第四章

第24話 時雨の心配?

 予定よりも大幅に遅れて、タイクウは時雨の所有するビルの前までやってきた。小型のクーラーボックスを肩に担ぎ直して、ビルの入り口に通じる階段を一気に駆け上がる。そして大きな自動ドアを潜って、ロビーに入った。


 ロビーはここの職員だけでなく、タイクウたちの依頼人を始めとするも出入りしている。光が差し込む大きな窓と磨かれた真っ白な床で、ロビーは解放感と清潔感に溢れていた。


 窓の外からはビルを囲む青々とした木々が見え、実に爽やかな光景なのだが、柱の影に立つ相棒ヒダカが放つどす黒いオーラだけが浮いている。タイクウの背筋に悪寒が走った。


「ごめんヒダカ! 遅くなっちゃって。無事に桜さんに頼まれたもの、買えたよ」

「ああ⁉ くそ、テメェが公園でうじうじ悩んでるから、こんなことになるんだろ?」

「本当にごめん! とりあえず、買ったものはロッカーにでも預けさせてもらって、早く時雨さんのところに」

「遅かったな」

 突然声をかけられて、タイクウは悲鳴を上げヒダカは息をのむ。声のした方へ振り返ると、時雨がきびきびとした動きで近づいてくるところだった。皺一つないダークスーツの襟元には、藍色と白のストライプのネクタイがお手本のように結ばれている。眼鏡のレンズから覗く黒檀色こくたんいろの瞳は、相変わらず冷めた輝きを放っていた。


「す、すみません、時雨さん! ちょっとおつかいを頼まれていて、買い出しに手間取っていたら遅くなりました」

「『おつかい』……」

 珍しく、時雨の瞳が興味深そうにクーラーボックスに寄せられる。釣られてそこに視線を向けて、タイクウは何の気なしに笑顔で答えた。

「はい! 桜さんからの頼まれ事です」

「ああ……」


 感嘆のような相槌のような言葉が、時雨の口から漏れた。黒檀色の瞳が熱を帯びたように僅かに艶を増す。

 途端にタイクウは、桜の「初恋の人」の話題を思い出した。はっきり聞いたわけではないけど、桜の想い人は時雨なのではないだろうか。そして、時雨も桜に想いを寄せていたはず。

 と言うことは。

 なんとなく恥ずかしさを覚えて、タイクウは視線を泳がせる。


「あの、えっと」

「で、俺たちを呼び出して、一体何の用事だよ? 仕事の報告はもうしただろ」

 タイクウの後ろから、ヒダカが自分の兄を見上げて眉をしかめる。弟の問いに、時雨の瞳はいつもの冷静さを取り戻した。

「ブラウに、お前たちの検査結果のレポートをもらってきた。再検査などの項目はないそうだが、念のため変わったところがないか目を通しておけ」

「再検査がねぇなら、別に今度でもいいんじゃねぇのかよ」

 不満そうに口を尖らせながらも、ヒダカは時雨から大きな封筒を受け取った。わざわざデータではなく紙で用意してくれたのは、彩雲でも確認できるようにとの配慮だろうか。


「ありがとうございます。時雨さん」

 タイクウが軽く頭を下げると、顔を上げた途端に時雨と目が合った。彼は静かにタイクウに視線を注いでいる。居心地の悪さを感じて、タイクウは愛想笑いを浮かべた。

「あの、時雨さん。僕に何かあるんですか?」

「――精神面は安定しているか?」

 思わぬ問いかけに、タイクウは面食らう。今まで時雨が、そんなことを尋ねてきたことはないからだ。時雨の表情はよくできた人形のように変化がなく、心配されているのかどうかが分かりづらい。

 それでもタイクウは時雨に、ふわっと柔らかい笑みを浮かべた。


「はい! 問題ありません!」

「はぁ!? ちょっとしたことですぐ後悔したり落ち込んだりするくせに、よく問題ねぇとか言えたな!?」

「だってヒダカ、それは『いつものこと』でしょ? だから、『問題ない』で間違いないよ」

「ネガティブな状況を『いつものこと』にするんじゃねぇ!」

「――問題ないなら構わない。引き続き、よろしく頼む」


 タイクウとヒダカのやりとりなど気にした様子もなく、時雨は淡々と告げて立ち去っていく。

 なんだ、アイツ。という、ヒダカの苛立ち混じりの呟きを聞きながら、タイクウは時雨の背中を見つめた。

 なんとなくだが、彼の「よろしく頼む」は運び屋の仕事のことではなく、隣に立つ相棒のことではないかと思ったのである。

 相変わらず、不器用な兄弟だなぁと、タイクウは鼻から長く息を吐く。


「あ、そうそう。ねぇ、ヒダカ!」

 ふと思い立ったタイクウはヒダカに顔を近づけ、彼の耳元に嬉しそうに告げる。

「桜さんがヒダカのお義姉さんになる日が、いつか来るのかもしれないね」

「――止めろ。マジになりそうで怖ぇよ」

 ヒダカはゲンナリした様子で、額を押さえて項垂れた。





 真っ白い部屋の中で、マスクとゴーグルをつけた人々が闊歩する。部屋の中央には手術台のような台が置かれ、その上に鋼色をした何かが置かれていた。

 その部屋をガラスの外から眺めながら、ココ・ブラウは手元のモニターに表示された画像や数値を凝視していた。

「あれ、よく回収できましたね。とっくに鮫の餌にでもなっているかと思いました」

「ですね。わざわざ船を出して、根気よく探索してもらったかいがあります」

 隣の同僚に話しかけられ、ココはモニターから視線を逸らすことなく答える。


 手術台の上に置かれているのは、片腕が千切れ、所々穴の空いた翼を持つ、天空鬼スカイデーモンと呼ばれる異形の死体である。

 通常、ヒダカやタイクウたちが倒した異形は海に落下し、衝撃でバラバラになって海底に沈むか、鮫などの生物の餌になるかの二択だ。ここまで綺麗な状態で引き上げることができたのは初めてである。


「そう言えば、最近都市上空に迷い込む、いわゆる『はぐれ』の天空鬼もちょこちょこいるじゃないですか。アレ、生け捕りとかってできたりしないですかね? それが無理なら、なるべく綺麗な状態で打ち落としてもらうとか」

「それができたら苦労しません。都市に近づいてきた『はぐれ』は、防衛省が有無を言わさず排除です。例の光線砲レーザーほうで攻撃してますから、爪の先も残りませんし」

「安全重視ってことですね。じゃあ、やっぱり検体を手に入れるには、船で地道に探すしかないってことですか」

 同僚はそう言って、やれやれと肩をすくめた。

 事あるごとにタイクウの体を調べさせてもらってはいるが、やはりできることには限りがある。彼はまだ『ヒト』なのだから。



「そうそう、リーダー。突然各国の地質調査の報告書を取り寄せてましたけど、あれも何か今回の件と関係があるんですか? それに海底調査や国立天文台の記録、二十年ほど前からの主な重大事件や重大事故、犯罪の記録、自然災害の記録なんてものもありましたが、必要あります?」

「意外なところから意外な真実が見えてくることもあるでしょう? AIにも分析を頼んでますが、あなたたちにも協力していただきたいので、その時はよろしくお願いしますね」

 ココは淡々と告げると、モニターに映った天空鬼と人間のデータを見比べた。


 天空鬼スカイデーモンは人間が姿を変えた存在である。


 その説に、ココたちはある程度の確信を持っているが、現時点ではあくまで仮説でしかない。タイクウのように、実際に人間が天空鬼へと姿を変えているという事実がある。しかし、異形に襲われた人が全員天空鬼へと姿を変えたのかと言うと、恐らく違うのだろう。

 海底から引き上げられたのは、天空鬼の死骸のだ。それに。


「仮に、天空鬼が人が変化して生まれた存在なのだとしてです。最初の一匹――トリガーはどこからきたのでしょう」

 ココは物言わぬ異形を見つめ、アクアマリンのような瞳をすっと細くした。

 この異形はヒトなのだろうか。けれど天空鬼の脳は、人間のように「理性」の発達が見られない。元々人間だったのなら、どうして人間らしさを手放さなければならなかったのだろうか。

 そして、他にも天野大空あまのたいくうのように、変身しても理性を保っている人がいるなら、私の『希望』も――。


「リーダー! ボスが至急会いたいそうです。例の件と言えば分かるからと」

「はっ! すぐに行きます。あとは、任せてもよろしいですか?」

 幸い、部下は快く頷いてくれた。お礼を告げて、ココは自動ドアが開くのすらもどかしく思いながら、部屋を出て行く。

 松風時雨ボスの話とは、おそらくヒマラヤ山脈調査の件だろう。標高の高い山々が連なり、地に足をつけながら「空」へ近づける場所である。

 天空鬼が出現してからは登山者が天空鬼に襲われる危険性があるとのことで、十年前に総じて標高の高い山への立ち入りは禁止されていた。


 しかし、入山が禁じられる数ヶ月には、他国が映像記録用のドローンを飛ばしていただの、目的不明の調査団が派遣されていただのという、奇妙な噂が存在するのである。

 その調査結果や映像は、当然のように公表されていない。

「あそこに何かあるのかもしれません。それが分かれば」

 天空鬼の真実に一歩近づくことができるかもしれない。ココは後頭部に両手を伸ばし、緩んできたヘアゴムを縛り直した。

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