第17話 サーベルタイガー

 朝靄あさもやの濃い森の中、俺は寝床にした岩場の洞穴から出て身体を解す。

 ゴブリンの住処だった洞窟のベッドで寝るのに慣れてしまったので、数日ぶりの野宿は身体にかなりの負担となった。いくら若いとはいえ、朝露に濡れて体温を奪われてしまうと体中の節々がゴリゴリに固まってしまう。


 それでも、軽いストレッチをするだけで身体が温まり筋肉のコリが解れて、活力が漲ってくる。本当に常人離れしたこの身体の性能には驚かされるし、ありがたいと思う。


 昨夜は双頭狼とその群れとの戦いで怪我をした左腕を庇いながら寝床を作ったり食事をしたりしたのでいろいろと大変だったが、目が覚めて確認してみると、抉られた傷口が塞がっている。

 まだ痛みは残っているし動きも少しぎこちないが、普通に過ごす分には問題ない。物凄い回復力に何度も驚かされるが、それが異常なまでの性欲にも表れていると思うと、気分は複雑だ。

 今日もジュニアは朝から元気溌溂げんきはつらつだしな…


 ギュルルルル~~~と空腹で激しく腹が悲鳴を上げる。

 怪我の回復や性欲の発散にはそれだけ多くのエネルギーを消耗する。その分の補給をしなければならないので、まずは食事だ。


 食材となる獲物探しから行動を開始する。

 朝靄のために視界が悪いので聴覚に集中し、更には《場》で気配を探ってみる。

 様々な鳴き声や音が雑音のように聞こえてくるが、じっくり聞き分けると20〜30mほど先でフゴフゴと鼻を鳴らしている動物が居る。


《場》の感覚を広げると、樹々の間を歩いているのがぼんやりと判る。

 俺の《場》を感知したのか、その動物も俺の存在に気付いたようだ。そいつは途端に走り出して、敵意を持って俺に向かって来る。


 やれやれ、戦うしかないようだ。この世界の動物は異常なまでに好戦的だ。俺はハルバードを構える。

 朝靄のために全く姿が見えないので、音と《場》の感覚を頼りに動物の動きを確認する。

 近いと思った瞬間、靄の中に現れたシルエットが猪もどきの姿になり俺に襲いかかって来た。速い!しかも《プレッシャー》を撒き散らしている。


 待ち受けていた俺の身体が一瞬硬直して動きが鈍る。

 双頭狼にやられた傷も影響してハルバードの軌道がずれてしまい、狙いを外してしまう。

 なんとか前足には当たったので、猪もどきが突っ込んで来た勢いも合わさってカウンターとなり骨が折れたと思う。

 しかし、その時に猪もどきの牙が俺の肩を掠めて、肉を裂いていった。


 猪もどきは上手く着地できずに、地面を滑りながら岩に頭から突っ込んだ。

 脳震盪を起こしてふらついたので、その隙にハルバードの穂先を頭に突き刺す。

 間もなく黒いモヤが現れて消えたので、死を確認した。


 旨い具合に向こうから獲物が来てくれたのは良いが、一撃で倒せなかったのは拙かった。相手は体長1mほどの猪もどきだ。このくらいの敵に苦戦しているようでは、この先不安でしかない。お陰で負わなくていい怪我をしてしまった。


 幸い、怪我といっても小さな切り傷なので大した事ないし、直ぐに治るだろうけど、リスクになるのは確かだ。それに気分が落ち込んでしまう。

 俺はため息をついて落ち込みに区切りをつけると、猪もどきの死体を回収した。



 火を起こして焚火を作り、食事の準備をする。

 猪もどきを解体して肉を取り出し、串に刺して焼いていく。

 寄生虫が怖いのでじっくりと焼くが、そうすると余計に肉の旨味が飛んでしまう。口の中でモソモソして味も触感も最悪だ。香辛料や調味料が無いとこんなにも不味いのかと逆に感心する。


 せめて塩でもあればと思うが、無い物は無い。

 ゴブリンの住処にも塩は無かった。奴らはどうやって塩分を補給していたのだろうか?やはり、何かの生き血を飲んでいたのだろうか?

 まだ、俺にはそこまでの覚悟が出来ていない。飲んでも大丈夫だという確証でもあれば、まだ我慢できるかもしれないけどな。


 ふう~~~~………


 大きくため息をつく。

 腹は膨れたけど、気分は余計に落ち込んでしまった。


 命がけで獲物を倒して、手間暇かけて調理して、その結果がこれでは堪ったもんじゃない。

 サバイバルなんて、漫画やアニメの中では格好良く描かれていたりするけど、実際は地獄以外の何ものでもない。怪我は引っ切り無しに負うし、常に死のリスクを背負っている。正直やってらんねーって思ってしまう。


 日本に居る時なら、食事をするならレストランでもコンビニでも美味しく楽に済ませられたし、怪我をしても病院に行けば治療を受けて感染症の心配なんかしなくて済んだ。

 寝る場所にしても、ホテルや旅館が至る所にあったし、装備さえ整っていれば車中泊でもキャンプでも気軽に体を休められた。


 この世界に来て一週間以上が経ち、ある程度は原始生活に慣れて来たものの、安全で便利だった日本の生活が恋しくてしょうがない。

 味気ない食事や安全を確保する事の困難に辟易する。命を守るためとはいえ、命の奪い合いをする戦いの日々にうんざりする。何でこんな事になったのかと考えずにいられない。


 怪我が癒えて出発したら、また早々に獣と戦って怪我をしてしまった。さすがにナーバスになってしまう。

 これで本当に生きて森を抜け出せるのか、不安に押しつぶされそうになる。


 ふう~~~~………


 俺はもう一度大きくため息をつく。

 弱気になって散々愚痴ってしまったが、愚痴をこぼしてもどうにもならないのが現実だ。


 サラリーマン時代にも中々打開策の見えない困難に陥った事は何度もあった。それでもどうにかなって生きてきた。その経験を踏まえて、何とかなると自分に言い聞かせる。

 頑張れ頑張れと自分を励ます。



 ズキリと傷口が痛んだので、見ると血が滲んでいた。

 防具があればこんな怪我をしなくても済んだのに、と思い、盾を作ってみようと考えた。

 さっきの戦いもそうだが、昨日の双頭狼との戦いを振り返ると、盾の必要性と重要性を痛感する。盾が有れば予期せぬ攻撃も防げるだろう。


 俺は午前の時間を費やして盾を作り上げた。材料は竹もどきだ。

 ノコギリが無いので木の加工は難しく、手持ちの短剣とナイフで比較的容易に加工できるのは竹もどきだけだ。


 竹もどきを板状に切って交互に貼り合わせ、蔓で縛って固定していく。

 不格好だが、30cm辺の四角い盾ができた。内側にフックを付けて腕を通して使用する。腕輪に固定する事で腕への衝撃を小さくした。強度にやや不安はあるが、これで獣の牙や爪に対抗できると思う。

 手首から先が盾から出るので、ハルバードを持ったままでも使用できる。


 まずまずの出来に自分でも満足する。

 物作りは良いなと心底思う。

 集中する事で不安を忘れられるし、物が出来上がっていく過程は単純に楽しいと感じる。ちょっとした達成感に、ストレスも随分と軽減した。

 長年の経験から、ストレスに対する対処の仕方が解っているのが何よりだ。亀の甲より年の功といったところだな。



 太陽が南中を過ぎたところで出発する。朝靄はとっくに無くなって澄んだ空気が森を満たしている。

 傷は塞がり出血も無い。痛みは多少あるものの、激しく動かさない分には大丈夫だろう。

 寝ている間の治癒速度は驚異的だが、起きてる時でもかなり速いと感じる。以前の身体を思うと嘘のようだ。


 ふと考えるが、この世界の人間や動物はこれが当たり前なのだろうか?

 今まで戦った獣たちはかなり深く傷ついたりしても、戦意を失わない。それは怪我が早く癒えると解っているからだろうか?


 リュジニィが負わされた傷や痣を見ている分にはそういった感じではなかったが、なにぶん一緒に過した時間が短いので判らない。

 動物で検証してみたいと思うけど、奴らは死ぬまで戦いを止めないので、それも難しそうだ。



 俺は森を出て大地の裂け目に沿って歩いて行く。

 凸凹のある岩場だが、森の中を歩くよりは速いし、何より見通しが良いのがありがたい。


 柱状節理で形成する大地の裂け目は暫く続いたが、体感で10km程進んだ所で終わりを告げた。

 山を登るに従って谷底が段々と浅くなっていったのだが、最後には大きな岩の塊がゴロゴロしてる場所になり、その先は森に覆い隠されている。山歩きをしていると、こういった景観の移り変わりや地形の変化を楽しめるので面白い。


 日本の観光地などに行くと、見応えのある景色だけを見て終わりというのが多いので、面白みに欠けてしまう。しかも、その前後が立入禁止になっていたりするのでがっかりする事が多い。

 そういった意味では、全くの手付かずの自然があるこの世界を歩けるのは貴重な体験かもしれない。

 もっとも、常に危険と隣り合わせなのでお勧めは出来ないけどな。



 森に入って暫くすると、妙な違和感を覚えた。

 俺は最初に気配を探ったが、特に大きな獣の気配は無かった。なので森の奥へと歩みを進めたのだが、妙に静かすぎるように感じる。

 通常、森の中はいろいろな動物や草木の発する声や音に満ちているが、この辺りだけが音の無い静寂な世界と化している。


 俺は聴覚に神経を集中して様子を窺う。

 すると、かすかに呼吸を繰り返す息遣いを感じた。何かが息を潜めて隠れている、そんな気配がする。そして、周りはそれに気遣って静かに佇んでいる、張り詰めた雰囲気が漂っている。

 俺はやばいと思い、進む方向を変えた。


 すると、景色の一部と化していた太い樹の枝が動いた。

 ストンと身軽に樹の枝から地面に降り立ったのは1頭の虎だ。虎は圧倒的な存在感を示しながら周りに《プレッシャー》を放った。


 俺は凄まじい《プレッシャー》に捕らわれてしまい、目が合ってしまった。

 そいつが動き始めると、一斉に周りの世界も動き始める。景色自体がそいつに畏怖を抱いているようにさえ感じた。


 虎との距離は50mほどだ。逃げようと思っても《プレッシャー》で動きが鈍くなっている。虎は確実に俺をロックオンしている。のっそりと歩きながら近付いてくる。


 やばい!虎の放つ《プレッシャー》はホブゴブリン以上だ。


 俺は深呼吸をして、気持ちを落ち着かせてから気合を入れた。

 気持ちを強く持って俺も《プレッシャー》を放ち、虎の《プレッシャー》にぶつける。

 俺と虎の《場》が絡み合って爆発するように霧散する。体が自由に動くようになり、俺はハルバードを構える。

 虎の巨大な体躯がビクリと反応する。《プレッシャー》を打ち消された事に驚いている。


 俺は近付いてくる虎を観察する。

 第一印象はとにかくデカい!という事だ。動物園で見るような虎なんて子供にしか思えない。姿はサーベルタイガーに似ていて、50cm近くある大きな牙を持っている。

 地球では絶滅したとされている虎の亜種だか何かだが、この世界では存在しているんだな。


 もっとも、地球にいたサーベルタイガーよりは遥かにデカいようだが。

 確か、地球のものは体重が250kg位だったらしいが、目の前の奴は優に500kg以上はあるだろう。牙も地球のものは20〜25cm位だったらしいので、その大きさは圧倒的だ。四足で立っていても、奴の顔の位置が俺の身長より高い所にある。


 そういえば昔、静岡県にある『ねこの博物館』に行った時に猫科の動物、虎やライオン、豹などの剥製を展示していた。

 そこには絶滅した昔の虎やライオンの剥製や骨格も展示されていて、最も大きな虎は馬ほどもあって、その大きさと迫力に驚いた。

 しかし、今目の前にいる奴は更に輪をかけてデカい。


 俺は冷静になるように自分に言い聞かせる。

 見た目が強そうで、虎=猛獣で恐ろしいというイメージが有るが、こいつは1頭だ。群れではないので昨日の狼の群れよりも戦いやすいはずだ。

 しかも、大きいとはいえゴブリンの住処へ向かう前に戦った猪もどきよりも体は小さい。十分に戦えるはずだ。


 腕と肩の怪我の影響があるので、出来れば接近戦は避けて遠距離からの攻撃で何とかしたい。猪もどきと戦った時のように大きな石をぶつけようと思ったが、残念ながら深い森故に土の地面と草ばかりで適度な石が見当たらない。

 あれこれ戦い方を考えている間にも、サーベルタイガーはのっそのっそと近付いてくる。意外と動きが遅い。


 そういえば、サーベルタイガーが滅びたのは獲物だった動きの遅い大型動物が氷河期で少なくなり、動きの早い小型動物に対応出来なかったからでは、というのを何かで読んだ気がする。

 それがこのサーベルタイガーにも当てはまるなら、スピードで勝負するのが良いかもしれない。


 俺はゴルフボール大の石を投じる。勿論、これは様子を見るための牽制だ。真っ直ぐ飛んだ石はサーベルタイガーの直前で右に曲がって後方へと飛んでいった。

 やはりそうだ。俺は今までの戦いの経験から殆どの獣が投石を避けるために右側へ逸らすのを見てきた。


 これは人間にも当てはまるが、生き物の自然な癖かもしれない。

 生き物が動く時は無意識的に左側ヘ傾く傾向がある。トラック競技のスポーツが典型的で、全ての競技が反時計回りになっている。

 何故そうなのか理由はよく解っていないようだが、それが動きとしては自然らしい。


 俺は2つの石を同時に投じる。

 1つは真っ直ぐに、もう1つは曲げられる方向と逆方向にカーブするように《念》を込めた。

 サーベルタイガーは狙い通りに真っ直ぐに飛ぶ石を避けたが、逆方向に曲がる石は奴に当たった。

 しかし、奴の《念動力》は強力で、影響を受けた石は狙った眉間を外れて牙に当たってしまった。


 ガチーンと甲高い音を立てて森に響き渡る。

 牙は折れなかったが、激しい振動がサーベルタイガーの脳に響いたようだ。少しの間、奴は千鳥足になってふらついた。


 俺はチャンスとばかりに渾身の力を込めて石を投げた。

 が、強者としての本能なのか、サーベルタイガーは咄嗟に体を浮かして左側へスライドして躱す。

 俺は自分の詰めの甘さを恥じた。なぜさっきと同じように2つの石を投げなかったのかと後悔した。


 目眩から立ち直ったサーベルタイガーは怒りに燃えて俺に向かって突進して来る。《プレッシャー》が凄まじく、それだけで跳ね飛ばされそうだ。

 何とか踏み留まったが、格闘戦は避けられそうに無い。


 出来れば格闘戦は避けたい!

 そう思った俺は賭けに出た。


 突っ込んで来るサーベルタイガーに対して、俺も真正面から突っ込む。脚の筋肉を《念動力》で加速して、奴以上のスピードで接近して行く。

 俺の猛スピードにサーベルタイガーは一瞬の躊躇いを見せたが、チャンスとばかりに大きく口を開いて巨大な牙をこちらに向けて来る。

 俺はサーベルタイガーにギリギリまで接近してハルバードを突き出す。


 当然のようにサーベルタイガーは目を光らせて、ハルバードの突き出す方向を右側へと変化させる。そうなるのは読んでいたので、俺はハルバードを手放して右側へ逸れて行くままにする。

 いっぽうで、俺自信はハルバードと反対の左側へ飛んで短剣を構えつつ、サーベルタイガーの接近を躱そうとする。一撃離脱戦法が俺の選択だ。

 しかし、右側へと引っ張られる《場》の力が強すぎてサーベルタイガーの口へと引き寄せられて行く。


 予想以上の威力に驚くが、俺は咄嗟に左腕に《念動力》をかけながら、渾身の力を振り絞って盾を動かす。

 すると、盾はサーベルタイガーの牙を掻い潜って口の中に入ってしまった。奴は口を閉じられなくなり、幸運にも俺は噛まれるのを免れる。


 サーベルタイガーは力任せに盾を嚙み砕くが、その一瞬の隙を突いて俺は盾から腕を引き抜きながら指弾を放った。

 放たれた小石は奴の口内で口蓋垂のどちんこに当たってから喉の奥へと飛んで行った。

 途端にサーベルタイガーは咽た。もしかしたら小石が気管に入ったのかもしれない。


 全く想定していなかった出来事に驚くが、サーベルタイガーは何度も咳き込んで苦しそうにする。

 間一髪難を逃れた俺は、サーベルタイガーの脇を擦れ違いざまに、構えていた短剣を奴の胸の脇に突き刺した。

 盾が壊れてしまい、予定通りの一撃離脱とはいかなかったが、結果オーライといったところだ。


「ガアアアアアッッッッッ!!!!!」


 脇腹に短剣を突き刺されたサーベルタイガーは驚いて大きく跳ね上がった。肺に穴が開いたのだろう。脇腹の出血と共に口と鼻から血を噴き出した。

 しかし、心臓には届かなかったようだ。

 刃渡りが30cmあるとはいえ、あの巨体では仕方ないのかもしれない。

 俺は動きが鈍った奴の隙を縫って、手放したハルバードを拾いに行った。


 サーベルタイガーはゼイゼイしながら俺を睨みつける。

 口と鼻から噴き出す血で顔が真っ赤に染まっている。威厳に満ちていた美しい毛並みは見る影もない。


 それでも、闘志は全く衰えていない。いや、今は憎しみに燃えて最初の時よりも更に漲らせている。奴は今までこれほどの手傷を負った事が無いかもしれない。プライドが傷ついたのだろう。登場した時の様子では、明らかにこのサーベルタイガーはこの一帯の王者の風格に満ちていたからな。


 奴は再びこちらへ向かって来たが、少し進んだ所でもがき苦しんだ。見ると、脇腹から大量の血を流し始めた。

 どうやら歩く度に脇腹に刺さった短剣の柄に左前足がぶつかるようで、体内の刃の部分が内蔵を切り裂いているようだ。

 これは全く予想していなかった嬉しい誤算だ。


 この勝機を逃す手はない。

 俺は痛みに苦しむサーベルタイガーに向かって石を2つ投げる。当然1つは避けられる事を想定している。

 が、サーベルタイガーの目が光ると石は2つとも大きく軌道を逸れて右側へと飛んで行く。痛みに耐えながらも、奴は俺の攻撃に備えていた。流石にこの世界で生きてるだけあって、百戦錬磨といったところか。


 残念ながら、サーベルタイガーには遠距離攻撃が通じないようだ。接近戦で頭を叩き割るか心臓を貫くかしないと駄目だな。

 時間を稼いで出血による体力の消耗を狙う手もあると思うが、何かの拍子に短剣が抜ければ奴はまた襲いかかって来る。下手をすると他の獣が参戦してくる可能性もある。

 ここはルールも何もない、弱肉強食の非情な世界だからな。


 俺は気持ちを強く持って気合を入れる。

 サーベルタイガーに向かい、ハルバードを構えて全力で走って突っ込む。勿論《念》を込めて加速する。


 サーベルタイガーは動く事はせず、態勢を低く保って俺を待ち受ける。

 俺と接触する寸前、サーベルタイガーの目が光り強烈な《場》が俺を包み込んだ。なんと、奴は俺の体を《空間移動》させてハルバードによる攻撃を避けた。

 てっきり俺はハルバードの穂先を移動させられると思っていたので、ハルバードに《念》を乗せて動かないようにしていた。


 俺の体はサーベルタイガーの強力な《場》に包まれて、奴の脇を飛びながら移動していく。その先には太い樹が生えていて、俺の突っ込む速度を利用したままぶつけるつもりだ。

 なんとか俺は《空間移動》で逃げようと藻掻くが、圧倒的に奴の《念動力》の方が強く体が反応しない。


 止むを得ず、俺は自分の身体は飛ぶに任せて、ハルバードに《念》を集中させて《場》に干渉する。


 大きな《場》で俺を包み込むサーベルタイガーの《念動力》に対し、ハルバードだけに絞って《場》を形成した俺の《念動力》はハルバードの動きを自由にした。

 擦れ違いざまにハルバードを加速して投げつけると、その穂先はサーベルタイガーの項に突き刺さった。


 その瞬間、《場》が爆発するように拡散し、そのまま《場》の力は霧散した。

 俺は体の自由が効くようになり、樹に当たりはしたが腕輪を使って衝撃を受け止めながら受け身を取る事が出来た。


 怪我をしていた左腕に負担がかかり、猛烈な痛みと共に傷口が開いて出血したが、全身打撲は免れた。あのままぶつかっていたら、多分内蔵を破裂させながら脳震盪を起こして倒れ、俺の命は終わっていたかもしれない。


 一方、項にハルバードが突き刺さったサーベルタイガーは発狂したように暴れまわった。

 多分、項の奥にある念動石となる神経束が切断されたのだろう。黒いモヤを漂わせながら、地面を転がるようにして苦しみに喘いでいる。


 ハルバードは抜けたが、脇腹に刺さった短剣はそのままなので、転げ回るごとに深く食い込み内蔵をズタズタに切り裂いているようだ。

 それは心臓にも及んだようで、傷口だけでなく全身の穴という穴から大量の血を吹き出した。


 暫くもがき苦しんでいたが、やがて静かになりサーベルタイガーは死んだ。

 ようやく戦いが終わり、俺は大きく息を吐き出した。単体の敵としては今までで一番強い敵だった。

 双頭狼との戦いの経験から盾を作る事を思いつき、それを実践したお陰でピンチがチャンスに変わった。あの盾が無かったら、俺は今頃奴の胃袋の中だった。


 あの俺ごと《空間移動》させる能力には本当に驚いた。

 この先もこんな強い奴がゴロゴロいるのだろう。そう思うと気が滅入った。頭痛も酷くて最悪の気分だ。


 しかし、今回の事で獣が死ぬと黒いモヤが発生するのではなく、神経束が破壊されると黒いモヤが発生するのだと知った。

 多分、神経束が念動石に変化する時に発生するのだろう。

 それが何を意味しているのか解らないが、この世界というか惑星が持つ《場》に関係があるように思える。


 もしかしたら、生命が発するエネルギーが《場》に転換されて惑星に帰結するのかもしれない。ふとそんな風に思った。

 でも、これは人が死んで霊が仏様になるという仏教的な考えから思いついた考えで、こじつけに近いかもしれないとも思った。



 取り敢えず危機は去ったので、俺は開いた傷の手当をして止血をする。

 今回の戦いで盾も壊れたし、投石用の石も底を突いてしまった。ナップザックの中の水筒も1つ壊れてしまったし、無理な動きの連続で靴も壊れてしまった。

 俺は溜息をついた。


 嘆いていても仕方ないので補修をしようと思ったが、強烈な性欲が湧き上がってきた。戦いの後はいつもこれだ。

 戦いが激しくなるに連れて俺の性欲も強烈になっていく。ジュニアが今にも爆発しそうで、俺の頭の中は女体への欲望でいっぱいになる。

 我慢できずに、俺は樹の陰に回って3回ほど欲望を吐き出した。


 ふ〜…


 取り敢えずは落ち着いたが、女が欲しいという欲求は高まるばかりだ。

 俺はもう一度溜息をつく。


 次々と獣が襲いかかって来るので戦いとなり、その後は性処理で時間を取られてしまう。遅々として歩みは進まない。

 その度に怪我を負ったり物が壊れたりして手当や修復に時間をさらに取られる。こんな事で本当に人間のいる場所を見つけられるのだろうかと不安が増す。


 昨日、ふと頭をよぎった『神様の楽しみ』みたいな考えを思い出す。


 ここが本当にファンタジーのような世界で、神様が暇つぶしや娯楽で俺をこの世界に放り込んで見ているとしたら、マジでやってらんねーと思う。


 神様など実際には存在せず、人間の物事を恐れる心が生み出したものだと俺は思っているが、この世界に来てその信念が揺らぎかけている。

 あまりに理不尽な出来事に心が弱っているのだろう。さすがにウンザリして、もういい加減にしてくれという思いでいっぱいだ。


 誰もいない状況で命がけの戦いを強いられ、碌なものも食えずにその日暮らしで、性欲だけは異常に肥大していく。

 こんなの発狂しないほうがオカシイ!


 長年のサラリーマン生活で上司や仕事の理不尽には何度も悩まされ、挙げ句には妻に浮気をされて離婚までした。

 お陰で人間不信になり独りでいる方が良いと思っていたが、ここまで孤独で辛い状況が続くと、どんな人間でもいいから出会って関わりを持ちたいと思う。


 せっかく出会えたリュジニィは直ぐに死んでしまった。


 何でこんなにも不幸な目に合わないといけないのか!?

 それほどまでに俺は悪い行いをしてきたのか?

 俺は只々平凡に生きて来ただけだ!


 思いきり、気が狂ったように大声で喚き散らして暴れたかった。

 神様が居るのなら、ありったけの憎しみを込めて罵って殴ってやりたかった。


 いっそ死んでやろうかと思ったが、活力に満ちたこの若い体はそれを望んでおらず、どこまでも生きる事に前向きだ。

 以前の年老いた身体なら、間違いなく自殺していただろう。


 せめて酒でもあれば、いくらかは気を紛らわせられるかもしれないが、酔っ払ったが最後、明日の朝には自分の死体が転がっているだろう。ここはそういう世界だ。


 俺は暫くの間、樹を殴りつけて八つ当たりした。

 手に痛みが走り、皮膚が裂けて血が吹き出した。

 それでも構うものかと殴り続けた。



 さすがに疲れて虚しさがこみ上げてきた頃、気分転換にサーベルタイガーの皮剥ぎをする事を思いついた。

 せっかく倒した大物だ。その立派な毛皮を持つのも悪くないと考えた。


 昔、虎の毛皮を壁に飾っている金持ちの家を訪ねた事があるが、その迫力と美しさに凄いと見とれたものだ。

 俺には飾る家は無いが、これから山頂へ近づくに従って寒くなっていくので防寒着としては良いだろう。


 他の獣に邪魔されたくないので、俺は大きな焚き火を幾つも作ってサーベルタイガーの死体を囲う。

 森が火事になるかもしれないと思ったが、それならそれでいいやと思った。

 この時の俺はかなりオカシクなっていたのだろう。山火事でも起こして森を消失させれば、少しは理不尽な神様に仕返しが出来るかもな、なんて考えていた。


 幸い、山火事にはならず、周りの樹々を少し焦がした程度だ。

 苦労してサーベルタイガーの毛皮を剥ぎ取った俺は、多少の達成感を得ながらその場を後にして、寝床を探しに出発した。


 少しでも正気を保つためにこの日の歩みは止めて、大いに食って出して寝ると決めた。

 不味い飯でも、腹が膨らんで疲れが取れれば、気分も前向きになるはずだ。堪ったうっぷんはその場で吐き出すに限る。俺はそうやって40年近くに及ぶ、虚しいサラリーマン生活を乗り切ってきたのだ。

 オッサンは頑張るのみだ。


 ちなみに、サーベルタイガーの《念動石》は大きくて黄色味がかったグリーンだったが、2つに割れていた。


 寝る時に気分が落ち着いて冷静になると、サーベルタイガーと無理に戦わなくても奴の方が動きが遅かったのだから、逃げれば良かったのだと気付いた。

 いつの間にか、俺のこの世界に染まって戦闘狂になっていたようだ。


 くそ!



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