第2話 俺は誰…なんだ?
崖を飛び降りた俺は落下に身を任せながらも、少しでも滝壺から離れた場所に着水しようと藻掻いた。直ぐに水面に叩きつけられる強烈な衝撃を受けたが、川底に体を打つ事も無く、意識を失う事も無かった。
無事狙い通りに滝壺の渦に巻き込まれずに水面に浮かび上がった俺は、そのまま川の流れに乗って身を任せた。
幸い、特に大きな怪我をした感じも無い。
姿勢が安定したので崖の上を見ると、熊が佇んでいるのが見えた。どうやら追っては来ないようだ。ようやく熊から逃げ切った俺は、心からホッとした。まさに九死に一生を得るとはこんな感じなのだろう。
川が曲がって岩場の陰になり、熊が視界から消えた所で俺は岸に向かって泳いだ。岸に上がった所で俺は大きく息を吐き出した。
目を覚ましてからずっと恐怖と緊張の連続だったので、ようやく一息ついて落ち着く事が出来た。
ずぶ濡れの体をよく見ると、全身の至る所に擦り傷や打撲の痕がある。あの巨大な熊に襲われてこれで済んだのなら、運が良かったと思うべきだろう。
しかし、改めて自分の体を見てみると違和感だらけだ。
熊と戦っている時から自分が自分で無いような違和感を覚えてはいたが、落ち着いて自分の体を調べてみると、肌の色が日本人とは違う白人っぽいものになっている。肌の張りにしても滑らかで若々しさを感じさせた。
何より体型が全然違っていて、腕や脚は太く逞しくなっており、ポッコリ出ていたお腹は八つの形に腹筋が割れていた。
そして、男の象徴であるジュニアは、うっすらと茶色っぽい陰毛に覆われて包皮を被っていた。
俺は包茎では無かった筈だが、亀頭部分の大部分が隠れていて、先っぽがほんの少しだけ顔を覗かせていた。手に持って包皮を引っ張ってみると、ツルンと剥けて肌色のソーセージのような亀頭が現れた。良かった、真性ではなかった。
だが、それは幼さを残す少年のものだった。俺も少年の頃にはこんな感じで可愛らしかった。触ってみると、まだ敏感で少しヒリヒリした。
どうやら俺は体が若返ったらしい。
俺は恐る恐る川の流れの淀んだ場所を覗き込んだ。そこに映っているのは全く見知らぬ少年だった。歳の頃は16〜17歳位だろうか、茶髪で少し堀の深いアメリカ人的な甘いマスクをしていた。瞳の色は濃いグリーンだ。
手を振ってみると、水面に映る少年も同じく手を振る。間違いなく自分を映し出していた。
なんだこれは!?
一体どういう事なんだ?
なんで俺は見知らぬ少年の体になっているんだ?
訳が分からない。
周りを見渡してみると、川を挟んで両岸には森が広がっている。が、生えている樹々は見た事の無いものばかりだ。
少なくとも、慣れ親しんだ日本の森ではない。
目が覚めてからの事を思い出してみると、全てがおかしく違和感だらけだ。
自分がカプセルの中にいた事もそうだが、あの襲ってきた熊は熊のようで熊ではないようにも思えた。雰囲気は熊なのだが、顔が何となくライオンっぽい感じだった。
それにあの研究所みたいな所で見た原人っぽい死体や、小人っぽいが人間ではなかったような死体など、あれらが本物ならおよそ日常生活とはかけ離れた存在だ。
そして、魔法陣のようなサークル上で起こった瞬間移動とも思える出来事や、あの熊の空中での方向転換など、俺の知っている物理法則を打ち破るような出来事は、あまりにも不可解で謎過ぎる。
俺の他に生きた人間は居なかったようだが、熊に襲われて殺されたのか?
それとも、それともだが、とても怖ろしい考えだが、あのサークルの周りに転がっていた死体の小人がここの人間なのだろうか…?
そう考えると、あの状況は辻褄が合うように思えるが、だとするなら、ここは地球ではないという事だ。
俺はあまりにも飛躍し過ぎた考えを打ち消した。SF小説や漫画の読み過ぎだ。
本来そういったものは好きだが、還暦を過ぎた初老のオッサンが現実と創作を混同してもしょうがない。
兎に角、あまりにも解らない事だらけだ。
解らないものは何時まで考えても時間の無駄だ。悩んでいる暇があったら次の行動を考えた方が良い。これは悩んでばかりで全く行動しようとしない、別れた妻から嫌というほど学んだ教訓だ。
まずは濡れた体と足の裏の怪我をどうにかしないと。寒いというほどの気温でもないが、何時までも濡れたままでは体温を奪われてしまう。
何か体を拭いて服の代わりとなるものはないかと周りを見渡した時だった。
水中に黒い影が見えたと思ったら、何かが姿を現し、大きな口を開けて襲い掛かってきた。
俺はギリギリのところで躱すと、瞬時に後ろに飛んだ。
凄い!この若い体は反応が素早くてよく動く。
距離を取って相手を観察すると、体長が7m近く、胴回りは直径が1m近くあるワニに似た生き物だった。
しかもそいつの胴体には太い尻尾が1mほどあるが、更にその先に細い紐状のものが5mほど繋がっていた。
そいつが普通のワニと違うのは尻尾だけでなく、ワニ皮のようなゴツゴツした表面とは違って、アロワナやピラルクといった巨大淡水魚のような鱗で全身が覆われている事だ。
どちらかというとトカゲに近い…のか?
少なくとも、俺はこんな生き物は知らないし、日本にいるなんて聞いた事もない。
そいつは陸に上がると、素早い動きで這うように 近付いてきた。
俺は用心の為もう一度下がって距離を取ったが、その時風切り音がして目の前を黒い影が掠めていった。
その後に沢山の水滴が石飛礫のように飛んできた。水滴はバチバチと体に当たり痛かったが、まだ耐える事が出来た。
問題なのは目の前を掠めていった黒い影だ。
それはそいつの尻尾の先にある紐状のものだった。まるで意思のある別の生き物のように自在に動き回っている。
鞭の様にしなったかと思うと、先端は目で追えないほどのスピードで迫ってきた。
パーンと破裂音がした。
前もって動いていたのでギリギリで躱したが、音が後から着いてくるような気がした。音速を超えているのか?
それが通過した後に痛みが走り、胸の皮膚が裂けた。血が噴出したが、傷は浅かった。
人間の振るう鞭でも音速を超えるが、そいつの巨体から繰り出される尻尾の攻撃をまともに食らったら即死間違いなしだ。
何でこんな化け物みたいな生き物がいるんだ?
なんて考えている余裕は無く、次の攻撃が来る前に思い切り後ろに飛んで距離を取った。
俺は何か武器になるような物はないかと辺りを見渡す。
ここは岩からなる川辺で、所々にボーリングの玉のような石が転がっている。俺はその中の一つを手に取ってそいつに投げつけた。
普通この手の大きさの石なら10〜20kg程の重量があるが、俺の体はソフトボールでも投げるかのように軽々と投じた。
石はかなりのスピードで飛んだが、そいつの体に当たる寸前で鞭のような尻尾に弾かれた。そいつの尻尾は攻守一体となっているようで手強い。体の動きが早くて、スルスルと這うように近付いてくるのが不気味だ。
俺は次々と石を投げるが、そいつの尻尾は縦横無尽に動いて全て払いのける。
まったくなんて奴だ!
さっきの熊といい、このワニもどきといい、信じられないような生き物がいる。
俺は距離を取ってから、思いつきで石を5〜6個空中高く放り投げた。
雨のように降ってくる石を、そいつは尻尾で弾いていく。
上に意識が向いているので、俺は一つの石を地面スレスレに投げつけた。
それは見事にそいつの頭部に当たり、少しの間動きを止めた。
ビクンと震える体の上に、上に投げた最後の石が落ちて来て、そいつの右前足を潰した。
「ぐげぇぇぇっっっ!」と悲鳴のような息を漏らしながら、そいつはのた打ち回った。苦痛のためか、やがてそいつは動きが止まり、鞭のような尻尾も明後日の方向に振り回していた。
俺はチャンスとばかりに50cm程の大きな石を持ち上げた。何となく持てるような気がしたので、試してみたら実際に持ち上がった。
俺は用心しながらそいつに近づき、渾身の力を込めて石を振り落とした。狙い通りに石はそいつの頭に落ちてペシャンコに潰した。
そいつはしばらくビクビクと震えていたが、絶命して動かなくなった。
その時、黒いモヤのようなものが体から出たような気がしたが、すぐに消えて見えなくなった。
スピードを出す為に出来た体の鱗の護りは意外と弱かったようだ。
少しホッとしたが、まだ他にも居るかも知れないので油断は出来ない。
俺は辺りを見渡してジッと様子を伺ったが、動くものは見えず、そんな気配も無かった。つくづく川の中で襲われなくて良かったと思った。
どうにか自分の命を守り通して一息つく。
立て続けに起こった怪獣との戦いに、精神が一気に磨り減っていた。殴り合いの喧嘩すらまともにした事がないのに、怪獣と戦って命のやり取りをするとは思ってもいなかった。
まだ心臓が恐怖と昂奮からバクバクしていたが、周りの景色は何事も無かったかのように佇んでいる。
川はサラサラとせせらぎの音を響かせ、遠くからは鳥の鳴く声が聞こえてのどかな雰囲気を醸し出していた。
俺は呆然と周りを見ていた。
本当に何なんだ…ここは?
アマゾンかアフリカの奥地にでも来てしまったのか?
俺は近づいてワニもどきの死体を観察した。
死んでいるのは確かだが、全く見た事の無い生き物だ。生物に詳しいという訳ではないが、何となく俺が知る地球の生き物とは違うような気がした。
ワニに似た体つきはしているが、鱗はトカゲや蛇というより魚っぽい感じだ。
背中の鱗を1枚取ってみたが、皮が剥けるというより魚のように剥がれるという感じだ。1枚の鱗が5cm程の扇形をしていて、力を加えるとプラスチック製のギターピックのようにしなり柔軟性を示した。また、鈍い銀色をしたそれは、曲げる度に光を弾いて七色の彩光を煌かせた。
鞭のような動きをした尻尾は細かい鱗でびっしりと一面が覆われていて、先端に行くほど細くなり、鱗が何層にも重なり合って強度を増しているようにも見えた。そして、最先端が石のように硬い鱗の塊になっていた。
なんにせよ、見た事の無い不思議な生き物だ。
俺は武器になるかもと思い、尻尾を切り落とす事にした。鋭く尖った石を見つけて何度も叩きつけると、ようやく切り落とす事が出来た。
長さが4m程で、握りの部分は直径が6〜7cm程あり、少し太いが振ってみると鞭そのものだ。
ワニもどきの本体の腹に打ってみると、鱗と肉が裂けて骨が見えた。威力は上々だ。これで少しは向かって来る生き物に対して攻撃手段が出来た。
勝てるかどうかはともかく、精神的に安心できる。
まあ、日本で月の輪熊に襲われた時は、装備していたナイフも熊撃退スプレーも全く使えずにいたヘタレなんだけどな。
しかし、本当にこの体は凄いな。
改めて確かめてみると、鍛え抜いたボクサーのような体をしている。身長も180cm以上あるようだし、理想的な体型をしている。
動きが早くて、何かあった時に瞬時に反応してくれる。考えるよりも先に体が動くという感じだ。
何か特殊な訓練でもしていたのだろうか?
というか、この体って誰の物なのだろうか?
あの研究所みたいな所で作られた体なのか?
俺の意識や記憶は以前のままなのに、体が替わっている。
これって記憶の移植をしたとか、脳の移植をしたとかなのだろうか?
疑問が次から次へと湧いてくる。
あの研究所のような所に戻れば何か解るのかもしれないが、あの熊とまた対峙するのは嫌だ。次に遭ったら生きていられるとは思えなかった。
俺はこの体がどの位の身体能力を持っているのか知りたくなった。
半分ほどの力を込めて垂直ジャンプしてみたが、2m近くは飛んだと思う。この程度の力でこんなに飛ぶのかと驚いた。
着地した時に怪我をしている足が痛んだので、思い切り飛ぶのは止めた。
熊から逃げている時も相当な速さで走っていたが、全力で走ったらどのくらいスピードが出るのだろうか?
何となくだが、オリンピック級のアスリートを軽く超えているような気がする。
俺は近くにある大きな岩に挑戦してみた。1m程の岩だが、大体これだと1トン以上はあるはずだ。さすがに持ち上がりはしなかったが、容易に動かす事が出来た。
足にあまり負担をかけたくないので、腕を使う事にしてゴルフボールほどの大きさの石を投げてみた。
野球の投手のようにワインドアップから投じた石は物凄い速さで飛び、目で追えないほど遠くの木々の中に消えていった。
同じようにして、30mほど先にある樹を目掛けて投げたら、幹の中に完全にめり込んだ。
この威力には驚いたが、それと同時に眼を凝らして当たった場所を見ようとしたらズームして拡大して見る事が出来た。
何だこれは!
試しに遥か遠くの山の上を見たら、ぼんやり見えていた稜線が岩で形作られているのがうっすらと見えた。
もしかしてと思って耳を澄ませてみると、遠くで囀る鳥の声や木の葉が擦れるざわめき等が大体の位置を把握しながら聞き分けられた。
おかしい!これは絶対におかしい!
俺の今の体、絶対に普通の人間じゃないだろう!
この体はサイボーグとか人造人間とかいった類なのか?
何か自分自身が不気味に思えた。
それとも、もしかして、もしかしてだが、今いる場所が地球ではなく他の世界なり惑星、ないしは未来の地球だと仮定して、そこに住む人間はこういった身体能力が普通なのだろうか?
さっきの熊やワニもどきも並外れた能力を有していた。ならば人間も並外れた能力があったとしても不思議ではない。
…ような気がする。
う〜ん、よく解らないが、少なくともロボットの類では無い様だ。自分の体に機械的なものは感じられないし出血だってしている。
倒したワニもどきも骨と筋肉と皮膚で出来ていたので、あれも動物なのは確かだ…と思う。
はあ〜…、やはり幾ら考えても解らないものは解らない。
これ以上考えても哲学的思考に陥ってしまうだけなので止めにした。
それとも、まさか以前に少し見た事があるアニメの異世界ファンタジーみたいな所に来た訳じゃないよな。
何故か青年や中年のオッサンが神様に会って、別の世界に送られて若返り、魔法や特殊能力を使って活躍するみたいな話だが、あんな子供向けのご都合主義の世界だったりしたら最悪だな。
まともな倫理観も無く、物理現象が破綻したような世界だと、どうやって生きていけばいいのか皆目見当がつかないぞ。
それに、神様に会った記憶も無いしな。
神様が実在する世界なんてあったら地獄でしかないぞ。そいつの気分一つで世界が壊れたり再生したりするなんて、下々の人間は発狂するしかないだろうよ。
とりあえず「ステータスオープン」とそれに類似する単語を幾つか唱えてみる。
何も現れない。
ホッとする。
ゲームのように人間の能力が数値で簡略化された世界で無い事に心底安心する。
特に、スキルとか職業とかが勝手に与えられるとか冗談じゃないぞ。そんな事が実際にあったら選択の自由が無くて、人間らしく生きられないからな。
まあ、そんな現実では有り得ない事を考えてもしょうがないな。
兎に角、化け物みたいな生き物と戦えるだけの能力があるのだ。今はそれを歓迎しよう。
話は元に戻るが、足の傷を何とかしなければならない。それと、何時までも真っ裸という訳にはいかない。
万が一にも来ないとは思うが、もし若い山ガールのお姉ちゃんが来て俺を見たら何と思うだろうか?考えるまでも無く変態裸族と思われるだろう。
出来ればそれは避けたい。
それでなくても、60年以上も生きてきて消したい黒歴史が山ほどあるのに、これ以上増やしたくはない。
じゃあ、若くない山ガールのオバちゃんならいいのか?という話だが、まあ、別に構わんだろう。向こうも"あらやだ"くらいにしか思わんだろうさ。
で、服だが、周りを見渡しても自然しかない。
せいぜい使えるのは木の皮や葉っぱ位だろうか。ワニもどきの鱗を剥いでも着られる物になるとは思えなかった。
俺は目の前に生えている樹に絡まった蔓を引き千切り、広葉樹の葉っぱを沢山集めて腰巻を作った。
見た事の無い植物なので、肌がかぶれたり爛れたりしないように祈る。
これで裸族から原始人並にはなっただろう。
その後、川の水で足を洗って汚れを落とした。今のところ傷にはこれ位しか出来ない。
小枝を並べて足型を作り、隙間に砕いた木の皮を埋めて柔軟性のある靴底を作る。それを葉っぱで幾重にも包んで、最後にワニもどきの皮を鱗ごと切り取って蔦で足に巻き付けた。快適とは言えないが、足を保護する程度の靴の代わりにはなるだろう。足元がキラキラ光るのが不気味…だが。
まあ、これで文明人の匂いが多少はする、変態原住民レベルにはなったと思う。
オッサンは進化するのだ。
俺はワニもどきの肉を少し剥ぎ取ると、葉っぱに包んで、葉っぱと蔓で作ったポシェットに入れた。
腹が減ったので食おうと思ったのだが、何時までもここに居ると他のワニもどきに襲われるかもしれないし、熊が滝を迂回してやって来ないとも限らない。
それにしても今更だが、あの熊の敵愾心は異常に思えた。
俺が知っている普通の動物なら、あそこまで執拗に追いかけないはずだ。
あの熊は餌を求めているというより、憎しみを抱いているといった方が合っている様な気がした。
俺は当ても無く歩を進めた。
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