第32話 選ぶ

 気づくとタイクウは、真っ白な部屋のベッドで横たわっていた。体中が重くて軋むように痛いが、動けないほどではない。しかし、気分は泥の中にいるかのように深く沈んでいた。

 天井に目を向けて、喘ぐように息を零す。一定のリズムを刻んで、何かの電子音が小さく鳴っていた。


「ヒダカさんは無事です。出血量は多かったですが、幸い後遺症も残らないと思います。今は、別のお部屋で眠ってます。タイクウさんも丸一日眠っていらっしゃったんですよ」

 視線を横に向けると、白衣姿のココがベッドの脇の椅子に腰かけていた。

 ヒダカが生きている。安堵する反面、まだ事実が上手く頭に入って来ない。自分がしてしまったことを受け入れたくないからだろうか。

 熱くなった目蓋を、タイクウは両手で強く押さえつける。泣くな。泣いたって、やってしまったことは変わらない。


「ココさん。あの時、僕は――っ」

 嗚咽交じりの言葉になってしまうのが、言い訳じみていて悔しい。タイクウは目を強くこすると、震える声で話し始めた。

「変身した時、なんだかいつもよりも調子が良いなと思ったんです。それが、飛び始めた瞬間にもっともっと飛びたい、ここは自由だって怖いくらいの快楽で心が満たされていって、でも、天空鬼スカイデーモンが現れたら、もう何もかもが邪魔で不快でたまらなくなって訳が分からなくなって」

『タイクウ! 俺の声、ちゃんと聞け! 聞こえてんだろ⁉ 戻ってこい、タイクウ‼』

 今になってようやく、あの時のヒダカの声を思い出す。彼は必死で自分を呼び戻そうとしてくれていたのに、どうして彼を邪魔だなんて思ったのだろう。


「それで僕はヒダカのことを……ヒダカだと気づかず、本気で邪魔だと思って、攻撃してしまったんです。ねぇ、ココさん。僕はどうしてこんな恐ろしいことを? 僕、どうしてしまったんですか? どうして……っ」

「すみません。こうなる前に、もっと早くお話しなくてはいけなかったんです」

 ココは苦しそうに唇を噛み、俯いた。しかし、すぐに「学者」の顔をして、彼女は淡々と口を開く。

「とても酷な話になると思います。けれど、これ以上の悲劇を起こさないために、私は話さなければなりません。そしてタイクウさんには、その話を聞く必要があります。――いいですか?」

 一瞬息を詰まらせて、タイクウは上半身をゆっくりと起こす。

 震える指先を押さえつけて、力強く頷いた。

「構いません。聞かせて下さい」


 ココは強い眼差しで頷くと、膝の上に乗せていたタブレット端末を立ち上げた。

 見せられたのは、氷の中に眠るおびただしい数の天空鬼の映像と、数々の聞き取りや調査結果から導き出された十年前の真実である。

 語られる事実に驚きながらも、タイクウはどこかぼんやりとした気持ちで話を聞いていた。おとぎ話の話を聞かされているような、正直、この話のどこが自分にとって、酷な話になるのかが分からない。


「まだ事実に関して不明瞭な部分や、推測でしかない部分もあるため、この映像の公表は控えています。もちろん、山脈の監視は続けていますが――ああ。すみません、お話が長くなってしまって。タイクウさんにお話したいのは、この一番初めに天空鬼たちと接触した調査団の生存者に関してです」

「生存者が、いたんですか?」

 ココは一度口を閉じて、鼻で深く息を吸った。


「ええ。タイクウさんと一緒です。半分異形へと姿を変えることで、生き残ることができたんです」

「僕と同じ……⁉」

 タイクウは思わず立ち上がろうとして、体の痛みで顔を顰める。シーツを握りしめた両拳は、血の気が引いて真っ白だった。

「僕と同じような人がいるんですね⁉ その人たちには会えるんですか? 今、どうしているんですか⁉」


 会ってみたい。自分と同じ、異形となった人たちに。話したいことがたくさんある。

 ところが必死で訴えたのに、ココは人形のような表情をこちらに向けるばかりだった。よく見ると、彼女のアクアマリンのような瞳は、今にも泣きだしそうに潤んでいる。

 タイクウは息を呑んで、恐る恐る尋ねた。


「もしかして、その人たちは――」

「ええ。全員、お亡くなりになられました。いえ、その、もっと悪い言い方をすれば……どうしようもなくなって、手を下されたと言いますか」

 衝撃でタイクウは呼吸を止めた。感情の整理ができないまま、ぼんやりとココの顔を見上げる。深く俯いているココは、タイクウの様子に気づかないようだ。


「調査団は三十名ほど、その中で生き残った人は数名だったと聞いています。もっといたのかもしれませんが、研究施設で天空鬼の生態解明にしていたのは、その程度だったと伺っています。彼らはタイクウさんのように、人間の時と変わらず過ごすことができていたそうです。身体の一部が人と異なったり食生活が変わった以外は、変身後でも確かに『ヒト』と言える程度ではあった、と」

 ココは一瞬喘ぐように息を吐くと、そのまま抑揚のない声で話を続ける。


「ところが、数年ほど経った頃でしょうか。その中の一人が突然正気を失い、施設の人々を襲うという事故が起こったそうです。その人を止めようと『変身』した人々も同じように暴走を始めて――。異変に気付いた人々が現場に駆けつけた時には研究所は壊滅状態で、犠牲を払いつつなんとか『対処』したそうです」

 タイクウは何も見えず、何も考えられなかった。ココの言葉だけが、頭の中で警鐘を鳴らすかのように響いている。思わず、両手で頭を抱えた。全身が凍った様に冷たく、震えている。

 タイクウの姿に、ココは一瞬言葉を詰まらせたようだったが、声を強く張ってタイクウに呼びかけた。


「私も、最悪の状況を考えたくはないです。タイクウさんなら絶対大丈夫だと信じたい。でも、タイクウさんだけがずっと正気を保ち続けられるという根拠はない。今回は戻ってこられましたが、次は『ヒト』に戻って来られないかもしれません。そうなったら本当に、取り返しがつかないことになります。だからタイクウさんはよく考えて、選ばなければならないんです。周囲の人々と、あなたの心を守るために」

「『選ぶ』……?」

 不思議とタイクウの体の震えが止まった。顔を上げ、唇を噛んで苦しげなココの顔を見上げる。


 それは、自分が人ではなくなったと告げられた時と、同じような気持ちだった。タイクウは自分でも驚くくらい簡単に、ただ納得したのだ。

 遅かれ早かれ、決断の時はやってきたはず。そうか、それが今なのか、と。


 彼は胸の奥の物を全て吐き出すような、長い長い息を吐いた。唇に苦笑を浮かべ、顔を上げる。

 真っ白な顔をしたココが、目を丸くしてタイクウを見つめていた。

「分かりました。まずは時雨さんも交えて、話をさせてもらえませんか?」

 そうか、ここが終わりなんだな。

 目頭を熱くする涙も胸を締めつける寂しさも飲み込んで、タイクウはとても柔らかく微笑んだ。

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