v / Veronica persica

 家々の灯りが消え始めるころ、薄曇りの夜空を見上げ、紗藍はため息をついた。

 彼女のそばには、座った彼女を守るように赤い竜が寝そべっている。家の勢力をそのまま形にしてみせたような大きな自分の家の縁側で、彼女はもう一度息を吐くと、炎遙の固い鱗をするすると撫でた。


 彼女は確かに、度会家当主の座を継いだ。しかしそれはあくまで名目上のものだし、そもことも誰もが知っている。今は前当主である彼女の父がまだ健在である上、紗藍には統率者だとか指導者だとかとしての経験も威厳もない。だから彼女はこのとき家の奥で開かれている会合で、口を出すことは許されなかった。もちろん同席することは許されていたし、むしろ今後のことを考えれば同席することこそ望まれていたのだろうが、彼女はそれを固辞した。

 その代わり、その場に彼女は使いをっている。炎遙が連れてきた竜の虫である。

 竜はその格に応じて眷属を引き連れる。選び抜かれた扉で喚ばれた炎遙が連れた竜の虫は、この集落にいたどの竜よりも多く、皆が紗藍を褒めそやした。もっともそれも、結麻が翠嵐を喚ぶまでのことだったが——今は紗藍は、腫れ物のように扱われている。


 奥で話し合われているのは、次の仕事の配分だ。かなり高度な技術を要すると思われるもの、多少未熟でも竜を連れてさえいればこなせそうなもの。そういった難易度の違うものがいくつか挙がっており、度会の家のものが中心となって、集落の中で適任者を選び、あてがっていく。

 きっと、先日竜を喚んだばかりの結麻にも、割り振られるものがあるはずだ。紗藍はそれが決まる場に居合わせたくはなかった。一人前と認められたいと希望を語った結麻だが、残念ながら間違いなく、彼女が満足する提案はなされない。だからその決定過程には一切無関係でいたかった。


 結麻にあのような話をしたことを、少しだけ後悔している。紗藍には炎遙を手放すつもりは一切なかった。でも紗藍があの話を「当然断られる」という前提で話したことなど、結麻にはわかるはずがないのだ。竜と人との結びつきのようには、人と人とは理解しあえない。

 だから結麻はきっと、紗藍が炎遙を軽んじているように感じたことだろう。竜をその格だけで見ているようにも。きっと結麻は幻滅した。紗藍は深いため息をつきながら両手で顔を覆った。


 結麻が呼び出した竜に比べれば確かに炎遥は見劣りする。しかし紗藍にとって炎遙は大事な半身だ。彼はこの未熟な自分を選んでくれた。それは彼が、誰よりも長く紗藍のそばで自分を理解してくれる存在になるということでもある。家名のせいで距離を置かれた付き合いばかりされがちな、一方でそれに見合うほどの力もない紗藍にとって、炎遙は既に何ものにも代えがたい存在である。

「炎遥」

 紗藍が前を見たまま呼ぶと、炎遙は首をもたげた。紗藍はその竜の顔を見ながら聞いた。

「結麻、がっかりしたと思う?」

〈私には分かりません〉

「だよね。炎遥は?」

 橙色の瞳をしばたたかせた炎遥は首を傾げた。紗藍は肩をすくめた。

「炎遥はどう思った?」

〈何をですか?〉

「私が交換を持ちかけたこと」

〈本気ではなかったでしょう?〉

 炎遙は、睫毛まつげの目立たない目をしばたたかせた。紗藍は、しかし、頭を下げた。

「それでもあんなこと言うべきじゃなかったと思う。ごめんね」

〈なんとも思っていませんので。対応に困ります〉

 紗藍は苦笑して立ち上がった。炎遥もまたそれに付き従うように立ち上がる。炎遙は、背伸びをした紗藍を見上げ、そのままふいと顔を後ろにやった。彼の尾の先に、ふわりと蛍のような光が止まった。彼は目を細め、紗藍の肘を鼻先でつついた。

〈虫が戻りました〉

「どうなったって?」

 腰を屈めた紗藍は、炎遥の言葉を聞き取ると眉を寄せた。



 翌日、太陽が一番高く昇ったころにしかめっ面で家に戻ってきた結麻は、これでもかというほどに勢いよく扉を閉めた。扉の閉まった振動で天井の梁から落ちて来た埃が、窓から入る光に照らされてちらちらと輝いた。それが手元の本に散ったのに眉を顰めた翠嵐は、ふっと埃を吹いてから表紙を閉じると、窓のそばを避けて置かれた箱にそれを収めた。ほかにも本が何冊か入っている。

 立ち上がって結麻を見た彼は無言だった。結麻は大きなため息をつくと椅子を引き、乱暴に座った。

「約束」

「『ご機嫌斜めでいらっしゃいますね』」

「嘘つかないで」

「じゃあ『もう少ししとやかにしろ』」

 結麻は眉間に皺を寄せたまま腕と脚を組むと、来いと言わんばかりの表情で顎をしゃくった。翠嵐は彼女の向かいに座ると横柄な仕草で頬杖をつき、口を開いた。

「で?」

「私は今回はお役目なしなんですって」

「それで機嫌が悪い?」

 じろりと翠嵐を見た結麻はしばらく黙っていたが、そのうち「そうよ」と呟くと食卓に突っ伏した。


 結麻は翠嵐に鍵を渡した日、彼と「思ったことは言う」と約束した。言わずとも聞こえる間柄だからこそ、結麻にはそれが重要なことに思えた。

 口に出さず、また出されなくてもわかるからといって、それを伝えたいと思っているかは別だ——少なくとも、結麻からは。勝手に心の内を読まれるのはもちろん嫌だったし、相手が伝えたいと思っていないことを知ってしまうのも嫌だった。

 だから彼女はさきの約束をした。翠嵐が彼女のその約束を受け入れたのは、彼がそれを彼女なりの敬意と受け取ったからだ(と、結麻は思っている)。


「私、いつまでも仕事もらえないかもしんない」

「なんで?」

 翠嵐は、無言で突っ伏したままの結麻に眉を上げると、小指で鼻の頭を掻いた。

 結麻の中にはまた、言葉に落とし込めないまま、もやもやした思いが渦巻いている。皆は翠嵐を呼び出したことで余計に扱いづらくなった瀬尾の生き残りを、いないものと扱うことに決めたのではないか。何も触らずにいることで、認めずにいることで、いつか誰もがその存在を忘れ去り、そして実際消えてしまうのを願っているのではないか——そんな。

「考えすぎだろ」

「読まないでよ」

「なら見せびらかすな」

「あんたみたいに上手く隠せないの」

 結麻は顔を上げながら前髪をぐしゃりと握り、椅子の座面に脚を上げた。

 今のは嘘だ。彼女は少し上目遣いで、向かいの相手の様子を窺った。

「俺の顔見ても何も書いてねえよ」

「わかってる」


 結麻はしばらく両手で顔を覆い、それから大きく息を吐くと、食卓に両手をついて立ち上がった。

「やっぱり私、納得いかない。もう一回、行ってくる」

「どうぞ。健闘を祈る」

「嘘つき。やることできたらだるいなって思ってるでしょう」

「お前こそ読むなよ」


 結麻はにっと笑うと、玄関を開け放ち、紗藍の家へ走っていった。

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