第31話 「化け物」
全身を震わせて、「タイクウ」は吼えた。翼で大きく風をすくって下へ流し、一瞬で敵に肉薄した。剛腕を振りかぶり、鋭い爪を相手の鎖骨の辺りに突き立てる。力任せに腕を下へ振り下ろすと、水風船を破裂させたように青い液体が飛び散った。
彼は振り向きざま、背後から襲ってきた敵の腕に噛みつく。生臭い香りと鈍い音が口の中に広がり、鼓膜を突き破るかのような叫び声が響いた。
ああ、
そのまま首を大きく振ると、千切れるような音と不快な音が大きくなった。
黙れとばかりに相手の顔面をわしづかみ、強く力を込める。
やっと、静かになった。
『――!』
それを静かにしても、次から次に「敵」がやってくる。淡い藍色の空に蠢く無数の敵を、「タイクウ」は叩き潰し、翼を捥いで、顎をかみ砕き、胸を裂いた。そうして目の前から、不快なものを消していく。
『――!?』
脳が焼き切れそうなほど熱くて、喉を震わせて大声で叫んでも、どれだけ敵を壊しても、ちっとも楽にならない。
『――!!』
今の自分と同じそれらの姿も、両腕や頬にべっとりとついた液体も、ぎゃあぎゃあと何やら耳元で鳴く声も、何もかもが酷く不快だ。
止めろ、僕の邪魔をするな。
『――うる、さいなぁ!』
爪を立てて腕を大きく振るった瞬間、目の前にびちゃりと赤い液体が散った。青に満たされた視界ではその赤があまりにも鮮やかで、タイクウの世界の音が止む。
『あれ……?』
首を動かし、赤い液体が溢れる先を追う。やけにゆっくりと、彼が下に落ちていく。体から幾筋もの赤い帯を伸ばしながら。
そう言えば、僕が「うるさい」と、自分の体から引きはがしたのは何だったのだろう。
『……ヒダカ……?』
血を流すヒダカの体が、地上に向かって吸い込まれていく。周囲の音が戻ってきたのと、
『駄目……駄目だ! やめ――やめろおぉぉぉぉっ‼』
タイクウは息を止めて目を剥き、喉を振るわせて絶叫した。
天空鬼の体を押し退け、めちゃくちゃに腕を振り回しながら、タイクウは一直線にヒダカの下へ向かう。
敵がヒダカを食らおうとする寸前、引ったくるように彼の体を抱き抱える。
肩に噛みつかれ爪で翼を引っかかれても、タイクウは全く痛みを感じなかった。ただ力のない体を腕の中に抱き込み、必死で敵の攻撃から彼を守る。腕の中のヒダカはぐにゃりとしていて人形のようで、あと少しでも力を込めたら、潰れてしまいそうだ。
怖くて怖くて体が思うように動かない。
『ヒダカ! ヒダカ! ヒダカ――っ』
何度も腕の中の彼の名を呼んで、そうしてやっと思い出した。
自分が普通でなかった時、ずっとヒダカはタイクウの名前を呼んでくれていた。喉が潰れそうなほど、強く叫びながら。
なぜ彼の声が聞こえなかったのか。いや、それよりも早く、彼を――。
東の空から不意に、真っ白な光が差し込んできた。眩しさで目が眩んだのか、天空鬼たちの動きが鈍くなる。その隙にタイクウは、無我夢中で下を目指した。
夜明けが近い。そんな時間帯に都市の上空を飛べば、誰かに見られるかもしれない。
しかし、そんな考えなど頭から消え去っていた。
タイクウは見覚えのあるビルの屋上へ、転がるように降り立つ。コンクリートで擦ってヒリヒリする腕を解き、ヒダカの背を支えながらそっと下ろす。両腕は目に見えて震えていた。
改めてヒダカの傷を直視して、タイクウの息が止まる。明るくなり始めた場所で見た彼の体には、肩から背中にかけて抉るように走った爪痕があった。そして、タイクウの爪にもべっとりと赤黒い血液がついている。心臓が大きく脈打った。
そうだ。あの時、ただ五月蝿いものを自分から引き剥がそうとして――。
『僕が、やったんだ』
だらりとタイクウの両腕から力が抜けた。
どうして、どうして、どうして、どうして。
なんで、僕はそんなことを。
僕が、僕のせいで、僕が、ヒダカを傷つけた。
ヒダカを邪魔だなんて、五月蝿いだなんて、自分が自分でなくなったみたいだった。
なんで。
まるで僕は、僕が、本当に――化け物になってしまったみたいじゃないか。
突然ヒダカの指先が僅かに、しかし確かな意志を持って動かされた。素早く伸ばされたヒダカの腕が、タイクウの右手を強く掴む。
『あ……』
「――っ」
唇を僅かに震わせて、それっきり、ヒダカは力なく腕を落とした。
タイクウの喉がひゅっと嫌な音を立て、目の前が真っ黒に塗りつぶされる。
嘘だ。
止めて、お願い。
行かないで。
「ヒダカ!!」
慌ただしい足音と共に、屋上の扉が勢いよく開かれる。傷だらけのタイクウと血塗れのヒダカの姿を見て、皆驚きで息を呑み悲鳴を上げた。
「ヒダカさん⁉ これは一体、どうしたんですか」
ココが叫びながらも、素早くヒダカの傷口を確認する。彼女の表情が青ざめていくのを見て、大柄な男性がすかさず前に出てきた。
「俺が連れて行く! ……タイクウ、ヒダカを借りるぞ」
レイジャーの声が聞こえ、呆然とするタイクウの腕の中からヒダカの体が離れていく。ばさりとタイクウの目の前に、亜麻色の髪の毛が垂れ下がった。いつの間にか、彼は元の姿に戻っていたのだ。
他のスタッフが早口でどこかに通信を飛ばしている。ヒダカを抱え、走り去っていくレイジャーたちの後姿を、タイクウは虚ろな眼差しで見つめていた。
「タイクウさん、貴方も酷い怪我です。今は治療を」
伸ばされたココの手を、思わず振り払う。駄々をこねるように、タイクウは首を激しく振った。
「違う! いらない! 僕のことなんかどうでもいい! 僕は、僕が」
あんなに血を流して、ヒダカが死んでしまうかもしれない。
怖い。ヒダカが死んでしまうかもしれないことも、自分が化け物のように正気を失っていたことも、何もかもが恐ろしい。
どうしたら良いの。
何も、分からない。
タイクウは両拳を叩きつけて、額をコンクリートに擦りつける。
全身を震わす嗚咽が、白み始めた空に高く響き渡った。
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