月色相冠 / sage

藤井 環

i / Linum usitatissimum

 ぐるりを一日かけずとも歩けてしまえそうなその島には、集落がひとつあるだけだ。かつて小舟数隻でたどり着いたある部族が、今もひっそりと暮らしている。

 岸から岩場を抜けると、まばらに草が生える砂地を通り、踏み固められた道が進んでいく。その脇にぽつりぽつりと目に入り始める家屋はどれも似たような形をしていた。石を積んで作った平屋を生け垣が取り囲む造りだ。この島は風が強い。


 正午を間近に控えて、空はからりと晴れていた。

 人の背丈ほどの竜が、生け垣の隙間から頭を出して外の様子を窺った。その竜は視線の先に人影を認めると、ひょいと首を引っ込めて一度中に入り、少し先に設けられた木戸を器用に鼻で開けて道に出た。

 鱗のようなごつごつとした皮膚に包まれた後ろ脚は、心もとないほど細い前脚に比べると不釣り合いに発達している。竜は人影のほうに向かって三つ股の足跡をさくさくとつけ、立ち止まった。人影は大人になりかける年頃の少女だ。彼女は背に垂らした薄茶色の髪を揺らし、竜に向かって走り出した。竜は返事をするように、太く長い尾をゆったりと振った。


「おはよう。山吹やまぶき

 竜に手の届くところまで来た少女は物怖じすることなく、自分ほどの背丈の竜の鼻面を撫で、顎の下をくすぐった。喉の鳴る音がする。少女にはそれが言葉であることがわかる。何を言っているのかも。そしてそれはこの、皆が紫色の瞳を持っている集落では、彼女だけに特異な能力ではない。

〈誕生日おめでとう、結麻ゆま

 その竜、山吹はそう言ったのだ。結麻は満面の笑みを浮かべると、一歩後ずさって山吹から離れた。

「私もやっと竜を呼ぶの」

〈もうそんなになるんだね〉

「そうよ。あれから十一年だもの」

 山吹は瞳孔が線のようになった灰色の目を細めた。

〈使いやすいのが呼べるといいね〉

 結麻は肩をすくめ、実はね、と頬を掻いた。

「こないだ納屋から出てきた『扉』を使おうと思ってるの」

〈あの、珍しい形の?〉

「そう。失敗しそうだからやめろって言われたんだけど、そう言われると余計挑戦してみたくなるでしょう?」

 山吹は、くくっと声を漏らすと、尾の先に小さな橙色の火を灯し、それを高く掲げながら頭を下げた。

〈幸運を〉

「うん、ありがと」

 結麻は少しだけ顔を引き締めてそう返し、踵を返した山吹が木戸をくぐって中に入ってしまうのを見届けてから、その場をあとにした。


 この集落や、周りのいくつかの島に住むものたちは、ほとんどが紫の目をしている。力を帯びた竜を呼び出し、それと契りを結ぶことで、竜とその能力を我がものとして使う——それが紫の目の人間にだけ備わっているとされる、特異な能力だ。

 そうして人と結んだ竜は、主との契りを解くするまで——大抵は「主が死ぬまで」、そのそばに付き従う。竜たちは「従」であることを明らかにするために姿形を選び、主が命じたときにのみ人の姿をもまとって、主を手助けする。それがこの辺りの「普通」であり、山吹もそうした竜の一柱であった。


 そんな関係は竜にとってなんの益もないように思えたから、結麻は山吹に理由を聞いた。それに山吹は、彼らがもともと形ある存在ではないからだと答えた。

 主を選ばなければ、彼らはこの世界に触れることができない。「世界に触れる」ということは、それが当たり前の結麻たちにはわからないだろうけれども、何ものにも変え難い魅力的なことなのだと彼は言った。

 大地に立ち、風に触れる。肌を伝う水の冷たさを、燃え上がる炎の熱さを感じる。地を蹴り自らの重みを知る。そして自ら選んだものと、同じ時を過ごす。

〈きっとそれが「生」で、だからこそ我々はそれを求めてしまうのだね〉

 苛烈な炎を自在に操る竜である山吹は、静かに、少しうっとりとさえしながら、そう話した。十一年前、山吹の主がまだ先代だったころのことだ。


 とはいえ、そうであったとしても結麻にとっては、現況は納得いくものではなかった。

 人間は生業の道具として竜を利用する。人間と竜の関係は、ここでは主と使役されるものだ。でも竜は決して、身体能力はもちろん知性でも、人間に劣る存在ではない。むしろ、血筋だのなんだのに左右されずに、目の前のものにまっすぐ向き合い、自ら判断し評価する。結麻からすれば、人間よりずっと公平で公正で、清く正しい生きもの。

 結麻はそういう竜、触れれば冷たく固い皮膚を持つ竜を、この集落の大人たちより、よほど温かいものに感じていた。

 彼女は長老らが待つ場に向かいながら、自分が呼び出した竜には、自分もそういうまっすぐな付き合いをしよう、と思った。



 しばらく歩くと、木立で覆われた小高い丘についた。人ふたりは並べないくらいの踏み固められた道を上っていった先では、天辺だけ円形に切り拓かれ、石が敷かれている。既に数人の男たちと長老とが来ていて、結麻の姿を認めると両脇に退いた。

 中央には「扉」が敷かれている。結麻は目を細めた。彼女が先頃、長老の使いに渡したときにはまだ筒状に巻かれていたが、今はきれいに広げられている。それは先月結麻が、今はもういない家族の遺品が置かれたままになっている納屋から見つけ出したものだ。「扉」と呼ばれるのはその機能のせいである。

 目の前に広げられた「扉」は、風が梢を揺らしていっても、まったく浮いたりめくれたりしそうな様子もない。まるで開かれるのを待っているようだった。男たちが無言で取り囲む中、結麻は「扉」を見下ろしながら、その周りをゆっくりした足取りで一周し、立ち止まると深呼吸をしてから数歩後ろに下がった。


「扉」は形なき世界と現世とを繋ぐ道具だ。代々口伝される言葉と一体となって、その世界に住まう一定の条件を満たした竜を喚び出すもの。記された図形と、喚び出される竜とは対応していて、図形を見れば大抵はどんな竜が出てくるのか把握はできる。

 だから大事なのは、自分に合った竜に通じる扉を選ぶこと。それがこの集落の常識である。それで、喚び出しを行う十七の誕生日を前に、その子の家族は集落中を、ときには他所の集落まで手を広げて、我が子のために最適な竜の扉を探すのだ。

 しかし結麻は違った。彼女にはもう家族がない。それで彼女は、家族の遺品に埋もれていたその扉を選んだ。


 結麻が選んだ扉は異様であった。幾何学的な線の引かれたその図形は左右対称ではないし、基礎となるべき円も楕円で収まりが悪い。その上その楕円の中には数十種類の小さな記号が密に詰め込まれ、解放を求めるかのようにひしめきあっている。

 いくつかの特徴は、その扉の先の竜が格の高いものであることを示していた。三双の翼を持ち、強大な力を備えたもの。しかしそれは気位が高く、そして気難しいことをも意味している。言うなれば「上級者向け」である。

 それを理由として長老は、結麻にもっと簡単に扱えるものを喚び出すように勧めたが、彼女は聞かなかった。彼女は長老の申し出の一番の理由がそれではないことも知っていたからだ。


 そして今日。長老は、準備体操をするように首を曲げた結麻の後ろから彼女に尋ねた。

「これは佐慈さじが自分で作ったものでは」

「たぶんそうです。父は扉の研究が趣味だったと聞いているので」

「ならば喚び出せる保証はないし、出てきたとしてもな」

「出てこなければ別のを選び直します。それに紗藍しゃらんのときは、手広く声をかけてありったけ強いのを選んだと聞きましたが? 私は駄目なんですか?」

 渋い顔で口をつぐんでしまった長老と、にわかに険しくなった周囲の男たちの様子に肩をすくめ、結麻はもう一度深呼吸をすると一歩踏み出した。


 結麻が、仕事のさなかに命を落とした両親に代わり、祖父母に育てられるようになったのは十一年前だ。その祖父母も数年前に他界し、彼女はその後をほとんどひとりで生活してきた。

 結麻は瀬尾せのお家の最後のひとりである。瀬尾家はかつては、この集落で今一番の権勢を誇る度会わたらい家と肩を並べる存在だった。最盛期には集落の誰もがいずれかの派閥に属し、当主は仕事の依頼のとりまとめ役であり、皆を指導する立場だった。

 しかし、小さな集落だ。当主とその妻とが幼い娘を遺して没し、先代当主夫妻もまた逝くと、今まで親しくしていたものも、結麻ひとりになった瀬尾家を離れ、度会家についた。瀬尾の新当主となった結麻は、度会家との関係を重視するものからは存在を無視されることになり、半ば孤立した形となって、あまり恵まれた暮らしを送ってこなかった。


 結麻には度会家と張り合うつもりは毛頭なかったし、つい数ヶ月前に竜を選んだ度会家の一人娘である紗藍を目の敵にするつもりもまったくなかった。同い年のふたりはこの狭い集落の中では、大っぴらにはしにくいものの、無二の親友である。それは今でも変わらない。

 しかし周囲の大人にふたりの個人的な友情は関係がない。とくに結麻の父の死後に度会にくみするようになったものたちは、結麻を冷遇した。紗藍が喚び出す竜の扉は、紗藍がまだ十五のころから選別に選別を重ねて選ばれ、その喚び出しの日には集落の半分以上の人間がここに集った。

 対して瀬尾はどうか。この落差だ。


 これが今の、いや、今までの結麻の立場である。

 彼女はこれから「自分の」竜を喚ぶ。そうしてその竜と一緒に、集落の大人に交じって仕事につくことが許されるようになれば、割り振られた仕事をこなして一人前と認められる日もあるはずだ。

 家の再興などどうでもよかったが、竜と契ったその日から、結麻も周囲を見返すチャンスを得られるようになるのだ。彼女はそのことが何よりもうれしかった。

 たとえその仕事、集落の民の生業が、日の当たる世界では忌み嫌われるものだったとしても。


 結麻は「扉」の前で両手を合わせ、目を閉じると静かに、祖父に教わった言葉を紡いでいった。

 背中に垂れた彼女の髪を遊ばせていた風が止み、扉の上の文字がぞわとうごめいた——ように、見えた。

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