ii / Zelkova serrata
岩場の上に砂がたまってできたこの島は土壌が痩せていて、木々もさほど勢いよくは育たない。だから結麻と「扉」とを中央に迎えた石敷きの場所も、そこが特別な場所として整備されたのはかなり前であるのに、周りの木々の幹はそれほど太っていなかった。
枝の先の葉が、真上にある日の光を受けて足元にまばらな影を落としていた。止むことのない風が梢をざわめかせ、時折鳥の鳴き声が高く響く中、結麻は言葉を唱え始めた。
父、佐慈がその祖父に伝え、祖父が結麻に覚えさせた言葉はこの扉の鍵だ。それを、差し込んだ鍵を慎重に回すようにゆっくりと、一音ずつ唱える。そうして最後にたどり着き、結麻は口を閉じた。
不意に世界が沈黙した。
鳥が一斉に飛び立った。
そして木々が、成長を始めた。
長老は眉を顰めた。周りにいた男たちはめいめい空を見上げた。足元が暗くなっていく。樹冠が音を立てて伸び繁り、日の光が次第に遮られている。
幹が脈打ち、梢は邪魔立てするものを刺し貫かんばかりの勢いで伸びた。次々と葉が開き、色づいて散るそばで別の葉が生まれる。結麻たちの足元に敷かれた石も波打った。根も暴れるように伸びている。
思わず地面に手をついて体を支えた結麻の周りを、黄と赤に色づいた葉が乱れ舞った。紅葉の嵐で、そこにいる誰もの視界が塞がれた。結麻は体勢を立て直して顔を上げた。
そして彼女は真正面に、今まで見たことのないものを見た。
彼女の眼前で彼女を見下ろす竜は、彼女が知っているどの竜をも寄せ付けない威圧感を放っている。確かに大きい。畳まれてはいるが、翼も三双ある。でも、それだけではない。
この竜は現れただけで、この島の草木全てを支配した。
結麻は唾を呑むと、改めて目の前の竜を観察した。砂のような色のざらりとした皮膚。地竜だ。ほぼ黒い角は光の当たったときだけ様々な季節の葉色に彩られる。爪は磨き抜かれた鋼のようだ。
少し間を置き、竜は首をもたげて咆哮した。音はなかったのに、空気が震えた。幹を震わせた木々は一層成長を速め、もう一度季節を巡ったところで勢いを止めた。
結麻は、最初ここに来たときよりも格段に高くなった木立を見上げた。乱舞していた木の葉の最後の一枚が足元に落ちるのを見守っていると、後ろから落ち葉を踏む音が聞こえた。振り返ると長老がすぐ後ろまで進んできていた。結麻はそちらに向き直って言った。
「喚べました」
長老は肩を落とした。
「見ればわかる。問題は還し方だ」
「還す? どうして」
「その竜はおまえを喰うぞ」
結麻はぎょっとして後ろを振り返った。地竜は目を細めて長老を見ている。結麻は眉を寄せながら、竜のほうを見たまま長老に言った。
「人間を食べる竜なんて聞いたことないです」
「そういう意味ではない。その竜は人間には従わない。ならばここに残すべきではない」
「父が遺した私の竜です。勝手に決めないで」
かみつくように言った結麻にも長老は全く動じない。結麻は大きく息を吐くと再び竜を見上げた。
竜の目は新緑の色をしている。細い瞳孔は結麻を値踏みしているかのようだ。結麻が睨み返すと、竜は小馬鹿にしたように目を眇めて首を傾げた。
長老が真横まで進んできた。結麻は胡乱な目でそちらを見たが、長老の表情が思っていたのとは違ったので、少し姿勢を正して言った。
「紗藍のことを抜きにしたご意見なら」
「それでも勧めん。過ぎたる道具は身を滅ぼす」
「道具として使わないなら?」
長老は眉間に皺を寄せて結麻を見、ため息をつくと、後ろの男たちに聞こえないよう小声で言った。
「おまえがそれでよいのなら、好きにせい。ただしやり直したいと思ったときはくれぐれも遠慮するな。我が家にも瀬尾の世話になったものはいる」
「ありがとうございます」
長老が結麻の後ろに少し離れたころ、集落のものたちが集まってきた。皆、そこにいる地竜を見、それから結麻を見ると、周りに見知った顔を見つけてそちらに行き、ひそひそと話を始めた。
そうして様子を見に来た中には紗藍もいた。黒髪に白と赤の装束を身につけた彼女は、隣に燃えるような赤の鱗を
結麻は改めて顔を上げ、地竜を見た。周りに人が集まってきても、その竜は身じろぎもしない。まるで見てさえいないかのようだ。結麻は目をぎゅっとつぶると、両手で頬を叩いた。その音で周囲のざわめきが消えた。
衆人環視の中、結麻は竜の前で腕を組んで言った。
「ようこそ。私があなたの、この世界に通ずる扉」
竜は動かなかった。しばしの沈黙のあと、結麻は肩をすくめた。
「こことか、私とか。気に入らないなら残れとは言わないわよ。あんたの目的に足りる私であるなら選んでほしい。少なくとも今は、私はあんたの選択に従うしかないの」
足元の紅葉を踏みしだき、結麻は竜との間を詰めた。竜の懐と言えるほどの距離で、彼女はもう一度顔を上げた。頭上に一枚、赤く色づいた葉がひらりと落ちてきた。
「私はあんたを使えると思ってない。あんたが従ってくれるとも思っていない。それでもいいと思ってる。でもこれは懇願じゃないの。意味わかる?」
竜はゆっくりと目を細めると、背伸びをするように大きな翼を広げた。ざわつきの中、風が落葉を舞い上げ、青い空に吸い込まれていった。
それから竜は長い首をすいと前に下ろし、敷かれたままになっていた「扉」を、鼻先で払いのけた。
紗藍は隣にいた彼女の竜に目配せをした。そのやりとりは結麻には聞き取れなかったが、紗藍は振り返った結麻に小さな会釈をすると、背を向けその場をあとにした。
紗藍の竜は一度振り返り、結麻の後ろの大きな竜を仰ぎ見たが、すぐに前に向き直って主のあとを追っていってしまった。
その晩、結麻は竜に名を与えた。竜は特に反対の意を示さなかったので、彼はそれから「
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