第30話 快と不快

 執務室でブラックコーヒーを飲みながら、松風時雨まつかぜしぐれはため息を吐く。正面の窓ガラスに映っているのは、暗闇を明るく照らす町のネオンと相変わらず冷めた目をした自分の表情かおだ。

 ふと、ノックの音が響き、時雨はコーヒーカップを机に置いて返事をする。一拍おいて中に入ってきたのは、生物学者であり、医者でもあるココ・ブロワであった。


「失礼します。タイクウさんたちの健康チェック終わりました」

「そうか」

「二人ともメンタル面での乱れはあるようです。やはり、恩師だという男性に正体を知られてしまったことが原因になっているかと思うのです。ただ、タイクウさんに関して……私たちが懸念しているようなことは起こってません。問診でもおおむね普段通りで、変わったところは見受けられません。恩師だという男性にはこちらの方から話をして、あの時見た光景は他言無用だと説得したと聞いてます」

 ココの報告を受け、時雨は再びそうかと相槌を打つ。

 その時、執務机の上に置かれた携帯端末が震えるが、時雨は相手の名前を一瞥して通話拒否ボタンをタップしてしまった。


「あの、良いんです? 私のことが気になるようなら、席を外しますけど」

「構わない。父からだ。どうせ、いつもの説教だろう」

 どうやら父は、自分が彩雲に熱を上げているのが気に入らないらしい。ちゃんと父から任された分の仕事はこなしているし、お互いもういい歳だ。自己資金でやっていることまで口出しなどされる筋合いはない。

 気を取り直し、時雨はココを見つめると、やはりという思いを込めて言葉をかけた。

「その様子では、まだ伝えていないのだな」

 大きく肩を震わせ、ココは小さく頷いた。


「今の不安定な状態でこのお話は、お二人に余計な負担を負わせかねないと思うのです。各種検査には問題ありませんでしたし、もう少しだけ様子を見てからでも構わない、というのが私の判断です」

 彼女のアクアマリンのような瞳には、冷静で知性的な光が宿っている。決して、個人的な感情だけで判断をしたわけではなさそうだ。そうでなければ困るが。


「――タイミングは君に任せている。普段からあの者の体調管理をしているのは、君たちだからな。ただ、手遅れにだけはならないようにしてくれ」

 眉をひそめ淡々と時雨が声をかけると、ココはもちろんですと力強く頷いた。

「お二人には、数日こちらでゆっくりお休みになってもらう予定です。その……ボスもどうかご無理なくです」

「ああ」

 ココは結んだ金髪を揺らして一礼すると、部屋を出ていった。


 時雨はすっかり冷めてしまったコーヒーの残りを一気にあおり、手元のタブレット端末を立ち上げた。複数の生体認証とパスワードで厳重に保護されたデータにアクセスし、ある映像ファイルを開く。

 それはココたち学者チームと、団体の主要メンバーのみで共有した、エベレストの山頂付近の最新映像であった。


 人間が立ち入ることのできない分厚い氷に覆われた山頂には、おぞましいほどの数の天空鬼スカイデーモンが凍りついているさまが映し出されていた。恐らく、人が立ち入らない他の場所にも天空鬼は眠っている。きっと、他の山脈にもだ。

 現に十年前に派遣された調査団は、山頂までは立ち入っていなかったと調べがついている。

 彼は眉間に皺を寄せ、端末の画面をきつく睨む。


 時雨たちが、これまでの調査や関係者への聞き取りから把握した「事実」はこうだ。


 ある国が、なんらかのきっかけで、分厚い氷の中に閉じ込められた未知の生物を発見する。そこで十年前の八月、山脈に調査団が派遣され、氷の中から「死骸」を取り出そうとした。

 この「調査」が、いずれは天空鬼スカイデーモンと呼ばれる異形たちを目覚めさせ、空に放ってしまった。

 当時の状況など、不明なことも多々あるが、これがあの、西暦二千四十年八月十日に起きただったのである。


 責任を逃れるためこの事実を隠ぺいした者たちは、ここ数年間に起きた「ある事故」によって全滅したらしい。

『あの生物は決して人が触れてはいけないものなのだ』

 事故の一端を知る情報提供者は、真っ青な顔で目を逸らしていた。


 幸い、地上と天空都市に分かれて閉じこもっていれば、天空鬼によって被害を受けることはない。天空都市が浮かぶ高度まで、天空鬼が上がってくることはないし、たまに地上へ天空鬼が迷い込むことがあったとしても、地上ここならば対抗手段はいくらでもあるのだ。

 だからこそ、天空都市を所有する国のトップたちは、天空鬼と天空都市の問題を先送りすることに決めてしまったのである。

 この日本でも、実質的な対策は全て時雨の団体任せになってしまっている。責任を負いたくないのが丸分かりだ。


 しかし、例え自分一人だけになったとしても。

「私は絶対に――諦めるつもりなどない」

 時雨は低い声で呟くと、タブレット端末の画面をロックした。







「本当に今夜お帰りになるんです? もう少しゆっくりされても良いのでは?」

「もう四日も休んだ。そろそろ帰らねぇと体が鈍る――オイ、タイクウぼーっとすんな」

「あ、え⁉ ごめん! 大丈夫です、ココさん。いつまでも、お世話になるわけにはいきませんから」

 いつものビルの屋上で、タイクウとヒダカはココと向かい合っていた。

 高所で吹く夜風は冷たく、タイクウの髪の毛を激しく揺らして頬を打つ。彼は髪の毛を手で押さえながら、ココに向かって微笑んだ。

 視線を移動させるとヒダカと目が合ってしまい、タイクウはさりげなく視線を逸らせてしまう。


「タイクウ」

「え、な、何?」

 戸惑っている間に、睨むような目つきのヒダカが近づいてくる。胸倉を掴まれ、黒檀色こくたんいろの両目に情けない顔つきのタイクウが映った。

「言っとくが、俺は、辞める気なんかねぇからな」

「――、うん」

 まるで、タイクウの胸の内を見透かしたような言葉だ。やっとのことでヒダカの言葉を飲み込んで、タイクウは曖昧に頷いた。


 ヒダカがあの時に見せた表情は、タイクウの目に焼きついたままだ。正直、このまま二人で運び屋を続けていいのか、タイクウは悩んでいる。

 この数日間は、休息に専念することと、検査に追われてヒダカとゆっくり話もできなかった。いや、もしかしたら無意識に避けてしまっていたのかもしれない。いっそ、藍銅鉱アズライトの事務所に帰って強制的に彼と二人きりになれば、ちゃんと話をすることができるのだろうか。


「えっと、じゃあ、変身しちゃうね」

 ヒダカに誤魔化すような笑みを浮かべ、タイクウは両目を閉じる。痛みが体を突き抜け、彼の体が徐々に作り変えられていく。

 そこで少しだけ、タイクウは体に違和感を覚えた。腹の中心がやけに熱い、ふつふつと沸騰するような、なんだか力が湧いてくるような気もする。しっかり休息を取ったのが良かったのだろうか。

 タイクウは機嫌よく、顔を上げた。


『うん。体の調子は問題ないよ。――それじゃあ、ココさん。色々ありがとうございました』

「はい。タイクウさんたちもお気をつけて」

 ココが笑顔で手を振ってくれたので、タイクウも手を振り返す。

 ヒダカがいつものように背中に乗ったのを確認し、タイクウは両翼を広げる。その瞬間、悦びで胸が高鳴って、体の隅々まで血が巡る感覚がした。

 どうしたんだろう。

 違和感に首をかしげながらも、タイクウは上空目がけて飛び立った。

 両翼を大きく羽ばたかせるごとに、地上のチカチカと目に眩しいネオンが遠ざかっていく。ねっとりと肌にまとわりつく空気が、徐々に冷たく爽快なものに変わっていく。

 解放感に満たされ、タイクウはひたすら上昇した。


『タイクウ……? おい、やけに速くねぇか』

 ヒダカが訝しげに声を上げるが、タイクウは気がつかない。

 胸がかつてないほどの快感に満たされ、脳を焼ききるような熱となってタイクウの血を滾らせる。もっともっともっと、一番居心地のよいあの場所へ行きたい。不快な感情も環境も振り切って、自由に空を飛びたい。


『聞いてんのか⁉ おい、もう少しスピード緩めろって……おい、どうなってんだ⁉ オイ⁉』

 ヒダカがいくら怒鳴っても、タイクウには届いていなかった。

 恍惚とした息を吐き、風を裂いてタイクウはどんどん上へ向かう。思い切り空を飛べて嬉しい。地上の空気とは違って、空はなんて気持ちが良いのだろうか。

 上に行けば行くほど、自分の邪魔をするものはいなくなる。狭い肉体から解き放たれて、こころが解放されたような、そんな快感では笑う。

 ああ、気持ちがいい。最高だ。この空は全て僕のもの――。


『あ』

 しかし、上空から、うじゃうじゃとたくさんの「ヒト」が押し寄せてくるのが見えた。

 腹が減った、ここは我々の縄張りだと「ヒト」は耳障りな声でギャアギャアと喚き散らしている。

 ああ、もう。せっかく気持ちが良かったのに、鬱陶しいな。

『――さなくちゃ』

 そう呟いたのを最後に、タイクウの意識は真っ赤に塗りつぶされていった。

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