厭離して今、ここにいる。過去を捨て、未来を待たず、今を丁寧に、こころを逝き渉らせて生きる。そういふ清浄を求める生き方も、一つの欲望なのである。いや、そんなことじゃなかった。


 そう、それはあるホームページの隅であった。見た眼には何もない。青い無地の背景がある丈であった。青い無地は平らかでなく、青いパウダーのような質感があった。濃い青が紫の眩さを放つ。鮮やかながらも、深い紺碧。まるで、気づかれたくないかのようであった。運命に導かれた人のみが見ればよいと言わんばかりの仕込みである。


 しかし、指差しアイコンに変わるということは、クリックすれば、統一資源位置指定子(Uniform Resource Locatorユニフォーム・リソース・ロケータ、URL)が反応して指定されたネット上の位置に飛べるということだ。


 クリックした。


 特別なことはなかった。新たな頁が開いた。英文、和文、仏文、中文、独文、伊文、西文、露文がロゼッタ・ストーンのようにならぶ。それに加えて、間違った(不合理な)数学上の集合の数式があった。それらのどれかをクリックすると、ブルース・ハープの音が一瞬、鳴る。意味不明だ。


 なぜだかわからないが、僕は想った。このハーモニカを吹いた人に会おう、と。だが、今すぐにではない。いつか、時節が来たら。暫く先のこと、少し未来のこと。漠然とそう想い過ごすうちに、いつしか時はささと流れ、皐月の田園風景を、僕は車窓から眺めていた。


 眞神(まがみ)郡の龍呑(りゅうどん)村に住む天易真兮くんを尋ねる次第となったのである。


 高揚しつつも、ぼうっとして、半ば朦朧とした状態であった。それでも、不思議と龍呑神社の古い参道沿いにある彼の家に着く。些細なことであったが、平々凡々たる僕の日常にとっては、唯一の破綻、ささやかなトピックスであった。


 参道に沿って間口をならべる家屋敷の一つに入り、衝立のある大きな玄関から客間に上がったものの、茶室へどうぞとお女中さんに案内され、一度脱いだ雪駄をまた履いて外へ出る。

 濃い青竹の建仁寺垣のある露地の飛石には水が打たれていた。歩み、蹲踞で手を清め、待合で待つ。老椿や楓、梅の古木があった。真兮くんが迎えに来る。折り戸を開けてくれた。奇妙奇天烈な格好で。


 それを喩えで言えば、The Beatlesの『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』、又はThe Rolling Stonesの『Their Satanic Majesties Request』のジャケット写真みたいな、サイケデリックなすがたである。

 上から下まで呆れ眺めてしまった。


 鍔の広いウィザード・ハットは黒いフェルト地の尖った細い三角錐の山高で、山が斃れている。手入れをしているようではなく、磨れテカっていた。五年くらいは毎日使っているのであろう。そんなことは一向気にしている様子はなくて、澄ました表情で片眼鏡を細く高い鼻梁に掛けていた。


 長い髪は帽子の下からあふれる瀧のように、尻下まで波打ち落ち、頬髭や口髭や顎髭が臍下まで垂れている。毛質は艶がなく、乾いてパサパサしていた。黒よりも灰色のように感じられる。


 膝下丈のミリタリー・コートの生地は艶やかな繻子、パステルのような発色の水色であった。胸にはきらきらと燦めく金糸の紐飾り、肩には房飾りがある。刺繍の入った大きな襟は顎を隠すように立ち上がって折れていた。ピンで留められたカフスにはレースが奢られている。


 派手なペイズリー柄の真紅の絹のタイを、マフのように首にぐるぐる巻きにしてフランス革命後に流行ったスタイルに結び、いつも海泡石のキャラバッシュ・パイプを咥えていた。


 マッチ棒のような脚にLevi Strauss & Co.のスキニーな十六オンス・デニムのジーンズを穿く。その裾は形崩れした蛇皮のロング・ブーツに収められていた。

 緩くたわんだそのブーツは本来、筒状で、膝下まで届くものであるが、その半分くらいしか至らず、だらしなく垂れ、ルーズ・ソックスみたいに見えなくもないが、そんな訳もない。


 僕は少しあ然とし、戸惑いさえ覚えたが、さようなことで動揺していては禅門の末に縋る者として恥ずべき事態とこそ思われ、こころ糺して深く辞儀をした。

「土埃(どあい)慈雨(じう)(僕の法名)と申します。

 叢林にて求道を始めたばかり、釈迦の教えに参学し、釈迦の道を修行する者の端くれ、入衆です」


 僕の青々した剃髪の頭を繁々と眺めながら、彼は、

「小生が天易真兮です。

 遠路はるばるようこそ。さあ、どうぞこちらへ。ところで、いきなり無礼を言って恐縮ですが、少し変わった法名かと」


「僕は土埃(つちぼこり)です。

 そう言われても、リアクションに困るかと思いますが」


 しかし、真兮くんにそういう様子はなかった。全く自然な表情。むしろ、さもありなんという得心の顔であった。僕は少し言い澱みつつも、言葉を続けた。

「でも、それは卑下でも絶望でも自己否定でもありません。たとえ、僕が死んでも世界は変わらない。ただ、乾いた無色透明の、明るい晰らかな事実の世界が在る丈です」


 彼は初めて微笑した。もし、拈華微笑というものがあったとしたら、こんな微笑か。愛想笑いをしない人だとわかった。

「善哉。

 人は皆、同様に土埃でありましょうな。誰も彼もが君の考えるように想って生きていれば、こころはさぞかし楽になることでしょう。世俗の価値、塵芥を厭離していれば。されども、世には真逆の価値観が蔓延っている。掛け替えのない人生、唯一無二のじぶん。それら皆、不幸の始まりだ。自己満足の儚い虚構世界だ、実存在のない世界、空疎な世界、魂のない世界だ」


「そう思って、法名をつけていただいた訳ではないものですが。師はおのれを虚しうせよと言われました。それがこの小心のじぶんには必要と思われたようです。あり難く想い、僕はとても嬉しいことと考えましたけれど。

 世俗の価値を儚く考えられますか」


「別に。

 全ては自在です。かたちを持たない、空です。つまり、今在るこのままの現実で一向構わない、このまま固定の現実で差し支えない。空は無空を超えるのです。空を凌駕し、固定した物的現実です。局所的実在です。量子論では否定されますが」


 僕は戸惑いながらも、

「色即是空空即是色とは、まさしく仏教に古来、伝わる教え。それをリアルと思っておいでなのですね。現実として、事実として踏まえておられる。稀有なことです。奇特なことです。大変あり難く想う次第です」


「いずれにせよ、何を以て事実とするか、リアルとするのか、いや、それ以前に事実という設定・価値(バリュー)が何であるか。それを知らず、定めずして、何を言おうが、何を況やですがね。

 しかしまた、そういう類のことを知り得るかどうかと言われると、甚だ怪しい。いや、そもそも、知るとは何か。わかるとは何のことか。それじたいも問われるでしょう。

 だがしかし、その解答を得ることは、実際には、恐らく不可能でしょうな。不可能なミッション。あまりにも根本的過ぎてね。我々は無根拠・無条件に是認された前提がなければ、思考を進められない。

 逆に言えば、無条件前提なしで、零から論理のみにて説明・構築できるものなど、何もない。何もかもは、ドクサ・暴力・唐突、でしかないからね。

 答は風のなか、探しても無駄。何千年も経ちますが、未だ何一つも遂げられず、どのような結論に收まっていない。未遂不收のままです」


 初対面でこの洗礼、僕は驚くばかり。

「いきなりのご高説で、大いに戸惑っています。

 ちなみに、仏教で云うところの顚倒夢想をあなたはどう思われますか。世俗の価値は真逆という趣旨ですが、十把一絡げに世俗の価値と申しましても、金銭の欲から親子の情愛までさまざまあります。家族という価値観は人の根本的本質であるとともに、子孫を残すという生物的な根源的な命題からも、そう軽々に否と言えるような、安易なものではないと、こころ得ますが。

 その消息をお尋ねしても宜しいでしょうか。お試しする意図では、むろん、ありません。純粋に教えを乞いたいと思い、伺う次第です」


「親子の情もまた世俗の価値、顚倒夢想です。それゆえ、釈尊は梵天から勧請された時、はっきりと布教を拒んだ。〝世の価値と相容れず、世俗の人には、理解し難い。社会の基盤を根底から覆してしまう〟と。

 ただし、この世が顚倒夢想でなかったとしても、一向に構わない。自在無礙ですからな。しかしながら、顚倒夢想なのです。自在無礙ですから。それが現実です。その既決定性が現実です。その非情性が現実性です。ただ、あらわれた結果が現実です。起こったことが事実です。

 それが現実です。現実という厳しさです。そのなかで、人は選ぶしかない。人それぞれ本性に遵って。こころ〴〵にあるべきでしょうね。正しき道をね」


「それぞれにですか」


「むろんですね。考えてもみたまえ、たとえ、そうしなくとも、人は皆、必定的・結果的に、そうなってしまうではないか。他にない。それで構わぬ。というか、それしか現実がない。

 君の言わんとするとおり、親子の情をも顚倒夢想とすることは難しいことです。

 親子の情は子孫存続への本能であり、遺伝子を継ぐ生命としての本質の根源だ。簡単に超越できるものではない。いや、ほとんど不可能だ。それは細胞の奥の真から湧き上がる本性で、それを大海に喩えるなら、小生らの意識や意思やこころなど、一番の表層部に過ぎない。表面に過ぎぬ。水深一万メートルの大海の海面に浮かぶ一枚の儚い木の葉に過ぎない、なされるがまま、波の間に、ゆらゆら揺られ、飄々と流される。どうして大海の意志を超えられようか」


 なされるがまま、という言葉を聞いて、僕は莫迦々々しいことを問う輩であると思われることを危惧しながらも、積年の疑念を問う。

「人に自由意志があると思いますか」


 真兮くんは連れない表情で、

「ないだろうね。

 生命は化学的な作用の集合・集積が複雑細密精緻に相互繋関与して構築する現象でしかない。人は機械にこころがない、人工知能には高い計算能力があっても、こころがないと言う。しかし、そうであろうか。いや、人間こそ、こころなどあるだろうか。

 機械はスイッチを入れると、設定どおりの作動をします。人間も同じです。侮辱されれば怒り、尊厳を傷つけられれば悲憤慷慨し、望みが叶えば喜びます。そのスイッチが入れば設定のとおりの作用をする。もし、喜怒哀楽を事象に関係なく自由に選択できれば自由と言えるでしょう。親子の愛も然り。設定のとおりの作動に過ぎない。それは紛れもない、科学的事実です、普通の人が普通に知る範囲内の科学に於ける事実、常識的な範囲内の科学的事実です。しかしながら、実在を量子論的に否定する立場なら、もしかしたら、親子の愛や人間の情も、世俗的な幻・思い込み・誤認ではなく、客観的に実在する事実であるという可能性もなきにしもあらず、かもしれません。ふ。愛情の実在性も一縷の望みがあるやもしれません」


 量子論によれば、我々が通常思うような客観的実在は否定される。客観的事実は観る者がいようがいまいが変わらないはずであるが、光線に関する科学実験に於いて、観察者がいる場合といない場合とで実験結果が異なるという観測結果が得られた。すなわち、観察されている場合に光線は光の粒としての性質をあらわし、観察者がいない場合には光の波としての性質をあらわしたという。


 真兮くんは言葉を続け、

「いや、しかし、量子論学者のそういう説には、あの大アインシュタインが否定的でしたがね。彼は言った、『いったい、君は君が見ていない時に月は実在しないと信じられるかね』ってね。確か、そういう感じの言葉だったと記憶するが。まあ、つまり、そういうふうに否定した。となると、小生も何と申すべきか、わかり兼ねる次第。扨(さて)。

 話に戻しましょう。君の問う自由意志についてだが、パッションという言葉が受動という意味を抱くことを考えればわかり易い。感情は人を襲い、人を占領する。人は感情という暴君、専制君主に支配される。自由でなくなる。こころの赴くままとは、寧ろ、不自由の証でしかない。それは自由という口実・大義名分で、ただ、楽がしたい丈なのだ。自然が人のこころに与える情のなすがままになっているに過ぎない。

 イマヌエル・カントが規則正しく毎日三時に散歩したのは、それが自由だからだ。普通の人間なら、今日はサボりたいとか、気が向かないとか、自然が人に与える情のなすがままに流されて、なされるままになるものであるが、それを意志で制御し、躬ら決定し、いかに生きるかを選ぶ。それが自由であるということだからだ」


 と言いながらも、真兮くんは鼻尖でふっと笑った。


「こんな考え、誰も共感しないだろうね。しかしながら、ただ、事実を中立的に述べている丈なんだがね。是非もないことを。無色透明、無味乾燥なことを」


 僕はおづおづと言う、

「いずれにせよ、感情というものは、抗い難い人間の自然なのでしょうね。自然が人間を衝き動かす強い力。とても逆らうことも、否定することもできない、じぶんよりもじぶん自身であるものなのでありましょう。むろん、親子の愛も」


「そうだね。自然な現象です。降雨や流水や空に浮かぶ雲や潮の満ち引きのように。西行の和歌に『こころなき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ』というのがあります。出家して俗世の感情を離れた彼のような人間でもあはれを感ずるものだと詠嘆している。秋の夕暮れに鴫が飛び立つ沢の光景が彼のこころです。

 自然に対して親愛の情がなければ自然は何も語りかけてくれないという考えの人が少なからずいることはご存知か。小生もそのとおりであると想う」


 唐突に何を言うのだろう、理解しようとして、僕の思考は全力で駈け廻った。真兮くんは構わず説を続行し、

「畢竟、自然がこころを持つのではない。天地は有情ではない。

 有情が天地です。有情が客観的事実なのです。有情が外部に実在するのです。外部に実在する非情な、客観的他者、事実ということなのです。

 世界は意識であり、意識は脳裡の外にある。又は、こころです。こころとは、現実です。こころとは、現実であり、客観的に存在するもの、実在です。こころは物的存在である。こころは非情な、物的実在です。外部に存在する物です。存在は差異であり、差異は意識・こころの采配でもある。それらは躬らの差異を、他者として、躬らに依拠して外部に顕出する。

 観察者がいる場合と、いない場合とで、科学的な実験の観測結果が異なるということは、もしかしたら、そういうことなのかもしれませんね」


 梅の古木が微笑したように思えた。彼女は僕のこころか。


「従って、一部の唯心論解釈には、誤解があると言えるでしょう。五蘊説への解釈の一部にも。

 意識は物的世界を感覚が感受し、知性が構築して脳裡に映じたものではない。全く違う。こころと自然、すなわち、フュシス(古希臘語:あるがまま、現実、自然)とこころとは、同じものです。全く同じものです。

 それは世が空であるということです。空であるからかたちがない、縛りがない、自由、いかようにもあり得る、だから、そんなことであっても、一向に不可思議はない。狂奔裂です。絶空とは、畢竟、固定的物的局所的な単体の実存在者です」


 彼は長々立ち話をしていることに気がついたらしい。漸く動く気配を見せたが、やにわに思い出したかのように、

「まあ、補足するが、狂奔裂であるということは」


 彼は〝狂奔裂〟という特殊な、異常な言葉を平穏な日常的言葉であるかのようにさりげなく言う。

「むろん、〝かたちがない〟というかたちもないことでもある。

 だから、そういうかたちもない、というかたちもない。

 というかたちもなく、というかたちもない。

 なので、かたちがない、かつ、かたちがないということではない。

 かたちがないということ丈である。

 かたちがあるということ丈である。

 ということであれば、こころと自然とが同じものでない、ということであっても、何らの不思議はない。合一でも齊同でもない。

 ただ、普通の人が普通に思うように、こころと自然とが別物である、と思って差し支えない。

 単純に素朴、素直に、ただ、ただ、固定的な、局所的な物質的単一の存在者として在る、という丈であっても。ふ」


 僕は折り戸のなかに入った。真兮くんは天地を見渡し、

「見たまえ、これらが皆、こころだ。

 客観的な実在物とされる星や月や雲や雨や蒼穹や大地や海や山や草木や蛇やカエルや微生物や真菌や土や火や水や酸素が皆、こころさ。こころが自然そのもの、自然そのものがこころだよ。

 だが、それが何であろうか。

 こころであると言ったからって、何であろうか?

 何もない、何も変わらない、カエルはカエルさ。

 まあ、それもまた、そういうふうに設定されているからですが。そういうふうに配慮されているから。采配されているから。

 それを選ぶも選ばぬも、采配者・主催者である意識=フュシスの自由、っていう訳です。だが、それが何であろうか。同じことだ。意識が他者であろうが、何であろうが。結果は見てのとおりです。

 ほら、ご覧のとおり」


 腕をぐるりと廻して周囲全てを指で差し示す。その上で、深い髭の下で、贅沢なお世辞でも言ったかのように、豪奢に微笑する。その意味は不明だ。


「説明不要でしょう。

 論理的には、証明も検証も、無用なはずです。明らかなことです。

 論理上(そう、飽くまでも、論理上でのことだ)、狂奔裂ということには証明が要らないからです。

 ふ。自在無礙、絶空、自由奔裂。零以上の零。証左など、要するはずもない。何を証左すると言うか、絶空の」


 真兮くんは折戸を閉め、先を歩む。清々しい森林のような匂い。緑苔の香り。


「何度も言うが、論理上はね。

 狂奔裂は限定されない。かたちがない。真なる真の自由、空をも絶つ、何ら縛りもない狂裂の自由。

 それゆえ、世はかようにある。

 世がかように在るということ、これぞ空の証。空ということの証である。空といふとは、乃ち、さういふこと。

 唐突だ。唐突であって、一向構わない。いや、寧ろ、大いに結構。原因も理由も経緯もなくてOKだ。

 根拠もなく、それは正しい。だから、小生のこの説も、まんざら出鱈目でもない。飽くまでも、論理上はねえ」


「はあ」

 まあ、さように措定すれば、さようとも言える。だが、それは全ての意見・見解について、同じだ。何となく、興味が逸れたかのように、美しい庭園に眼が惹かれ、視線が逸れた。


 なぜ、逸れたのだろう。でも、鑑賞し、翫味し、感覚は喜悦している。飽くまでも感覚的でしかない、感性的でしかないものに。かつて、画家のポール・セザンヌが「しかし、私は(感覚的な)印象派を、美術館の芸術のように堅固な、永続するものにしたかったのである」と言ったが、じぶんの志も、本来はそれに近かった。それなのに、今は、まさしく真っ叛さまだ。気持ちが和らいでいた。厳格さが解けていた。


 濃く鮮やかな苔深い露地を歩み、数寄屋造りの前に着く。いざなわれ、腰をかがめ、畳に膝を突き、躙口をくぐって茶室に入る。正坐した。


 くぬぎの炭に火種をそっと置き、壺から竹の杓で茶釜に水を汲み、炭火にくべて沸かす。竹を細く割いた茶杓は竹の節がなかほどにくるよう誂えられ、節の内側を削ることによって、少し「く」の字に曲がりながら起き上がっている様子が、くびれた蟻の腰が立ち上がっているさまを聯想させ、これを蟻腰の見掛けという。


 肩つき火襷の備前焼の茶壷の蓋を開けた。茶杓で掬った茶の粉を碗に落とす。茶碗は美濃の白志野焼きであった。高台に土味を残しつつも、全体にたっぷりかかった長石釉が焼成によって白を醸す。


 存在が滲ませる叡智だ。彼女ら存在者はいかような思念よりも甚深微妙な知を語っていた。そんな彼女らを前に、こんな僕が何をしようとしているのか、何を言おうとしているのか。あゝ、彼女らは思念よりも崇高だ。そう言っては、片手落ちか。思念も存在している。だから、思念は存在者だ。あゝ、虚しい。誰も興味のない話だ。嫌がられる小説だ。僕は本題を語った、唐突に。

「クリックして出て来たホーム・ページを観ました」


「らしいですね。ダイレクト・メールに〝観た〟と書いてあった、と聞いています」

 それは眞神眞義塾附属高等学校文學倶楽部のHPの特設ページだった。

「根拠のない、勝手な妄想、言わば〝妄言〟ですが、ある種のコンセプチュアル・アートだと感じました」


 クリックして出て来たHP(https://□□1.○○○○.com/sylveeyh.◇2.○○○○.com/index7-2.html)には、次のような記述が英語、日本語、フランス語、中国語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ロシア語の八つの言語で記されていた。


『ニュー・ヨーク、ハーレム。古い赤煉瓦のアパート。黒い鉄製の外附階段。半地下の部屋の割れた曇りガラスの窓、寂しい歩道。玄関前の手摺つき石段。十二段あり、坐っている人がいる。手に小さなブルース・ハープ。リードの震えのひずみは、半音下がった、即物的な、かん高いブリキ音と、ぶち壊れたチューバの低い金属の音が雑ざったかのような、不安定な、揺らぐ音程。乾き切った、深みやまろみや潤いのない、輪郭のきつい、存在のくっきりしたサウンド。真夏の昼下がりの、気怠い静寂を裂帛する、古い蛇口の栓を捻るような、響き』


 それらの文字のいずれでも一箇所をクリックすると、ブルース・ハープの音が一秒と少し。くっきりした硬い音だと僕は感じた。しかし、聴く側のきぶんによっては、素朴な暖かみがある音だと思えるかもしれない。僕は想い起こしながら、感じたことをなるべく正確に伝えようと、考え考え、言う、

「ニューヨークの風景を巻き込みながら、太い輪郭線を、崛起りと際立たせ、一箇の存在を明晰に、強裂鮮裂に顕在させている。そういうふうに感じました。ハーモニカのサウンドという、一箇の存在を」


「ふふ。小生は倶楽部のOBですが、いわゆる、頻繁に来る迷惑な先輩、暇な人、うざい卒業生って奴です。別に気にするようなことではない。ふ。人は死に際になれば、皆、独りですから」


 その意味の繋がりはよくわからなかった。他者など気にしても仕方ないということか。そんな僕の思案など、関係もなく真兮くんは淡々と云ふ、


「まあ、小生は後輩らの屯する倶楽部に唐突に入室し、吹き、去った。それを録画していた後輩がいた。そういう事実があった。そういうことです。それ丈のことです。

 ちなみに、その後輩とは、小生にとっては、遠い親戚にあたる存在で、天易伊奈々(いなな)という子でした。

 咄嗟に、(一族のなかでも有名な)あの先輩がまた何かをやらかすに違いないと直感したんでしょうね。人間とは不思議なものです。いや、生ある者は皆、不可思議なものです。実は何でも知っている。生まれたばかりの子犬でさえ、乳の在り処と飲み方を知っています。人も実は全てを知っているのです。

 当然でしょう、意識が制御している丈で、実際は、こころが森羅萬象の客観的な実在、自然(「フュシスφύσις(あるがまま=現実=世界)」と言うべきか)そのものなのだから。

 まあ、それはよいとして、伊奈々は小生の知らぬ間に、録画し、音声の部分丈をコンセプチュアル・アートとしてサイバー空間にアップした。彼女らの間では、最近、アートとしての小説、The novel as an art.と彼女らは言っていますが、特にコンセプチュアル・アートとしての小説が流行です。文字や言葉に依らない文学です。又は、文字や言葉をコンセプチュアルな、オブジェとして使うアート、あるいは、デフォルメした狂言綺語や俚言俗語で構築した小説という形状のコンセプチュアル・アートなど。他にも、文字の形状を絵画のように構成したり、言葉の意味をキャンバスに色彩を配するように用いたりしながら、物語ではない文学を構築することなどです。

 それも又、善き哉。アートは人の本質。かろやかに、おもむくまま、じゆうじざい、じざいむげ、きわかぎりなく、いずれをもよるべとせず、逍遙游す。ふ。されども、たかが小説です。It's Only Novel.」


 英語で言い替える必要など全くない。いかにも軽佻浮薄だ。だから、わざとそうしていると感じた。そういう型の、承知の上の気取り。穿って言えば、承知の上の気取りを気取っている。

 人の誤解を弄ぶと言えば悪く言い過ぎか、人の理解など求めない、どうでもよい、ということなのだろう、彼にとっては。そう思った。


 囀りすらも裂帛と感じる静けさ。

 沈黙。


 僕はそっと出された碗を愛でて、釉薬の織りなす艶や起伏、小孔や貫入などの景色を賞味するよう眺め、高台にある焼き締められた土味を堪能し、その滋味を味わい尽くしてから、ゆるりと茶を啜った。「結構なお点前で」


 畳の隅は陰翳深く、沈(ぢん)としている。


 幽かな明るさの床の間に、青竹の一輪挿し。挿し口が斜めに切られていた。その角度がいかにも心地よい。芍薬、生き生きとしながらも、清楚で落ち着いた華やかさ。それに添えられた一枝は梅の小枝と推察された。当然、花はない。独特のセンスだが、樹の斑紋をなす地衣類までも想起させ、それを古の香のように感じさせた。古風な静妙が在る。彼らにも言葉があると思った。沈黙は雄弁であると言うが、それともまた違う沈黙の言葉、あるいは、存在が吟ずる頌を観ずるのであった。


 僕は言葉にならぬ妙義を眼の当たりにしたような感じを覚える。そうなると、何だか今存(あり)たるこの現実が空々しく思えて、そろそろ退室時かなと飽くようなきぶんになった。


「扨、ご教示の数々に深く感謝申し上げます。長居してしまいました。そろそろ、お暇いたします。お邪魔いたしました」

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