第15話 旅立ちの準備

 寒さで目が覚めた。寒くて体の震えが止まらない。


 気が付くと、俺はゴブリンの住処だった洞窟の入口に倒れていた。ぼんやりと記憶が蘇ってきて、力尽きて倒れた事を思い出した。

 確か俺が倒れた時は真っ昼間だったように思うが、今も入口の隙間から差し込む光は強烈に眩しかった。


 岩を少しずらして外を見たが、やはり太陽はほぼ真上に位置していた。もしかして丸一日寝ていたのだろうか?

 日差しの暖かさが気持ち良くて、暫くそこで日光浴をした。背中を預けた岩は熱いくらいだったが、冷え切った体にはありがたかった。


 暫くそうしていると、ようやく体の震えが治まり、凝り固まった体の節々が解れてきた。もう少し日を浴びていたかったが、遠くで獣が動くのが見えた。まだ戦える状態には程遠いので、俺は洞窟に入って岩で入口を塞いだ。

 一応用心のため様子を見ていると、獣が入口の岩を引っかく音が聞こえた。しかし、岩を動かす事は出来ず、安全を確認できて安堵した。


 脇腹が痛みを訴えていたので、まだ骨折したままのようだ。それでも内蔵に突き刺さった部分は治ったのか、鋭い痛みは無くなっていた。驚異的な治癒力というか、冗談のような体の作りだ。


 洞窟の奥に入っていくと、戦いの跡がそのまま残っていた。

 食い散らかされたゴブリンの死骸とタスマニアタイガーもどきの親子の死骸がそのまま転がっていた。

 よく見ると、ゴブリンの内臓は腐りかけていたし、タスマニアタイガーもどきは死後硬直した体から毛が抜けかけていた。


 死骸の痛み具合から、俺はもしかして1日ではなく2日〜3日間寝ていたのかもしれなかった。よく風邪を引いたり病気にならなかったものだと焦った。普通なら死んでいてもおかしくないだろう。


 変な話だが、入口付近で倒れたのが逆に良かったのかもしれない。日中多少なりとも隙間からの日差しを受けていたので、体が冷え切らなかったのかもしれない。

 この若い体は殊更頑丈に出来ているが、改めてその優秀さを頼もしく思った。


 まだ体が重くて動きが鈍いので、とりあえず火を起こした。ゴブリンたちも洞窟内で火を使っていたので、何箇所かに焚き火の跡がある。

 脇に死骸が転がっているのは嫌だったが、まだ片付けるだけの気力が無いので放置した。



 焚き火に当たって体が暖まると強烈な飢餓感が襲ってきた。

 ここに来る時に樹の実を持ってきたのを思い出し、ポーチから取り出して食べた。やはり、樹の実も少し傷みかけていた。

 まだまだ食い足りないが、腹にものが入ったお陰で少しだけ気力を取り戻した。


 ちゃんと食事をしようと思って辺りを見渡すが、食えそうなのはタスマニアタイガーもどきくらいだ。さすがにゴブリンを食おうとは死んでも思わない。

 そのタスマニアタイガーもどきもゴブリンの内蔵を食っていたので、出来るなら避けたかったが、他に選択肢が無かった。


 リュジニィはここで長い間虐げられて碌なものを食わせて貰えなかった。それを思うと、そのくらいは我慢しようと思えた。


 俺は喉を切り裂いたタスマニアタイガーもどきの子供を1匹と松明を持って、洞窟の奥にある水場に向かった。

 この洞窟の奥には岩から滲み出た水が流れて溜まる場所があり、ちょっとした給水場になっていた。ゴブリンたちもここをよく利用していたのだろう。岩の擦り減り具合が一番大きかった。


 ある程度溜まった水は溢れて、再び岩の裂け目に流れ込んでいた。常に流れているので、水は綺麗で新鮮さを保っている。

 それでもここを使うのは躊躇したが、我慢した。


 松明を壁の突き出た部分に置くと、手とナイフ代わりの石をよく洗い、タスマニアタイガーもどきの子供を解体した。子供といっても中型犬並の大きさはあるので、食い切れない程だ。


 実際、肉食獣の肉はどうなんだと思ったが、まだ子供のせいか、臭みはそれなりにあったが肉は柔らかくて美味しかった。

 寄生虫が怖かったので、じっくりと焼いたのは言うまでもない。


 腹が満たされてようやく一息付く事が出来た。

 体の疲労はまだ取り切れていないが、思考は大分クリアになった。とりあえず安全が確保されているので、色々と考えを巡らせる。


 やはり、今はリュジニィの事を一番に考えて気分が沈んでしまう。

 墓を作った事で区切りはついたが、後悔と悲しみから抜け出すのが難しい。

 しかし、リュジニィとの出会いは様々な可能性を考える希望を俺に与えてくれた。


 まず、何より人間が他にいると判ったのが一番大きい。

 文明の度合いは分らないが、メンタリティーが似通っていてコミュニケーションが取れると解ったのは何よりだ。

 言葉を覚えるのに苦労はするだろうが、孤独からは解放されるだろう。


 サラリーマンをしていたとはいえ、元々俺は人付き合いが苦手な方だった。

 仕事に関しても止む無くサラリーマンをやっていただけで、やり甲斐なんて全く感じていなかった。特に付き合いでの飲み会は一番苦痛だった。


 出世なんて途中から考えなくなったし、出来る事なら仕事を辞めて一人でのんびりした生活を送りたいと思っていた。

 特に妻と不仲になってからは余計にそう思うようになった。


 しかし、この世界にやって来て、絶対的な孤独がいかに辛くて寂しいのかを思い知った。自分以外の人間が居ない虚無感は耐えられるものではない。リュジニィとの出会いは余計にそれを強く確信させた。


 俺はなんとしても人々が暮らす世界を見つけ出す。

 そこがどんな世界なのか想像もつかないが、コミュニケーションが取れるなら何とか生きていけるはずだ。


 いや、せっかく若い体に生まれ変わったのだから、前の人生では出来なかったやり甲斐のある人生というのを是非味わってみたい。

 この若くて逞しい体はそれを可能にしてくれそうな気がする。


 ほんの数時間だったが、リュジニィと過ごしてみて解ったのは、体力的にこの世界の人間は基本的に地球人と変わらないという事だ。


 違いがあるとするなら、《念動力》の有無だろうけど、リュジニィからは一切そういった気配は感じなかった。

 リュジニィが一般的なのか、俺が特別なのかは判らないが、ある程度のアドバンテージはあるように思う。


 兎に角、今は一刻も早く体を癒そう。

 獣たちやこの世界の不思議な生き物たちに打ち勝てるように体調を整えるのだ。

 俺は焚き火の傍で眠りについた。


 安全で暖かさに包まれて眠るのはとても心地良かった。




             ☆   ☆   ☆




 あれから3日が経った。

 俺はゴブリンの住処だったこの洞窟を仮住まいとして、怪我を癒しながら旅立ちの準備を進めた。

 まず最初にしたのは洞窟内の清掃だ。


 ゴブリンどもの死骸を運び出して湖に捨てると、ピラニアに似た魚が群がってきて、あっという間に骨だけの姿に変わった。

 それだけなら大変微笑ましい光景だったが、群がったピラニアもどきを食べるために巨大な魚が現れてピラニアもどきを一掃した。


 巨大な魚は体長が5m近くあり、頭の部分が硬い鎧で覆われたような姿をしていて、地球の古代にいたとされる魚によく似ていた。

 この世界は水の中も危険なんだと再確認した。


 ゴブリンどもの死体が片付くと、人間と思われる者の骨を拾って集め、リュジニィの墓の隣に埋葬した。


 捨てるものが無くなった洞窟を、今度は居心地が良くするために色々と手を入れた。草を大量に刈り取ってきて、火で燻して煙で洞窟中を満たした。匂いを消すためと、虫を追い払うためだ。その後で至る所に火をかざして焼き、消毒に努めた。


 洞窟内がある程度マシになったところで、今度はゆったりと寝るためのベッドを作った。直径10cm程の枝を丸太にして、長さ2m程に切って10本並べた。筏を組むように蔓の紐で縛って固定して、隙間を細かく砕いた樹の皮で埋めていった。


 ほぼ平らな板状になると、その上に丸めた葉っぱを何枚も敷き詰めた。本当なら藁がいいのだが、乾燥させる時間が無かった。ある程度のクッションが出来たので、その上にタスマニアンタイガーもどきの毛皮を敷いて簡易ベッドが完成した。

 このベッドのお陰でたっぷり睡眠が取れ、疲れと怪我が驚くほど早く癒やされていった。


 ベッドの後は、殺された人間の物と思われる遺品の整理をした。

 ホブゴブリンが使っていたと思われる一番奥の部屋には様々な遺品が置かれていた。剣や槍といった武器の他に硬貨や指輪、革製の靴やポーチ、ボロボロになった生地が乱雑に散らばっていた。


 それらを見ていて思ったのは、武器類は男性用と思われるが、指輪や靴やポーチといった身に着けていたと思われる物は、サイズやデザインから女性用だと思えた。


 この事から、男女の一団を襲い、男からは武器を奪い女は連れ去ったと思われる。多分、男はその場で殺されたのだろう。骨を片付ける時に思ったが、この洞窟内に残っていた人間の骨は全て女性のようだった。


 リュジニィの一件でもそうだが、ゴブリンは人間の女性に自分の子孫を産ませて繁殖していると思われる。


 実際、この洞窟に侵入した時も、皆殺しにしようと再来した時も、ゴブリンの雌体と思われる個体は居なかった。本当に雄体だけの種族のようだ。

 もっとも、普段は別々に生活していて、繁殖期だけ一緒になるという可能性もあるが…


 まあ、今はそんな事はどうでもいい。

 ゴブリンは見つけ次第問答無用で殺す!それで十分だ。


 しかし遺品から見るに、人間の文明レベルはお世辞にも高いと思えない。

 鉄で作られた剣や槍といった武器は錆びてボロくなっている。どう見ても地球の中世時代と同レベルだ。


 指輪は銀のリングに宝石が乗っているが、宝石の研磨精度も良いとはいえない。革製の靴やポーチはそれなりの出来だが、野暮ったくて洗練されたデザインとはいえず、ボロボロの生地は編目が荒いし、染色技術も進んでいるとは思えなかった。


 これらの事から、科学技術が発達しているとは考え難く、俺が眠りから覚めた研究所のようなところとは結び付きがあるとは思えなかった。


 ただ、そんな中にあって硬貨だけは異質だった。

 銀色の硬貨が2枚と銅色の大小の硬貨が3枚づつある。質感から銀貨と銅貨だと思うが、鋳造品にしてはあまりにも精巧な作りをしている。見方によっては現代日本の硬貨よりも出来が良いように思う。


 普通、銅貨ならくすんだり錆びたりするだろうが、これは今作られたばかりのように赤銅色に輝いていた。それは銀貨も同様だ。

 硬貨とその他の物では、あまりにも作りそのものが違っていてアンバランスだった。


 ふと、自分が身に着けている腕輪を見て、硬貨と共通する技術の高さを感じた。

 これは俺の知る技術レベルを遥かに超えた作りになっている。

 これは同じ人間が持っていた物なのだろうか?


 だとするなら、全く想像のつかない生活を送る人間たちがいるのだろう。

 それとも、全く別々の人間が持っていた物で、科学技術の発展した社会とそうでない社会の多重構造で人間世界は成り立っているのだろうか?

 地球の先進国の人間とアマゾンやアフリカの原住民が一緒にいるようなものかな。考えれば考えるほど分からなくなる。


 なので、考えるのを止めた。


 いくら想像したところで、実際に見てみない事には分からない。

 それは人間社会を見つけた時のお楽しみにして、今はその人間社会を見付けるために準備をする時だ。


 指輪と硬貨は人間社会で役に立つかもしれないので頂く事にして、武器とポーチは使わせて貰う事にした。ポーチはそのままでもいいが、武器は腐食が激しいので手入れが必要だ。


 刀身が1m程のロングソードと思しき剣が三本と長槍が二本あった。

 剣は三本とも長さも重さもデザインも違っている。多分、使用者の好みだったり使いやすさからそうなっているのだろう。


 長槍も同じで、しかもこの二本は用途も異なっているようだ。

 一本は投げ槍にも出来るように、柄に細長い刃が付いているだけのシンプルな作りになっているが、もう一本は柄と刃の間に斧とハンマーが付いている。確か、ハルバードと呼ばれる武器だったように思う。


 失くしてしまった槍と同じ用途の物だが、鉄で出来たこっちの武器の方が自作の石器を括り付けた物よりもずっと洗練されていて使いやすそうだ。

 2mほどの長さは理想的だが、重量は5kgほどしか無くて物足りなさを感じる。


 俺はこのハルバードを主要武器にすると決めた。

 リーチがあって刺す切る叩くの三役をこなせるので便利だし、剣よりも扱いやすい。何よりも手作りの槍で実際に獣と戦った経験からも、使い勝手が良いのは解っている。


 家紋か何かだろうか、羽を広げた鷲か鷹を思わせる模様にハーブのような葉の模様が添えたデザインが穂先の根元に刻印してあるが、もしかしたら製造メーカーのマークかもしれない。


 一方、剣は相当の訓練が必要で、素人が扱えるものじゃない。

 昔、ちょっとした伝手で刀を振らせて貰った事があるが、試しに巻藁を切ろうとして手首を捻挫した事があった。真っ直ぐに刀を振り抜かなければ、どんなに切れ味鋭い刃をしていてもまともに切れはしない。

 刀と剣では違いがあるかもしれないが、どちらも実戦で使えるようになるまでにはかなりの時間がかかるだろう。


 それと、どの剣にも鞘が無い。ホブゴブリンが抜身のまま奪ってきたのだろう。これだから低能は困る。鞘がなければ帯剣出来ないだろうに。

 まあいい、俺が欲しいのは短剣とナイフだ。

 短剣は接近戦になった時に必要だし、ナイフは料理や毛皮の加工などあらゆる用途に重宝する。


 元の持ち主には申し訳ないが、俺は一番長いロングソードの刃を3つに折って短剣と2本のナイフを作った。刃渡り30cm程の短剣と、刃渡り10cmと20cmのナイフだ。転がっている岩を砥石代わりにして、錆を落として研ぎ直した。ナイフの方は片方の刃を潰して片刃にした。


 ナイフが出来た事で木の加工が容易になり、森から竹もどきを切ってきてナイフの柄と鞘を作った。元々のロングソードは日本刀のように反りがなくて真っ直ぐなので、鞘は割と簡単に作れた。


 肉厚の竹もどきを板状にして内側を削り、刃を包むように2枚合わせにした。蔓を裂いて作った紐をそれに巻いて加工しただけだが、中々の出来栄えになった。短剣の鞘も同様に作った。


 ナイフの柄は刃をつぶして柄として、その部分に蔓を縒った紐を握りやすい太さにまで巻いて作った。抜け防止のためにナイフの柄の部分は何箇所かに溝を作っておいた。案外使い勝手が良くて、暫く自己満足に浸った。


 ハルバードは錆を落として綺麗に研ぐと、そのまま十分に使える物だった。重量が5kgくらいで物足りないと思ったが、地球ならかなりの大男が使用するような物だ。実際に建築用に使う5kgのハンマーを振った事のある者なら分かると思うが、一振りだけでも相当のパワーを必要とするし、長時間の使用は過酷過ぎる。


 このハルバードを長時間振り回して戦闘をするのは実用的ではないが、俺が得た若い体はそれを物足りないと感じるだけのパワーがある。


 この世界の一般男性はどうなのだろうか?

 ロングソードを見る限りは2kg前後に作られているので、地球人とそう変わらないように思える。


 もっとも、重さはあくまで俺が持ってみた感覚でしかないので、実際のところは分からない。まあ、それを言ってしまえば、この星の重力が地球と同じ1Gかどうかも分からないのだが。

 なんにせよ、この世界の武器が軽く感じるのは良い事だと思う。それだけ俺の身体能力が優れている証明になると思う。


 話が長くなったが、これで武器の準備は出来た。長槍のハルバードと刃渡り30cmの短剣が俺の格闘戦用の武器だ。

 しかし、俺の戦い方の基本は投石と指弾による遠距離攻撃だ。


 実際にホブゴブリンや獣と格闘戦をやってみて思ったが、リスクが半端ない。

 奴らは物凄いパワーに爪や牙といった武器を持ち、さらに死ぬまで戦い続けるので一瞬の隙きが死を招く結果となる。もしこちらが武器を失ってしまえば瞬時に圧倒的劣勢に立たされてしまう。

 裸の人間は生物的には脆弱この上ないので、格闘戦などやらないに越した事はない。


 それと武器作りに並行して、新たにタスマニアタイガーもどきの毛皮で貫頭衣とナップザップとウェストポーチを作った。虎縞模様の貫頭衣とナップザックは中々チャーミングだ。

 靴も同様に、ここに有った物をばらして皮革を再利用して作り直した。爪先と踵に皮革を充てる事でより丈夫な作りになった。



 こうして、俺の旅の準備は整っていった。

 怪我も3日目にはほとんど癒えていた。実際、肋骨の骨折が一週間も経たずに治ったのには驚いた。この体は睡眠を取っている間に治癒の速度が増すようで、軽い怪我や傷などは一晩で大概は治ってしまう。この事からも、俺の体は自然に生まれただけではないようだが、取り敢えずは便利なので良しとする。


 しかし、怪我が癒えるのと並行するように性欲もどんどん高まっていった。溢れる性欲は我慢ができず、1日に何度も自慰を強いられた。賢者タイムになる度に何をやってるんだと落ち込むが、抑える事が出来なかった。


 最悪なのは、どうしてもリュジニィの裸と手の感触を思い出してしまう事だ。この世界に来てから女性との接触はリュジニィとの体験しかないのでしょうがないのかもしれないが、リュジニィを冒涜しているようで、終わった後は激しく落ち込んでしまい、マジで自分で自分を殺したくなった。


 一応気づいた時には日本での思い出となる、恋人や妻との行為、風俗での体験に考えを切り替えるのだが、それは10年以上も前のもので、どうしても記憶が新鮮なリュジニィとの思い出が真っ先に浮かんでしまう。つくづく我ながら最低だ。

 本当にどうにかならないものだろうか、この異常なまでの性欲は。


 朝になるとリュジニィの墓参りをするのだが、その時に懺悔をするのが日課になってしまった。

 本当にごめんよ、リュジニィ。




             ☆   ☆   ☆




 この洞窟で過して三日目の夜から朝にかけて雨が降った。

 俺がこの世界に来て初めての本格的な雨だ。これまでも明け方や夜半すぎにパラパラと降る事はあったが、後で雨が降ったんだなと分かる程度だ。

 かなり激しく降ったようで、外に出るとムワッとした湿り気を帯びた土の匂いがした。


 空を見ると、どんよりした雲が西の空に切れ目を作って青空を覗かせていた。

 少し周りを歩いてみたが、湖の岸辺は湿った砂に自分の足跡をはっきりと残していた。また、岩場のあちこちには水溜りが出来ていた。小さな虫たちが水溜りに立ち寄っては小さな波紋を作り出していた。


 晴れ間が広がり日の光が指すと、水溜りがキラキラと輝いて目を楽しませてくれた。そんな風に景色を楽しんでいると、湯船を連想させるような水溜りがあった。

 思わずピンときた。

 これって沸かせばお風呂になるんじゃないか。そう思った俺は居ても立ってもいられなくなった。


 幸い、ゴブリンどもが焚き火をするために乾燥させた木が洞窟の中にストックしていたので、俺はそれを使い大きな焚き火を作った。その焚き火で沢山の石を加熱して、次々と水溜りの中に放り込んだ。


 細菌や微生物が死ぬであろう温度にまで加熱してから、体が浸かれる温度にまで奇麗な水を入れて冷ました。表面に浮かんだ灰汁と汚れを取り除いて、お風呂は完成した。

 俺はゆっくりと体を湯に浸した。


「ああぁー〜〜〜…」


 お風呂に浸かる快感。日本人の魂に刻まれた至福の一時。

 目の前には何時の間にか晴れ渡った青空が広がり、湖の上には二重の虹がかかっていた。最高の露天風呂だ。


 一応獣などの危険に備えて武器は準備しているが、大きな焚き火が抑止力になっているのか、特に問題はなかった。


 日本に居た時も、山歩きの途中で温泉があると自然を眺めながら入浴を楽しんだものだが、異世界での入浴もまた格別なものがある。

 体が温まり、今まで蓄積された疲れや苦労が汗とともに流されていくのを感じた。つくづく不思議な人生を送っていると改めて思う。


 入浴を終えた俺は、真っ裸のまま自然を眺める。火照りを静めながらの一時もまた最高だ。これでビールでもあればと思うが、それは無い物ねだりでしかない。

 しかし、ここには日本ではまず見る事が出来なくなった手付かずの自然がある。地球人の誰も見た事のない、異世界の景色が俺の前に広がっている。

 ある意味、これは最高の贅沢なのかもしれない。


 こうして心に余裕ができると、そんな世界の景色を見て回るのも面白そうだと思えた。勿論、他の人間を見つけるのが先だが、それが叶って落ち着いたら、是非そうしてみようと思った。


 リュジニィを失った哀しみが少しだけ癒えた気がした。



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