第19話 頂きからの眺望

 この世界に来てから、初めて快適に目が覚めた。

 いや、日本に居た時でも40歳を超えてからこんなに快適に目覚めた事がない。数十年ぶりに体験する爽快な覚醒だ。


 年を取るとストレスや悩みで自然と眠りが浅くなる。それゆえ、朝は覚醒に時間を要するのだが、こんな爽やかな目覚めはあまり記憶にない。


 上半身を起こすと、紙のように軽い生地が体に掛かっていた。手にとって見ると本当に軽くて柔らかく、重さを殆ど感じさせない。

 体の上から退かすと朝の冷気が忍び寄ってきた。どうやらこの生地は保温性に優れていて、夜露も防いでくれたようだ。


 ぱっと見、銀色の毛皮のような起毛の生地だが、機能性や快適性は段違いだ。体に巻き付けるとピタリとフィットして暖かさに包まれる。しかも、地面との間には空気の層が作られるようで、マットレスの上で寝ているように感じる。


 ある程度の力で引っ張るとスルリと取り去る事が出来て、ビニールシートの様に薄くなる。ペラペラなのに丈夫で、かなりの力で引っ張っても破れない。


 魔法の毛布とでもいうのだろうか?


 一見毛皮のようだけど、ハイテクを駆使した化学繊維のようにも思える。手触りも寝袋になっている時とシート状になった時では全然違う。摩訶不思議な物だ。

《花の精》が与えてくれたのだろうか?


 周りを見ると、昨日と同じように白詰草赤詰草、菜の花といった花々が咲き乱れる草原の中にあって、『妖精の輪』の中に居た。

 ただ、中央の大きな『妖精の輪』の中に居たはずだが、今いるのは少し離れた小さな『妖精の輪』の中だった。移動した覚えはないので、寝ている間に妖精たちにでも移動させられたのだろうか?

 不気味さは感じたものの、安全で快適な睡眠を取れた事に感謝したかった。


 立ち上がって大きく伸びをすると、体が一気に軽くなる。硬い地面の上で寝た時の体の張りや凝りといったものがまったくない。軽くストレッチをすると、全身への血流が活性化されて躍動感に満ちていく。気力体力、全てが満たされていた。


 俺は中央の大きな『妖精の輪』に近付いたが、途中で跳ね返されるように進めなくなった。まるで見えない膜が張られているような感じだ。

 どうやら一度訪ねるとそれで終わりらしい。


《泉の精》の時は怒らせたから拒絶されたと思ったが、そうではないのだろうか?

 傷や体力の回復は一度切りという事なのだろうか?

 どうにも分からないが、精霊を怒らせなかったから今回はゆっくり休む事が出来たのだろうか?


《泉の精》の場を後にした時に腕輪を拾ったが、あれはやはり《泉の精》が与えてくれたのだろうか?

 あの後、しばらくしてから気づいたのだが、リカオンもどきの牙が無くなっていた。いつの間にか落としたと思っていたのだが、《泉の精》の僕と思われる妖精たちによって取られていたのかもしれない。


 なら、この魔法の毛布も頂いて良いのだろうか?

 サーベルタイガーの毛皮を取られた…いや、供物として捧げさせてもらったが、その対価は昨夜の『かまどと食事』だろう。

 それとも、この毛布も対価に含まれているのだろうか?


 リカオンもどきの牙4本であの腕輪を貰えるのなら、サーベルタイガーの毛皮ならこのくらいは有っても良いのかもしれないが…

 黙って持っていくのも何なので、俺は小さく畳んで大きな『妖精の輪』の手前に置いた。


「《花の精》様、快適な食事と睡眠を賜りありがとうございました。この毛布はお返しした方が宜しいのでしょうか?」


 そう言って少し待ってみた。言葉は通じないと思うが、行為の意味は通じると思いたい。実際のところ、この毛布は喉から手が出るほど欲しかった。

 この場所はある程度暖かいが、ここから離れたら厳しい寒さが待っているだろう。本来、この高度で朝方なら10℃もないはずだ。


 毛布代わりのサーベルタイガーの毛皮を取られ…いや、失ったのはかなり痛い。

 このまま置いていくか、それとも持っていくか悩んでいると、地面に置いた魔法の毛布がフワリと浮き上がって俺の体に巻き付いた。


「ありがとうございます、《花の精》様。」


 俺は魔法の毛布を頂いたと解釈した。

 少しタカリのような真似をしてしまったが、背に腹は代えられない。俺は『妖精の輪』に向かって深くお辞儀をして、その場を後にした。


『妖精の輪』のあった場所から離れると、敵意を持って遠巻きに見ていた小動物たちが遠くへと散っていった。

 やはり、この一帯には俺だけが入れたようで、動物たちは入る事が出来ないようだ。


 何故精霊たちは人間にのみ施しを与えるのだろうか?

 人間と動物を隔てる垣根は何処にある?

 供物を供するかどうかなのか?


 精霊については全く解らない。クリスタルのような柱が現れてから精霊が姿を表すというのも、意味があるのだろうか?

 そもそも精霊が存在するなんて、本当にありなのか?


 次々と疑問だけが湧き起こるが、回答を導き出すための情報が殆ど無い。

 ファンタジーの世界だから考えても無駄だといえばそうなのかもしれないが、そんな思考停止に陥るのもどうかと思うし、なりたくはない。

 日本で培ってきた経験の積み重ねでは、どうにも理解できない事ばかりで、心に不安と苛立ちを募らせてしまう。


 しかし、なんだろう。

 冷静になって考えてみると、何でこんな所に精霊がいて癒しを施してくれるのか、とても不思議だ。


 というか、都合が良すぎないか?


 動物というにはどちらかというと魔物のような生物が居て、弱肉強食の世界を作っている一方で、こんな癒しの場が点在するなんて、何か外因的意図を感じずにはいられない。


 確かに精霊は神秘的だし、魔法と思われる力の効果も絶大だ。それに関してはとても感謝している。

 が、どうにも引っかかりを覚えてしまう。

 ただ単に俺が疑り深いだけなのかもしれないが、やはり神様的な視点と力で弄ばれているように感じてしまう。


 そう思うと、とても不快だ。

 若者のように柔軟に物事を受け入れられれば良いのだが、歳を取って根性のひん曲がったオッサンには難しくて辛い。


 俺は頭を振って邪念を振り払った。そんな事を疑っても今はどうにもならない。

 兎に角、心と体を癒してもらい、美味い肉を食わせてもらって安らかに眠れた。その対価としてサーベルタイガーの毛皮を奪われたというか、支払った。

 そう考えて納得しておくのが良さそうだ。


 まあ、いくら考えても解らないので、取り敢えずこの問題は心の棚に留めて保留にしておこう。今は他の人間たちを探す方が重要だ。

 俺は《花の精》が居た大きな『妖精の輪』に向かって再度一礼すると、山の頂上に向けて出発した。




             ☆   ☆   ☆




 山を登り続けて数時間、太陽は南中近くまで差し掛かったが、風がさらに冷たくなってきた。直接日が当たっている部分はそれなりに暖かいが、全体的には寒い。


 岩肌が大部分を占めるようになってきて、草の生える場所は部分的になってきた。森林限界を超えたのだろう。日本の中部だと高度2500mを超えた辺りだろうし、北海道なら高度1000〜1500mといったところだろう。


 この世界の緯度と植物分布の相関は分からないが、自分の山登りの経験からして、ここら辺は日本の温帯地域に相当すると思う。なので、高度2000〜2500m前後の辺りに自分は居るのではないかと思われる。


 頂上はまだ先だが、頂きを形成する岩がはっきり見えていて、山脈をなす稜線が延々と連なっているのが分かる。後、2〜3時間もあれば到達するだろう。


 いっぽう、後ろを振り返ると自分が辿ってきた尾根や谷、沢などが森の木々に覆われて広がっている。その先には出発点だった湖が雲海と共に見えている。


 山の中腹から見た時は幾つかに分かれて見えた湖だが、ここから見ると雲海に所々隠されているが、実際には入江の多い複雑な形をしているのが見て取れる。なんとなくだが、自然の湖というより、ダム湖に近い人造湖を思わせる。しかも、思っていたよりもずっと大きな湖だ。

 ようやく湖の全体像を見る事が出来て、一つの解答を得られた気分になった。


 俺はここらで野営のための枯れ木を集めた。この先、しばらくは入手が困難になるだろう。それと、雷鳥に似た鳥が居たので食用に仕留めた。


 準備が済むと、俺はペースを上げて山を登った。

 頂上に近づくに従って風が強くなってきたが、雨が降ったり霧が立ち込める事なく晴れ渡っていた。山の天気は変わりやすいので、向こうを見渡すチャンスを逃したくなかった。


 車ほどの大きな岩の塊が折り重なるように積み上がっていて、何度も行く手を阻んだが、俺はジャンプする事で飛び越えたり迂回したりして楽々と乗り越えて進んだ。流石にこの高さまで来ると、動物は殆ど見当たらない。遠くにエゾシカに似た動物の群れがいる程度だ。


 目の前にそびえ立つ岩の壁をよじ登り、俺はようやく頂上に到達した。東西に伸びる山脈の頂点の一つで、険しい岩だけの世界だ。

 ようやく登りきる事が出来て、それなりの達成感を得られたが、それよりも今まで見えなかった山の向こう側の景色が気になった。


 そして、やっと見る事の出来た山の向こうの世界は、延々と山々が続く世界だった。幾つもの山の稜線が重なり、遠くになるほど青みがかった山の形が掠れて見えているだけだった。


 俺は絶望した。


 何処にも人の、文明の気配などありはしない。無慈悲な自然があるだけだ。

 俺は眼のズーム機能を使って詳しく何度も見返した。山と山の間には雲が広がっているので、低地となっている部分は見えない。人間が街や村を作っているとしたら、その部分だろう。俺はヤキモキしながら雲が晴れるのを待ったが、一向にその気配はなかった。


 しばらく見続けていると、一瞬縦に長くキラリと光る輝きが見えた。

 輝きは本当に一瞬だったので、何かの見間違いかと思ったが、気になったのでズームを最大にしながらその場所をしばらく凝視した。


 すると、時折キラリと光が弾けるように輝く時があった。


 ひたすら目を凝らして見ていると、薄っすらと黒い線が地上から空に向けて伸びているのがチラチラと見えた。大気による減光や屈折のせいで見えたり消えたりしている。


 はっきりと見えた時には、それはまるで世界を区切る線のようにも感じられた。何処までも天に向かって真っ直ぐに伸びていて、途中からみ見え隠れして途切れていた。もっと近くで見れば、空に繋がっているのではないかと思うほどだ。


 俺はその黒い直線に向かって進んだ。

 それはどう見ても遥か彼方にあり、この先幾つもの山を越えなければ辿り着けそうになかった。それを思うと気が重くなるが、この自然だけの世界にあって、それだけが自然と相反する存在に思えた。


 絶望の中にあって、その僅かな手掛かりに縋り付きたかった。


 俺はその黒い直線に向けて縦走する。黒い直線を見失わないように山脈の頂上を歩き続ける。

 険しく切り立った岩の上を進むのは大変だったが、黒い直線は俺にとって最後の希望に思えた。


 日が傾いていくに従い、黒い直線が光を弾く頻度が高くなっていった。しかも、見える高さもより伸びたように感じる。が、やはり上限は見えない。

 俺は黒い直線を注視しながらひたすら縦走する。その間も、やはり他に人工的な物は見当たらない。


 太陽が沈みかけて空が赤くなり始めた時、靴が壊れた。靴底にしていた木の枝が磨り減って折れて形を保てなくなっていた。険しい岩の上を歩き続けるには強度不足だったようだ。

 湖を出発する時に補強して、途中何度も修理したが、やはり碌な材料も道具もないド素人の作りでは無理もない。逆に、よく今まで持ってくれたと思う。


 靴を修理するにはある程度山を降りて材料を手に入れるしかない。

 が、俺は無我夢中で歩いていたようで日が沈み掛けている事に今気がついた。今からでは暗くなって危険なので、俺は寝床を探す事にした。靴の修理は明日するしかない。


 幸い、ここは岩ばかりなので体を隠す場所はいくらでもあるし、獣は殆ど見当たらない。《花の精》に頂いた魔法の毛布があれば、厳しい寒さにも耐えられるだろう。



 食事を終えた時には辺りはすっかり暗くなっていて、焚き火の明かりだけが俺という人間の存在を周りに示していた。耳を澄ませて気配を探っても、獣や鳥の気配は無かった。昨日からほとんど戦いは無いので気持ちは軽い。

 これで帰る場所さえあれば、登山を楽しめるのだけどな…


 それはそうと、ここから見る夜空は凄い!

 まさに星が降るという表現がピッタリの星空だ。無数の星々が煌めき、天の川が眩しいくらいに光の帯となって夜空を走っている。


 昔、牧場を経営する友達の家に遊びに行った時、そこで見た星空や天の川に感動した。日本では人口灯が邪魔で、よほど暗い場所にいかないと天の川を見る事は出来ない。


 しかし、ここから見る星空はその時以上だ。ここは最初から人工灯が全く無い上に、高地にあって空気が薄く澄んでいるので、星空が凄く近くにあるように感じる。しかも、日本というか地球から見る星空とは見える星の数があまりにも違う。


 見える星の数がとても多くて、天の川の形も日本から見た時のものとは明らかに違う。銀河の中央部のバルジと思われる部分が随分と太く見えているので、天の川の明るさが眩しいと感じる。


 ここが地球でないのは確かなようだが、この星空から推察するに、俺が居るこの惑星は地球よりも銀河系の中心に近いと思われる。

 もっとも、それは同じ銀河系内にあるとしてだが、1等星や2等星などの明るい星が地球で見るよりも圧倒的に多い。それは、恒星間の距離がそれぞれ近い事を表しているのではないだろうか。


 俺は星空の美しさに感動しながらそんな事を考えた。

 例え、ここがファンタジー的な世界だとしても、銀河の中にあって恒星系を成し、生命の存在する惑星から成り立っているはずだ。


 神様が作った平らな大地という事は無いだろう…そう願う。


 しかし、不安というか、疑念を抱かせるものはある。それは、空の上にある鳥カゴのようなネットの存在だ。

 今も夜空を見ていると、数瞬の間だけ星々の明かりが遮られる時がある。この良く澄んだ夜空を注意して見ていると、夜空全体を包み込むようにネットが張られているのが見て取れる。


 あれは惑星全体を覆っているのか、それとも平らな大地を、西洋料理で皿に蓋をする取っ手の付いた半球型の『クロッシュ』のように覆っているのか、ここからでは判別がつかない。


 いずれにしても、世界はネット状の物に覆われている。つまり、何者かによって取り込まれていると考える事も出来る訳だ。

 それが神なのか、宇宙人なのか、現地人によるものなのか、今は謎でしかない。


 しかし、俺はそれを神とは思いたくない。

 実際に精霊や妖精を見て会話らしきものを交わし、神秘的な魔法の力を見せられても尚、俺は信じきれずにいる。

 いや、受け入れたくないというのが本当のところだろう。それを受け入れたら、俺が今まで信じてきた科学や物理の世界が崩壊してしまう。それが怖いのだ。


 ふう〜…


 いかんいかん、どうにも考えが暗くなる。

 この変な世界でのサバイバル生活で、多分俺は壊れかけているんだろうな…

 孤独は人を狂わせる。ふふ、本当だな…


 そんな考えに陥っていると、真っ赤な月が地平線から昇ってきた。

 大気減光のせいで赤く鈍い色をしている。しかも地平線から顔を出したばかりで随分と大きく見える。


 リュジニィを助けに向かう時、夕方過ぎに見えていた上弦の月だが、今は満月を少し過ぎた位に欠けていた。

 ほぼ全ての表面の模様が見えているが、やはり地球から見える模様とは明らかに違う。兎の餅つきというより亀が泳いでいる姿に見える。


 まあ、それはともかく、今このくらいの時間に満月すぎの月が昇ってくるという事は、ざっと計算してみるとあの日から10日程が経過しているので、ほぼ地球の月と似たような運行をしていると思われる。

 月の満ち欠けは惑星の周りを回る周期と太陽の位置関係によるので一概にはいえないが、この惑星の環境は地球に酷似していると思う。


 生命が存在している事からも、生命居住可能領域といわれるハビタブルゾーンにこの惑星があると思うが、こういった月(衛星)の存在も生命存続には必要不可欠なのかも知れない。


 月の重力がもたらす潮汐作用は生命に様々な影響をもたらす。

 一番身近なところでは女性の生理周期だろう。月のものや月経というように月の周期に沿った体の変化がみられる。海に生息する生物の産卵等もそうだ。


 太陽と惑星と月、そして生命、人間。これらは密接に繋がっている。それは何億年にも渡った進化の過程で培われてきたものだからだ。


 月が地平線から離れて明るさを増していくと、天の川の輝きは淡くなり、見えていた星の数も随分と減ってしまった。これは日本で星空を見ていた時と全く変わらない現象だ。

 身近にある自然現象が俺の知っているものと同じなのは、俺が知っている科学物理が適用されているという事だ。これは俺にとてつもない安心感をもたらす。


 そう、あらゆる事象には必ず科学的根拠があるはずだ。

 間違っても神なんていうものは存在せず、横暴な力を振る舞われない事を願う。


 色々考えて、なんか疲れてしまった。

 寝よう。

 起きていても碌でもない考えが脳裏をよぎるだけだ。




             ☆   ☆   ☆




 朝になり、陽の光を浴びると気分が一新する。

 夜はどうしても自分の考えに囚われてしまい、ポエマーのようになってしまう。朝になるといつも昨夜の自分の考えが恥ずかしいと思ってしまう。これは何十年経っても変わらない俺の癖のようなものだ。


 それはそうと、魔法の毛布は良い仕事をしてくれた。焚き火が消えて、すっかり冷え込んだ朝の冷たい風をものともしない。本当に素晴らしい。

 遠くを見ると、微かに黒い直線が見えている。俺はそれに安心しながら活動の準備をする。


 まずは靴の修理だ。

 一旦山を少し下って靴の材料となる木が手に入る所まで行って、靴を修理した。ついでにそこで焚き火用の薪を集めた。近くに居た小動物を捕らえて木の実を採取する。食材の確保をして、再び山の頂上に戻って来た。


 そこからまた縦走を始める。

 かすかに見える黒い直線を目指し、ひたすら稜線に沿って歩いた。縦走の利点は山脈の両サイドの景色が見える事だ。もしかしたら、どこかに人間の街や痕跡を見つけられるかも知れない。そして、もう一つは黒い直線を見失わない事だ。


 黒い直線は今の所唯一の否自然物だ。天まで届くほどの直線が自然に存在するとは思えない。

 しかし、同時に人間が作ったものとも思えない…


 でも、今の俺にはそれしか目指すものがない。何の目標もなく歩くには、この世界の自然は広大すぎる。俺は、黒い直線を見失うのが怖くて、ただそれだけを目指して歩いた。食事と睡眠、自慰と排泄、それ以外の時は黙々と歩いた。


 実際、山の頂上に沿って歩くのは、激しい凹凸を繰り返す岩の塊の上を歩くのに等しいので苦労した。

 が、その分ほとんど獣に遭遇する事は無かった。時折、猛禽類や小動物が襲ってくるくらいで、問題なく撥ね退けた。戦いが少ない分、幾つかの特に高い頂きを超えて山脈を縦走して距離を稼いでいく。


 しかし、それと同時に、『妖精の輪』で治まった性欲は、ぶり返したかのようにより強烈になって襲ってきた。

 動物との戦いよりも性欲との戦いの方が辛いものになっていた。どうにも自慰では治まりがつかず、時折女の幻影を見るようになっていた。岩の塊が寝そべる女の形に見えたり、二つの丸い岩がオッパイやお尻に見えたりした。


 それでもある程度正気を保てたのは、黒い直線が直線でなく、面となり始めたからだ。もうチラチラと見え隠れする訳ではなく、はっきりと黒い柱のような物が、大地から生えるように天に向かって伸びているのが見えていた。

 しかし、それでも上限は見る事ができず、何処まで伸びているのか皆目検討がつかなかった。




 そんな事を4日程続けていると、ついに山脈の終わりが見えてきた。

 それなりの起伏はあるものの、ほぼ平行に連なっていた山々の並びが終わりを告げて、低地へと向かう下りになっていた。眼下には低い山が重なるように見えていて、まだまだ自然だけが広がっていた。

 そんな中にあって、面となった黒い柱は雲を貫いて聳え立っていた。


 以前に埼玉県のとある高台から東京都にあるスカイツリーを見た事がある。

 直線距離にして30km程だが、近くで見るとあれだけ巨大なスカイツリーが有るのか無いのか分からない位に小さく見えていた。


 なのに、黒い柱はそれ以上遥か遠くにあって尚、あれだけ見えている。もし間近で見たならば、どれだけ巨大なのか見当もつかない。

 もはや人工物という域を完全に超えているだろう。まさに神の領域のように感じられる。


 それとも、あんな巨大な建造物を作れる文明があるのだろうか?

 とてもそうは思えないが…


 それでも、今の俺はそれを目指すしかなかった。

 あの黒い柱だけが、今にも狂い出しそうな俺の心を繋ぎ止めていた。


 俺は山を下っていった。

 岩場が草地になり、低木が森林へと変化していった。樹々に隠れて、視界から黒い柱が消えると不安になって体中がザワザワして震えた。

 それでも進むしかない俺は、不安を無理やり抑え込んで大丈夫だと自分に言い聞かせた。


 森の中に入っていくと、待ってましたとばかりに獣が襲いかかってきた。

 それはリカオンもどきの群れだったが、俺は嬉しかった。戦いは不安を忘れさせてくれる最高の薬だ。


 たとえどんな大物でも、戦いを通しての命のやり取りは、生きている実感を抱かせてくれる。久しぶりの本格的な戦いに心が踊った。

 リカオンもどきは俺を殺しにやってくる。俺はリカオンもどきを殺して確実に数を減らしていく。

 リカオンもどきの牙や爪が俺の体を掠める度に、生と死の狭間を駆け抜ける躍動を感じる。


 俺はリカオンもどきと戦いながら場所を移動した。思い切りハルバードを振り回せる広い場所が欲しかった。

 洞窟があり、その前が開けている場所が見つかった。10m四方程だが、十分な広さだった。


 リカオンもどきどもは俺を囲むように陣取ったが、俺は強烈な《プレッシャー》を放ってそいつらを金縛り状態にした。

 変になり掛けていたストレスを発散するかのように放った《プレッシャー》は、強靭な《場》を形成して、網のようにリカオンもどきどもを絡め取った。


 あまりにも強力な《場》の発生に自分でも驚いたが、ハルバードを一閃するとリカオンもどきどもの頭が一斉に宙を舞った。

 そいつらの8つの頭が地面に転がると、立ったままの体の首から血の花を咲かせた。間もなくバタバタと倒れ全滅した。8つの黒いモヤが現れては消えていった。


 が、戦いが終わった訳ではなかった。


 リカオンもどきとの戦いの最中にも、洞窟の奥から物凄い《プレッシャー》を放っている奴がいた。その独自の《プレッシャー》の放ち方には覚えがあった。

 突然、洞窟の奥から石斧が飛んで来た。

 それはカーブを描いて俺に迫ってきたが、俺はハルバードで打ち落とした。


 それとほぼ同時に、ホブゴブリンが飛び出してきて襲いかかってきた。

 このホブゴブリンは湖の畔にいた奴よりは体は小さいが、手には1mを超えるロングソードを持っていた。しかも、湖の奴とは違い、ロングソードを手足のように扱う器用な奴だ。


 俺はホブゴブリンを見るなり、血が沸き立つのを感じた。

 リュジニィの死ぬ間際の顔を思い出し、抑えのきかない怒りが爆発した。

 しかし、俺が怒りに任せてハルバードを突き出しても、ホブゴブリンは器用にいなしてしまう。中々の剣士だ。


 何故これほどまでに剣を扱えるのか疑問だったが、俺は怒りを鎮めるよう努めた。獣を相手にするのとは違い、武器を持った者を相手にするのはやはり難しい。感情的になって戦っては相手の思う壺だ。


「冷静に、冷静に…」


 俺は口に出しながら自分に言い聞かせた。

 それから俺は攻めるのを止めて、何度かホブゴブリンの剣撃をハルバードで受け止めて間合いを計った。落ち着いてホブゴブリンの剣の動きを見れば、リーチで勝るハルバードでは苦もなく対処できる。


 ホブゴブリンが動きを止めて剣を構えた。《念動力》を使い《場》を形成しているのが気配で感じられた。どうやら腕の動きを加速するようだ。

 俺はハルバードを突き出して踏み込むと同時に、ホブゴブリンの腕の動きを減速するように《念動力》を掛けてやった。

 しかも、同時に足元に転がっていたリカオンもどきの頭を蹴っ飛ばした。


 ホブゴブリンは自分の腕の動きが鈍った事に驚き、さらに飛んできたリカオンもどきの頭を避けようと左側に身を躱した。

 しかし、そこに待っていたのは突撃してくる俺のハルバードだ。ホブゴブリンは避けきれずにハルバードの穂先を顔面に食らった。

 ホブゴブリンの頭は見事な串刺しとなり、即死した。


 どうにかホブゴブリンを撃退し、ホッとしつつも、俺はこみ上げる怒りのままにその死体を思い切り蹴飛ばした。そいつの死体はぶっ飛んで洞窟の入り口の岩に当たって2つに折れた。

 ようやく怒りが幾分治まり、俺は大きく息を吐きだした。


 フウゥーーー………


 俺は洞窟内にまだゴブリンがいないか調べようとして入り口に近付いた。

 その時、不意に木々の隙間から遠くを見渡す事が出来た。

 俺は目を見張り、思わず2度見してしまった。


 谷を挟んだ向こう側の山の斜面に道が見えたのだ。


 俺はズームを効かせて拡大して見た。山の斜面の一部の地面を平らにしただけのものだが、そこには車輪が通った跡と思われる割と新しい轍が刻まれていた。そして、その道は山の向こう側へと続いていた。


 あまりに突然、全く前触れなしに人間が作ったと思われる痕跡が見つかったので、俺はしばし呆然としてしまった。

 徐々に徐々にゆっくりと喜びがこみ上げてきて、全身へと広がっていった。

 体中が震え、涙が溢れてきた。


「うおおおおぉぉぉぉっっっっ!!!!」


 俺は無意識に叫び、走り出していた。



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