月色相冠 / sage

vi / Juglans ailantifolia

　度会の屋敷が見えてくるよりもかなり手前で、結麻は走るのをやめていた。同じ方に向かう知人に会ったからだ。結麻は彼も同じような状況にあることを聞き、胸をなで下ろした。自分の心配は杞憂だったのかもしれないな、と思えたので。

　彼は名前を連理（れんり）と言う。山吹の主である彼もまた、今回は何の役割も与えられなかったそうだ。しかし彼は、彼が十七になったときに引退を表明したその父から山吹を引き継いでゆうに五年以上が経過しており、これまでの仕事ぶりも賞賛されてきたから、まだ何の経験もない紗藍や結麻とは事情が違う。彼はそれなりに困難なものでも期待に応えてきた。数人で手がける大がかりな仕事の面子に選ばれたこともある。しかも彼の家、湯木は古くからの度会派なのだ。だというのに彼にも今回、何も分担がなかったという。ひとりで複数処理を提案されるものもいて、人手は決して足りてはいない状況でも、だ。

「言い方悪いんだけど、結麻と違って俺や俺ん家（ち）には特別扱いされる理由がないんだよ。良くも悪くも」

　そう言って連理は肩をすくめ、結麻を見下ろした。結麻は立ち止まると腰に両手を置き、地面に目を落とした。そう言われれば、そうだ。結麻と違い、連理は度会からのけものにされる理由がない。結麻は顔を上げた。連理のほうが彼女よりも頭ひとつ分以上背が高い。結麻は聞いた。

「山吹は？　何て？」

「親父の代から働きづめだから、ご当主がお休みをくれたんじゃないですか、ってさ。でも親父と俺の記憶が正しければ、俺が前回真面目に働いてから今日まで、満月はもう軽く四回はあったと思うんだけどね？　紗藍様が炎遥を呼び出すより前だ」

「相変わらず山吹はのんびりしてるわね」

　苦笑を漏らした結麻は、大きな息を吐いてから天を仰いだ。

　それだけの期間なんの働きもしていないとなれば、山吹も理由を、決してその言葉どおりには思っていないだろう。ただそこにある本当の理由に彼がわざわざ首をつっこむ動機がないから適当な返事をしただけ。

　しかしその主の方はそうもいかない。仕事を与えられなければ生活がたちゆかない。食べずとも生きていける竜のように悠長に構えていることはできないのである。連理の場合は尚更だ。彼は父母と、幼い姪とをひとりで養っている。彼の姉は子を産んだあと、最初の仕事で命を落とした。

　結麻に役目が割り振られない理由はいくつも思い当たる。だが連理はどれも当てはまらない。連理と山吹との連携は、集落内でも評価が高い。能力にしたって彼は、まだ翠嵐との、または翠嵐を使っての仕事がない結麻のように「未知数」ではないのだ。

　眉間に皺を寄せたまま黙って歩く結麻の後ろをついていきながら、連理は所在なさそうな顔で手の甲を掻いた。風に葉を揺らした生け垣の陰で、小鳥がちよちよと鳴いている。いい天気だ。前を行く結麻の影が彼の手の半分にかかっている。

　ふいに結麻が立ち止まったので、連理もそれに従った。すぐ前に見える屋敷の門の脇戸が開いた。

　この門に警備のものが置かれなくなってからしばらく経つ。瀬尾という対抗勢力が事実上潰（つい）えてしまった今は、集落内にそのようなものものしい雰囲気は——少なくとも目に見える範囲では——ない。

　開いた扉の奥から出てきたのは、連理（そして翠嵐）と同じくらいの歳の、結麻には見覚えのない男だった。燃えるような朱色の髪を揺らし、彼は少し足元を気にしながら踏み出した。砂地に落ちた彼の影は、その輪郭がちりちりと揺れている。結麻は眉を顰めたが、反対に連理は明るい表情で手を挙げると彼を呼んだ。

「炎遥」

　顔を上げた男の切れ長の橙の瞳が結麻を射抜いた。彼女は無意識にごくりと唾を飲み込んだ。

　これが、紗藍の竜だ。

　炎遥に案内されるまま、結麻と連理は屋敷の奥へ向かった。廊下を何度も曲がったので、結麻はひとりでは玄関に戻れないな、と思いながら炎遙の後ろをついていった。ひとつにくくられた後ろ髪には黒い房も少し混じっていたが、赤も黒もいずれも、先のほうに向かって徐々に白く透き通っていた。とてもきれいだ。

　そうして揺れる炎遙の髪を見ながら、導かれるままに遠くの部屋に通された結麻は、その部屋の上座に度会の前当主が待っているのを見た。この集落の、実質的な最高権力者である。

　その男の示すまま、床に腰を下ろした結麻と連理の後ろで、部屋を出て行く炎遥が静かに引き戸を閉めた。

　炎遥の主は紗藍である。そして紗藍は度会の当主だ。なのに炎遙はこの、いかに前の当主とはいえ今は家の主でも竜の主でもない男の、小間使いのような仕事に甘んじた。それがなにを意味するかは明らかだ。知らないわけではなかったが、結麻は紗藍の今の立場を改めて認識した。

　この男、早稲（わせ）は、紗藍を操る実質的な当主だ。そして結麻は、かつて度会と肩を並べた瀬尾の当主であるのに、度会にとってはもはや、それを隠す必要もない程度の存在だということ。結麻は少しだけ悔しさを感じたが、呑み込んだ。わざわざ再認識させようとしているのであれば、それはある意味では早稲の侮りの程度は結麻が思っていたほどでもなかった、ということでもある。

　でも連理は？　結麻は目線だけ、隣の連理に向けた。連理は早稲のほうをまっすぐ見ている。結麻もあらためて早稲を見ると、早稲は少し頷いてから口を開いた。

「誰に頼むか決めあぐねていてな。それできみたち含め何組か、有望そうなのを空けておいたのだが、やはりきみたちにしようと思う」

「身に余る光栄です」

　連理は膝の前に手をつき、深々と頭を下げた。なんのことかピンとこないままながらも結麻も慌てて頭を下げた。連理が顔を上げたのは彼女よりもかなり後だった。

　早稲は白まじりの髭をたくわえ、目尻に笑い皺のある大柄な男だ。暗い屋内では黒にも見える、濃い紫の瞳をしている。結麻がかつて父から聞いていた印象よりは、ずっと物腰が柔らかい。結麻はしみじみと納得した。もうこの男にとって瀬尾は、競う対象ではありえないのだろう。早稲は結麻には、もはや牙を見せる必要さえ感じていないのだ。

　早稲は右に置いていた黒い盆を、床を滑らせふたりとの間に移動させた。丁寧に畳まれた紙を手に取り、盆を脇におしやると、彼はその紙を広げて自分の前に置き、それから静かに向きを変えてふたりに見せた。

　どこかの屋敷の見取り図だ。目をしばたたかせた結麻の横で、連理は眉を寄せた。きっと彼は、これがどこのことなのかわかっている。早稲は連理のその反応に満足そうに頷いて、言った。

「これの後衛を任せたい」

「後衛」

　連理が顔を上げて問うと、早稲はもう一度頷いた。ならば先頭を行くのは――結麻は何も言わなかったが、さすがにわかった。これは紗藍に花を持たせる仕事だ。度会の新当主のお披露目として、ふさわしい仕事。

　だからこの屋敷はきっと、かなり名のある家なのだろう。そして今回の仕事は「最後まで」を要求されているに違いない。評決への出席を阻止するために手傷を負わせるとか、人質として差し出された嫡子を取り返して次の手に備えるとか、そういう類いではない。

　命まで奪う仕事だ。少なくとも結麻は、そう思った。

　だからといって断る理由はない。この集落にとっては珍しいことでもなんでもない。当然連理にもだ。結麻は頷いた。

　早稲は再び炎遥を呼び、その見取り図を手渡すと、ふたりを紗藍の部屋に連れていくよう指示した。

　ふたりを先に部屋から出し、炎遥は扉に手をかけた。

　部屋の中、座ったままの早稲が膝に手を置き、彼を見ている。炎遥は目を細め、そして戸を閉めた。