iii / Chloranthus japonicus
結麻は、決めたとおりにした。
周囲は当然、良い顔をしなかった。この集落で竜は通常、人に飼われる。だから人の姿を取らせることは主たる人間が、そうさせなければならない理由があるときに限って「許す」ことだった。
結麻が今ひとりで暮らしている家は、彼女の両親や祖父母も暮らしたから、その竜もまた暮らした家だ。だから当然、ほかの家と同じように竜を飼うことはできる。竜は人に姿を変えられるのだから、大きさだって自由だ。
それでも彼女は、翠嵐を竜の姿ではいさせなかった。どう考えてもそちらのほうが便利そうだったので。
「でも、本来私たちって、持ちつ持たれつの関係よね」
結麻が今自宅にしているのは、かつては離れの客間として使われていた小さな建物だ。ひとりになった彼女には広い母屋の管理は荷が重すぎた。だからここが今彼女の、お世辞にもきれいとは言い難いが、こぢんまりして、そしてこざっぱりした、居心地のいい家。
古びた食卓を挟んで翠嵐と向かい合っている結麻は、食卓から少し離れた椅子の上であぐらをかき手元に目を落としている自分の竜を睨んだ。
開け放たれた窓の外では、朝の光が生け垣のそばにまだらの影を落としている。結麻が翠嵐を喚び出してから数日が経っていた。彼女は不機嫌そうな顔で顎をしゃくった。
「あなた、ちょっと無遠慮がすぎない?」
翠嵐は脚の上で開いた本から、ちらりと視線だけを上げた。結麻が不満げな顔で彼を見続けていたので、彼は足を下ろすと少しだけ椅子を引き、虫が食った跡も無惨なぶ厚い本を開いたまま食卓に置いて大きなため息をついた。
今の彼はほかの竜が人の形を許されるときの多くと違わず、二十代半ば程度の人の姿をしている。そしてほかの竜が人の形をとるときと違わず、目の色は竜のときと同じ。結麻は、それはきれいだな、と思った。それ「は」。
それ以外は実際のところ、がっかりし通しであった。なにしろ彼は結麻が招き入れた彼女の家で、納屋から佐慈の蔵書を大量に引っ張り出してきて読みあさることと、結麻が準備した食事をとった以外、この数日間、何もしていない(厳密にはそのほかに、ゴロゴロはしている)。会話もほぼなかった。結麻が一方的に話しかけるだけ。
結麻の前で彼は、深い赤の短髪の上から後ろ頭をぼりぼり掻き、それよりは少し長い黄色の前髪をつまみ、それからそのまま頬杖をつくと目を細めた。しかしそれは結麻をまっすぐには捉えていない。
「甲斐甲斐しくしてほしいのか?」
「そこまで言ってない。でも衣食住を提供してる私に対してもうちょっと敬意を払ってほしいの」
「自分で招いた事態だろ」
「でも応じたのもあなたでしょ? 私は懇願はしてないわよ」
翠嵐は肩をすくめ、本の頁をつまみ上げると、虫食い穴をなぞりながら、じゃあ、と先を促した。
「敬意の払い方は?」
「まず私の名前を覚えて」
「呼ばないのに?」
「呼ぶでしょ。私は自分のことをほかの人みたいに『主』なんて呼ばせる気ないのよ」
翠嵐は呆れた顔で、虫食い穴を人差し指と親指とでつまんで隠し、指先で擦り合わせてから手を離した。さっきからずっとこういう作業をしているのだ。その結果ここより前の頁に空いていた穴は紙が修復されているが、だからと言ってそこに連ねられていた文字までが戻ることはない。まだらに余白のある本のできあがりである。
結麻は、食卓に肘をついてため息を落とした。
「私、別にあなたの主になりたいわけじゃないの。あなたを便利に利用するばかりなのも嫌。だからあなたの希望は叶えてあげたいと思う」
彼女はずるずると椅子を下げながら食卓に顎をつけ、もう一度ため息を漏らしてから目を閉じた。
「少なくともここの皆の中では、そういう考え方って少数派、っていうか知ってる限り私だけみたい。けど、だからって自分が敬意を払ってもらわなくても気にならないかっていうとそういうわけでもないの。私、竜とは平等でいたい。だからあなたにも、もうちょっと友好的にしてほしい」
翠嵐は眉を上げ、本を閉じると食卓の隅に寄せた。
「理想主義者だな。瀬尾の若き当主は」
結麻は眉を顰め、背筋を伸ばして翠嵐を見た。この竜は自分の名前さえも覚えていなかったはずなのに。
「私、そんな話した?」
「話はしてないけど」
翠嵐は自分のこめかみを二度、人差し指でつついてみせてから言った。
「人間が竜を使うなら不可避だ。知ってるだろ」
「そういうことあるって聞いてはいたけど。でも私にはあなたの頭の中のこと聞こえてこないから、今は違うと思ってた」
「俺が知られるつもりがないからだ。そしておまえはうるさい」
そう言って翠嵐は欠伸をした。無関心そのものという彼の顔に、結麻は心底参って頭を振った。
自分が考えることは、今目の前にいる竜に筒抜けらしい。こんなに心が休まらないことがあるだろうか。その上相手の考えは自分には届いてこない。知られるつもりがないからだという。ならば結麻の考えが彼に伝わるのは結麻がそれを知られたいと思っているから? 知られたいのだろうか。そんなことを。
首をひねった結麻に、翠嵐は肩をすくめてみせた。
「そうだろ」
「……ちょっと、黙ってて」
「言語化が遅い。代弁するから聞け」
「待ってよ」
「おまえの、竜と仲良くやるという考えこそが正であり善であるために、おまえはあの
彼の口ぶりは淡々としていたが、それは内容と相まって結麻を傷つけた。しかし彼は
「でも実際のところおまえは、自分でそうありたい姿ほどには周りの連中と違わない」
「待ってってば」
「おまえは連中と同じ程度に傲慢で、しかも連中よりも幼稚だ。俺に理想を叶えてもらおうとしているのはおまえも同じだろ? どういう役をやらせたいかが違うだけだ」
「だから! 待ってよ」
結麻は食卓の天板を拳で叩いた。
翠嵐は腰をかがめると、先ほど食卓に置いた虫食いだらけの本を持って玄関に向かった。扉が閉まる音はしなかったが、結麻は顔を上げた。
今、初めて「聞こえた」気がする。限りなく平坦で、退屈。どうでもいい。なんとも思わない。耳を介して聴くのとは違う、言葉に落とし込まれる前の想いの姿が、色が、脳裏に浮かんだ。これがそうか、とも思った。しかし、それならば。
あの態度は彼が、気位が高く、それがゆえに気難しいとされる「上級者向けの」竜だからだろうか?
そうではない。
周りは竜を、人の「従」と扱っている。だが、いや、「だから」、結麻は彼をそうは扱わないと決めた。それが少なからず彼女自身のためであることを、だから彼女だって彼を利用しているに過ぎないことを、彼女もまた彼女なりの勝手な要望を抱いていたことを、彼女が自覚もしていなかったそのことを、翠嵐は見抜いた。
なのに彼はそれに怒りや憤りも感じることはない。結麻にも、周りにも、関心がないからだ。ただ結麻の思いが「うるさい」から、彼は彼女を黙らせた。それだけ。
彼女の喚んだ竜がそういう
長老の言葉が頭をよぎったのを振り払うように結麻はぶんぶんと頭を横に振ると、下ろした手のひらを見つめ、ぎゅっと握った。
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