iv / Chloranthus serratus

 日は一番高いところを過ぎている。木立の間を登ってきた結麻はため息をついて倒木に腰を下ろした。彼女が翠嵐を呼び出した場所から十数歩くらいしか離れていないところだ。今は彼女のほかには誰もいない。風が、あのとき伸びたままの梢をざわざわと揺らしていった。


 不本意な期待を受けたときの気分は、結麻にもわかっている。かつては度会家と勢力を二分していた瀬尾家の当主であった佐慈が妻と共に命を落としたあと、一人娘の結麻はその立場を実体験した。彼女は「かわいそう」であることを期待された。はっきり言われたわけではないが、周りは彼女をそういう目で見たがった。

 しかし、その後の彼女を育ててくれた祖父母は、誇り高くあることを結麻に望んだ。それは結麻の思いと一致していたから、彼女はそれを「勝手な期待」だとは感じなかった。それでも家の勢力の衰えは曲線を描くことすらなく、あっという間に彼女の家名は過去のものとなってしまった。

 祖父母が没してひとりになったあとも、祖父母の育て方、そして彼女の思いは彼女を、ただのかわいそうな少女にはしなかった。

 だから彼女は結局、のけものにされた。「かわいそう」ではなく、哀れみをもって接すべきともならなかった以上、特に度会に与するものからは、彼女は忘れたい、または煙たい存在でしかなくなった。


 集落の空気がそういうふうになっている、というのはなんとなく肌で感じていたけれども——だからこそ、ああはなるまいと思っていたのに、その気持ちで頑張ったつもりだったのに、結局、同じだと評価された。そしてその評価に腹が立ちはすれども、間違っていると言うこともできずに、モヤモヤばかりがたまっている。彼の「代弁」は、悔しいが、正しかった。

 翠嵐が出て行ったその日から今日で三日目だ。彼とはその間会っていないが、まだそのときのことを思い出しては怒りを感じたり反省したりの繰り返しで、いい加減疲れてきた。

 それでも彼を、人と同じように扱おうとしたこと自体を間違いだとは、今でも思っていない。

 ならば、どうすればいいのだろう。


 背後で茂みが音を立てた。結麻はとっさに飛び退いた。

 顔を出したのは紗藍だった。結麻とは同い年だが、竜を喚び出したあとに紗藍の父親は形式的には引退したから、今は彼女が度会家の当主である。だからこの集落の中ではかなりの重要人物なはずなのに、今、彼女はひとりだ。結麻は肩をすくめ、腰掛け直すと少し左にずれて、隣を紗藍に勧めた。

 さきの集落の空気のせいで、人前で親しくしづらいのは確かだったが、それでも歳の近い彼女は結麻にとっては一番気を許せる友人だ。それにもはや瀬尾家には、度会家に張り合えるだけの力もない。だから警戒される理由もないはず。そういう意味では結麻は、肩肘張らずに紗藍と話せる今の状況には、むしろ感謝してさえいる。

 そして、いそいそと腰掛けた紗藍もまた、集落の皆が思っているよりもずっと、結麻を信頼していた。結麻は紗藍の機嫌を取ろうとはしないから。


 紗藍は懐から小さな包みを取り出し、それを膝の上で広げて、品の良い干菓子をひとつつまみ上げると結麻に渡しながら言った。

「佐慈さんの扉、成功してよかったね」

「うん。ほっとした」

「しかも出てきたのもすごかったし。さすがだね。皆まだ噂してるよ」

 紗藍は自分の分を口元に運びながら結麻を見、彼女が浮かない顔をしているのに気づいて手を下ろした。

「やっぱりきつい?」

「きついっていうか。なんだろ。思ってること読まれるのが、ちょっとやだ」

 ああ、と苦笑いした紗藍は、干菓子を口に放り込むと指先を組み、目を伏せた。

「私も最初それで結構悩んだよ。他人だと思ってると、どうしてもね。誰にも知られたくないこととかあるし。言われなくても知ってるんだろうなと思うと勝手に恥ずかしいし……」

「やっぱそうだよね」

「でも、他人じゃないんだって思うようにしたらなんとか慣れてきた」

 結麻は首を傾げた。

「他人じゃないとか、思える?」

「思えるよ。私は炎遥えんようを、自分の体がふたつあるようなものって思うことにした。そしたら結構気楽になった。今も外で見張ってくれてる」

「見張る?」

「私が結麻と話してたら嫌な顔する人とか余計な詮索する人もいるから……そういうのを人知れず避けたいときに。体ふたつあると、便利でしょ?」

 思わず周囲を見回した結麻は、そうなんだ、と呟きながら目を伏せた。自分の体がふたつ。その場合、竜自身の思いはどこへいくのだろう。自分の誕生日を祝ってくれた山吹のことを思い出し、結麻は少し考えて、呟いた。

「私には無理そう」

 紗藍はその言葉を聞くと、息を吐いて立ち上がり、座ったままの結麻を見下ろしながら両手を腰に置いた。


「ねえ結麻。知ってると思うけど、結麻が無事に竜を喚んだことと、その竜があんなのだったのとで、結麻がうちの家に逆らうんじゃないかってざわついてる人たちがいて」

「つまんないよね。私はそういうの、もうどうでもいいんだけどな。ただ皆と同じようにちゃんと仕事をさせてもらえて、そのうちちゃんと一人前だって認めてもらえればさ」

「わかってるよ。でも実際、肩書だけ立派で経験も人望もない私たちにできることなんか、限られてるじゃない……」

 結麻は紗藍の言わんとしていることが今ひとつ掴めず、眉を顰めて彼女を見上げた。

「別に、今までどおりだよ、私は」

「結麻はそのつもりでも、皆はそんなふうには見ないんだって。だから、うちから皆に仕事を回すときにも、結麻にはきついのを割り振ろうとする人だって出てくるだろうし。私は形式的には当主の座を譲られたけど、実際はまだ父が現役だし。実を言うと私が怖いのは父なの。佐慈さんだって」

「やめようよ。その話は」

「ごめん。でも最後まで聞いてほしい」

 紗藍は少し俯いて、息を吐くと続けた。

「私は結麻の竜は結麻を今までより危ない立場に追いやると思う。だから結麻はさ、私の……」

 そこまで言って紗藍は眉を寄せ、それから不意に振り返った。茂みの向こうに人影が見える。彼女は結麻にごめんと手を合わせた。

「誰か探しに来たみたい。一緒にいたのを父に報告されるとちょっと面倒なことになるから、途中だけど」

「……大変だね、ご当主様は」

「ごめんね。また今度ちゃんと話させて」


 紗藍が行ってしまい、またひとりになったその場で、結麻は先ほどまで紗藍の座っていたほうへ、ごろりと寝そべった。

 少しだけ温かかった。「また今度」がないといいなと思った。紗藍と会うのも話すのも好きだ。でもさっきの話は、彼女の口からその続きを聞きたくはなかった。


 紗藍の使った扉は、集落のものたちが手分けして探し、見つけ出した中では最高のものだったが、それで現れた火竜の翼は二双だった。それでも炎遙はかなりもてはやされたのだ。山吹をはじめとした集落の他の竜に比べれば格段に強力だったので。「飼える」ことを考えたとき、大抵の竜は翼を持たないか、あっても一双だ。

 ところがわずか数ヶ月後、没落した瀬尾家の若き孤独な当主は、前当主の遺した扉を使い、三双の翼を持った桁違いの地竜を喚び出し、そして選ばれた。紗藍に向けられる視線がどんなふうに変わったかは想像に難くない。外に出るのも不自由なくらいだ。家では尚のこと居心地が悪いだろう。

 だから彼女はきっと、その息苦しさから抜け出すために、結麻にある提案をしようとした。竜の交換だ。彼女にとって「もうひとつの体」であると言った竜を、彼女は結麻に差し出そうとした。それはきっと苦肉の選択で、彼女がその竜を大事にしていないという意味ではない。紗藍はそういう子だ。なのにその提案をしようと、今日、ここに来た。それを選ばせるほどの環境に、彼女は身を置いている。

 そしてそれでもなお、結麻の身の安全を思って、というのも嘘ではないのだろうと思う。でももしそうだとしても、翠嵐のことは結麻が勝手に決められることではない。なぜなら——

 結麻は思わず、ああ、と声を漏らした。



 夕暮れを見ながら家路についた結麻は、数軒先に見えてきた自宅を生け垣ごしに覗いている人影を認めた。顔を見るまでもない。あんな色の頭をした人間はこの集落にはいない。

 振り返った彼と目が合って立ち止まり、結麻は大きく息を吐くと、大股で近づいていきながら大声で尋ねた。

「なんで入らないの?」

「締め出された」

 悪びれた様子もなく、なんならどうしてそうなっているのかさえ理解していないような翠嵐の目の前まで来た結麻は、懐から鍵を取り出すと、ずいと彼に押しつけた。

「自分ちの鍵くらい持ってて」

 翠嵐は少し目を細めながら首を傾げ、しげしげと結麻を見たあとに、「わかった」と答えた。

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