第10話 人間!
ゴブリンたちとの戦いの後、俺は湖に向かって歩いた。仮にでも目的地が出来たのは喜びだ。闇雲に歩くだけでは不安が募るばかりだからな。
道の無い森は真っすぐ歩けないので直ぐに方向を見失う。俺は途中何度も樹に登っては方向を確かめながら森の斜面を下っていった。
気は逸るが、油断は大敵なので常に周りに気を配る事だけは疎かにしないようにした。
多分、目的地はゴブリンの集落の可能性が高いので、気づかれないように行動し
しなければならない。
とはいっても、まだまだ湖は遠い。戦いになった時に備えて武器の手入れと手頃な投石用の石の入手を行った。合わせて武器の訓練も行いながら歩みを進めた。
投石と《念動力》を組み合わせながら練習していたら、石の飛ぶ方向を変えられるだけでなく、加速や減速も出来る事が分かった。
石を投げた瞬間に加速するよう《念》を送ると、目測だがスピードは1.5倍ほどになり、飛距離は倍以上に伸びた。当然、当たった時の威力も大きくなり、 直径20cm ほどの木なら幹を折って倒す事が出来た。
減速はカーブの角度を大きく出来たので、石をブーメランのように飛ばす事が出来た。
また、《念動力》の及ぶ範囲も広がった。
特に軽くて小さな石を扱う指弾は、《念動力》の影響が大きく表れた。水平に飛ばした石を直角に曲げたり、波のように飛ばす事が出来た。
それだけでも十分に凄いと思うが、応用として槍を振ったり突き出したりする時に加速を加えると、倍近いスピードを出す事が出来た。
これは槍本体よりも腕の筋肉の動きに加速を加えて早く動かす事が出来るようだ。同じ事が脚にも出来て、走るスピードは1.5倍ほど、ジャンプ力は3割増しといった感じになった。
しかし、使用できる時間はほんの数十秒だ。筋肉への反動がきついのと、頭痛が酷くなるので、長時間の使用は出来なかった。なにより、素人の手作りの靴では強度不足で使用に耐えられなかった。
体全体を空中で移動しようとしてみたが、これはまだ出来なかった。
兎に角、能力が驚くほどの早さで開花しているというのか、思い出しているといった感じだ。
夕方近くになり、ようやく湖の近くまでやって来た。
森の中から湖畔を伺うと、ゴブリンたちが火を囲んで食事をしているのが見て取れた。残念ながら、やはりそこはゴブリンの住処だったようだ。
正直がっかりしたが、予想していた事でもあるので、俺は気を取り直してゴブリンたちの様子を伺った。
ゴブリンたちには住居というものは無いようだ。奥まった所の崖に洞窟があり、 ゴブリンが出入りしていた。そこを住処としているようだ。
湖畔の広場には大きな焚き火があり、動物を丸焼きにしていた。俺が見たのはこの煙だったのだろう。
ゴブリンたちは火を囲んで、それぞれが勝手に肉や木の実を食べて、酒らしきものを飲んでいた。30体ほど確認できるが、ほとんど秩序だった動きは見られない。
どうやら、ゴブリンたちの生活レベルは人間の原始時代と変わりないようだ。火を使っているが土器などは無いようで、何かを作り出している様子はない。
簡単なやり取りはしているようだが、会話と呼べるようなレベルの言語も無いようだ。知能はかなり低いのだろう。
一体だけ他のゴブリンとは明らかに違う、屈強な体をしたゴブリンがいる。
体の大きさも他の者よりも二回りも三回りも大きく、尊大な態度で数人のゴブリンを傅かせている。どうやら、あいつがこの群れの長のようだ。
確か、ホブゴブリンとかいったか、ゲームなんかではゴブリンのリーダー的存在で、段違いに他のゴブリンより強いというのが相場だが、確かにそんな感じだ。
それと、見る限りは雄体しかいないようで、雌体と思わしきゴブリンがおらず、子供の姿も見えない。
女子供は洞窟の中なのだろうか?
普通ならこういった食事の世話などは女がすると思うのだが、ゴブリンの世界では違うのか?
それとも、本当に男しかいない種族なのか?
そんなものは種族としてありえないと思うが…
俺は溜息をついた。
なんでこんなにファンタジーのゲームやアニメに当て嵌るような魔物とかモンスターみたいなものが存在するのか?俺はファンタジーの世界というより、ゲームやアニメの世界に来てしまったのか?
幾ら何でもそれは無いだろうと思うが、否定しづらいのがムカつく。
冗談で「ステータスオープン」と唱えてみたが、さすがに表示版が現れたり脳内にガイドのような声が響く事は無かった。
安心した。やはり前回同様そんな物は出てこない。
そんなゲームのような事が起こったら、ファンタジーと言うより理不尽な世界だ。自然の摂理もへったくれもあったものじゃない。そんな中二病患者の妄想世界などまっぴらごめんだ。
兎に角、ここに居続けるのは危険なので俺は立ち去る事にした。
昼間の様子からも分かるように、ゴブリンたちは俺を見つけたら問答無用で攻撃してくるだろう。
が、その時だった。
女の悲鳴というか、吠えるような声が聞こえてきて、洞窟から女が出てきた。
それは、明らかに人間の女だった!
全身泥まみれで薄汚れているが、全裸の若い女が発狂したように喚き散らしながら走っていた。
後から5体のゴブリンが追いかけて行って女を捕まえた。女は暴れたが、ゴブリンたちが殴る蹴るの暴行を加えながら女を大人しくさせて、洞窟へと引きずって行った。女の体には至る所に痣や擦り傷切り傷があり、普段から虐待されているのが在々と分かった。
この世の光景とは思えなかった。
明らかに同族で、同じ人間の女がゴブリンどもに蹂躙されている!
女は奴隷どころか、家畜以下の扱いを受けていた!
物凄いショックを受けたが、同時に経験した事の無い途轍もない怒りが込み上げてきた。ゴブリンどもに対する殺意が膨れ上がり、俺は我を忘れて突撃しようと立ち上がった。
が、その瞬間だった。
「がああああっっっっ!!!!」
ホブゴブリンがいきなり立ち上がり、こっちを向いて雄叫びを上げた。同時に、物凄い《プレッシャー》が襲いかかってきた。
立ち上がった俺の体は、得体のしれない圧力で抑え込まれて動けなくなった。
その直後に、ホブゴブリンが投げた石斧らしき物が俺に向かって飛んで来た。
避けようにも体が動かず、石斧の軌道を逸らすように《念》を送っても、石斧はそれを無視して真っ直ぐに飛んできた。
死ぬ!
そう思ったが、間一髪、死にたくないという思いが勝ったのか、ギリギリの所で首が動いて顔を傾ける事が出来た。
石斧は俺の頬と耳を切り裂きながら後方へ飛んでいった。
更に石斧は俺の後ろに生えていた木を数本薙ぎ倒していた。まともに当たっていたら、俺の頭は砕け散って首から上が無くなっていただろう。
ホブゴブリンは《念動力》を自在に扱う能力を有していて、それは明らかに俺よりもずっと強力だった。
俺は沸き起こった怒りも忘れて萎縮してしまった。
恐怖に取り憑かれ、パニックになった事で金縛り状態がかろうじて解け、俺はその場から逃げ出した。
俺は闇雲に走り回って、少しでもあの場所から離れる事だけを考えた。
無意識に《念動力》を使い、足の動きを加速させて走ったらしく、項がズキズキと痛み、吐き気が襲ってきた。が、俺はそれらを無視してひたすら逃げた。
切り裂かれた頬と耳から血が吹き出していたが、それどころではなかった。それほどに、あのホブゴブリンから受けた《プレッシャー》と攻撃は強烈で恐ろしかった。
☆ ☆ ☆
どのくらい走ったのか、気が付くと俺は大木の根本に隠れるようにして吐いていた。吐く物が無くなって胃がキリキリと痛んだが、それでも吐き気が治まらず、涙と鼻水を垂らしながら胃液を吐き続けた。
吐く度に切り裂かれた頬が胃液に焼かれて激痛が走った。
幸いにもホブゴブリンは追って来なかったようだ。
辺りを見回しても、耳を澄ませても、近付いてくる気配は無かった。
俺は大きく息を吐きだして一息ついた。
取り敢えず、俺は傷の手当をした。
水筒を取り出して口を濯ぎ、裂けた頬と耳の血を洗い流して傷口を塞ぐように手で抑えた。
他にも闇雲に走ったせいで出来た切り傷や内出血の痕が、腕と脚の至る所にあったが、血を洗い流す事くらいしか出来なかった。
兎に角恐ろしかった。
ホブゴブリンが追ってこないと分かった今も震えが止まらず、恐怖に打ちのめされていた。
あれほど強烈な殺意をぶつけられた事は、今までの人生で一度も無かった。
この世界にやって来てから獣たちは俺を殺そうと襲ってきたが、殺気は感じても殺意を感じる事は無かった。
上手く言えないが、獣が本能に従って殺そうとしてくるのに対して、ホブゴブリンは明らかに感情に意志の力を載せて俺を殺そうとしていた。
つまり、捕食の為ではなく、敵対者を排除するための方法として俺を殺そうとしたのだ。
それは仲間の群れを守る為であり、テリトリーを守る為の長としての使命だ。それ故に発散する殺意の《プレッシャー》が他の獣の比ではない。
俺はガタガタと体を震わせるだけだった。
夜になってすっかり暗くなり、辺りは闇に包まれた。
ようやく吐き気が治まりかけ、頬と耳の裂けた部分の出血が止まって傷が塞がり始めていた。
が、俺は恐怖からまだ抜け出せずにいた。
しかし、獣はそんな俺に容赦なく襲いかかって来る。ズンズンと重そうな足音を響かせて勢いよく迫ってくるのを耳が捉えた。
慌てて振り向くと、1頭の巨大な獣が突っ込んできた。
俺は慌てて胃液を撒き散らしながら横に飛んで間一髪躱した。擦れ違いざまに巨大な牙が下顎から生えているのが見えた。それは猪に似た獣だった。
猪もどきはそのまま大木に突っ込みそうになったが、体をスライドさせながら減速し、器用に大木を避けて走っていった。
が、直ぐに方向転換してこっちに向かってきた。
猪もどきは夜目が効くのか、それとも他の方法で進路上にある物を察知しているのか、4m近い巨体にも関わらず密集した木々にぶつからずに動き回っている。
そういえば、以前に静岡県の滝を見に行った時に、水を飲みに来ていた猪とばったり遭遇して驚いた事があった。猪も驚いたようで、暫くお見合いをした後に、猪は垂直の崖を登って逃げていった。
5〜6mの崖だったが、突き出た岩の突起を足場にしながらピョンピョンとジグザグに飛んで登っていく様は、まるで鹿のように軽快で驚いたものだ。
そんな事を漠然と思い出しながら猪もどきの攻撃を躱す。
俺もある程度は夜目が利くので、聴覚と合わせて正確に猪もどきの動きが掴める。何回か躱していると、ようやく身体が解れてきて、戦う気力が湧いてきた。
戦え!
戦わなければ殺られる!
自分を叱咤激励して気持ちを持ち上げる。
しかし、手元に槍が無い事に気付いた。どうやら逃げ出す時に置いてきてしまったらしい。俺は周りを見渡し、ボーリングの玉程の大きさの石を拾った。かなりの重みがある。
猪もどきは勢いをつけて俺に迫ってきた。同時に《プレッシャー》も感じるが、ホブゴブリンに比べるとそれは些細なものだ。
俺は重たい身体に喝を入れて無理矢理動かし、猪もどきを睨みつけた。
一撃で勝負を決めるしかない。
猪もどきをギリギリまで引きつけると、腕の筋肉を《念》で加速させて、渾身の力を込めて石を投げた。
石をリリースしたポイントから猪もどきまでは1mも無い。さすがにこの距離では《念動力》を使っても石を躱す事は不可能だろう。
石は猪もどきの額にカウンターとなってモロに当たり、パーンと弾けるような大きな音を立てた。
石は猪もどきの額を割って頭の中に抉り込んでいった。脳みそもグチャグチャになって即死だろう。
だが、突進の勢いが幾分弱まったとはいえ、猪もどきはそのまま俺に突っ込んで来た。
咄嗟に受け身を取ろうと左腕を前に出したのが功を奏して、腕輪が鋭い牙を受け流してくれた。俺は傷を負う事無く衝撃を吸収しながら後ろへ飛ばされた。
強かに背中を樹の幹に叩き付けられたが、かろうじて気を失わずに痛みを堪えながら咳き込むだけで済んだ。
頬の傷が開いてしまったが、頑丈な体に感謝だ。
しかし、本当にこの腕輪は呪いなんかじゃなくて、《泉の精》のご加護でもあるんじゃないかと思えた。あれだけの衝撃を受けても、腕輪には傷一つ付いていなかった。
どんな素材で作ればこんな物が出来るんだ?
まさか、ミスリルとかオリハルコンとかいうファンタジー金属じゃないよな…
何となく、自分がファンタジーの世界観を受け入れてきているような気がして、少し鬱になった。
猪もどきと戦い、倒せた事で俺に取り巻いていた恐怖心は大分弱まった。
荒療治となってしまったが、結果的には良かったのかもしれない。萎縮していたジュニアも元気を取り戻した。
とはいっても、ホブゴブリンを思い出すと恐怖心に囚われるのは確かだ。
ゴブリンどもは弱いが、ホブゴブリンの強烈な存在感と戦闘力があるから、この危険極まりない森の中で群れをなして生きていけるのだろう。
しかし、どうする?
あの人間の女性を助けなくて良いのか?
この世界で初めて見た俺以外の人間だ。
人間はいるだろうと思ってはいたが、まさかあんな形で見つかるとは思いもしなかった。
彼女を救い出せれば、様々な情報が手に入るはずだ。
だけど、俺にそれが出来るのか?
あのホブゴブリンは強い!
俺よりも強いのは確かだろう。怒りに沸き立った俺だが、あっさりとあいつの《プレッシャー》に飲み込まれてしまった。
このところ、戦いに慣れて襲いかかってくる獣を次々と倒していたので、俺は強いと思っていた。
しかし、何の事はない、俺はさほど強くもない獣に勝っていい気になっていただけだった。
日本にいた時の俺は体も小さくビビリの性格で、喧嘩だって殆どした事が無い。だから、極力危険な事には関わらないように避けて生きてきた。
何度か危ない目にあったが、上手く立ち回ってその場を乗り切ってきた。まあ、卑屈になって逃げたともいえるが。俺はそういう人間だ。
だが、今度はあのホブゴブリンどもが住処にしている洞窟に入っていかなければ女性の救出は出来ない。自分から敵地に入っていくなんて、単なる自殺行為だ。
そう考えただけで、体が震えて恐怖に囚われる。
あの女性の必死に逃げる様と、ゴブリンたちに殴られ蹴られ引きづられていく姿を思い出す。彼女の絶叫が耳から離れない。
多分、今も彼女はゴブリンたちに蹂躙されているのだろう。
それに、彼女だけでなく他にも人間が居るかもしれない。
俺は葛藤する。
彼女の事を忘れて逃げられるなら、どんなに楽かもしれない。が、そんな事が出来るのか?
彼女を見捨てて、今ここで逃げてしまったら、俺は一生この事を後悔し続けるだろう。多分、あの光景と彼女の絶叫がいつまでも俺を苦しめるはずだ。
ふと、別れた妻のあざ笑う顔を思い出した。
「本当に頼りにならないわね!」
妻の嘲りの言葉が蘇る。
出世が出来ずに稼ぎが悪いといつも罵られて肩身の狭い思いをさせられ、挙句の果てに浮気されて離婚するに至った。
俺としては慎ましくても穏やかに生きていければそれで良かったのだが、妻は何かと周りの目を気にしてマウントを取りたがった。
家庭は俺にとって安らぎの場所では無かった。
親の勧めに応えてそれなりの会社に入ったが、数字だけを追いかける仕事がつまらなくて遣り甲斐を感じる事は終始無かった。
しかもパワハラまがいの事をして、悪いと分かっていても上司の命令を実行しないと出世できないような会社だったので、俺は出世を諦めた。
他人を陥れてまで出世して生きて、何が誇らしいのか俺には理解できなかった。
しかし、だからといって会社を辞める事も出来ずにいた。
結局、中途半端に妥協して、無気力に生きる事が俺の生き方となっていった。
妻もそんな俺の生き方が嫌だったのだろう。
ずっと虚しさと後悔の連続の人生だった。
あの時ああしていれば、この時こうしていればと思わない日は無かった。
俺は大きく息を吐きだし、何度も深呼吸をする。
真っ暗な森の中で俺は一人で佇んでいる。
俺を知る者は誰も居ない。
俺が知っている者も誰も居ない。
絶対的な孤独だ。
顔を上げて覚悟を決める。
俺は死んだ猪もどきの体を裂いて肉を切り取る。
あのホブゴブリンと戦うために、気力体力を充実させて挑まなければならない。
あの《プレッシャー》に飲み込まれない強い気持ちを持ち、ありったけの力を出せるようにするのだ。
今後の人生を後悔で曇らせない為にも、この戦いは避けられない。
我ながら柄ではないと思うが、偶然とはいえせっかく若くて新しい体を手に入れたのだ。体が生まれ変わったのなら、気持ちも生まれ変わりたい。
新しい人生を豊かにするためにも、後悔しない行動をする、俺はそう決めた。
俺は火を起こして食事の準備を始めた。
まずはしっかりと腹ごしらえをして、それから戦いの準備に入った。
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