第20話 初恋の人
木製の扉を開けると、軽いベルの音が鳴り響く。桜の店はあと数十分で閉店のはずだが、橙色の明かりが灯る店内には、まだ客が数組残っていた。
タイクウたちは、定位置のようになっているカウンター席に視線を向けて、そこに先客がいることに気づく。
「あ、タイクウくん、ヒダカくん!」
先客、
ふとタイクウが視線を移動させると、笑みを浮かべている桜と目が合った。桜は別の客に呼ばれ、カウンターの内側からテーブル席の方へと向かっていく。
「百花さんも、来てたんですね? その、明日が出発の日なのに、準備とか大丈夫ですか?」
百花から一つ席を空け、タイクウはカウンター席に腰かける。ヒダカもタイクウの隣に腰を下ろした。
ちらりと見た百花の手元には、アイスコーヒーが置かれている。さすがに飲酒はしていないようだ。
「大丈夫! もう準備はバッチリ。寂しさや不安もあるけど、それより向こうで始まる新生活がとっても楽しみよ」
彼女は夢見るような表情で、アイスコーヒーのストローを指先で弄んでいる。
依頼を受けたタイクウたちは、事務所に移動して細かい注意事項などを百花へ伝えた。彼女の決意は固く、とにかく楽しみだと前向きな態度を崩さない。タイクウは、すごいなと思う反面、何故か彼女の様子に不安を覚えてしまう。
ヒダカも同じ気持ちだったのか、心なしか普段よりも強く「本当に後悔しないのか」と念を押していた。
「何度も言うが、地上はそんなにいいもんでもねぇぞ? 理想と現実の差に打ちのめされねぇようにな」
「ふふ、心配してくれてありがとう、ヒダカくん。でも、大丈夫よ」
「あらあら、すごい自信ね。――それはさておき、そろそろラストオーダーですよ、お客様」
振り返ると、桜が悪戯っぽく微笑んでいた。いつの間にか、他の客は全員帰ってしまったようだ。
ゆったりとしたクラシック音楽が、店内を温かく満たしている。
「あ、僕、またお水だけで良いよ。ちゃんとご飯は食べてきたから」
「俺は水となんか肉料理」
「はい、かしこまりました。で、百花、アイスコーヒーのおかわりは?」
「もう一杯もらおうかな。桜のお店のコーヒー、しっかり味わっておきたいなって」
少し寂しげな表情をして、百花は目を伏せる。
そして、何かを決意するかのような眼差しで、カウンターの椅子に座ったまま桜の顔を見上げた。
「ねぇ、桜。あなたは
「え? どうして突然そんなこと」
「だって、その――いるんでしょう? 初恋の人が向こうに」
グッと何かが詰まったような音を立てたのは、ヒダカだった。激しく咳き込み始めた相棒の背中を、タイクウは慌てて擦ってやる。
桜は不自然なほど静かに、微笑を浮かべたまま百花の顔を見つめていた。
「彩雲が閉鎖されてから、もう十年以上も会ってないんでしょう? しかも、今まで一度も連絡をとったことがないって聞いたわ。せめて、その人との通話だけでも申請してみたら? 案外、繋がるかもしれないじゃない」
「あの人は、私のことなんて覚えてないわよ。子どもの頃にたった数回しか会ったことのない、ただの顔見知りだもの」
「そんな……まだ決めつけるのは早いわ!」
百花はやけに必死に食い下がっている。桜は困ったように眉を下げて笑うだけだ。
地上にいる、数回しか会ったことのない桜の初恋の人。もしかしてという予感と共に、ある人物の顔がタイクウの頭をよぎる。思わずヒダカと顔を見合わせて頷くと、タイクウたちは桜と百花のやり取りを固唾をのんで見守った。
百花が頬を少し染め、嬉しそうに微笑む。
「私ね、タイクウくんたちに依頼する前、久しぶりに彼氏と話をしたの。十年ぶりくらいだったけど、私のこと忘れてなんかなかったし、彼も全然変わってなくて嬉しかったわ。話せただけでも幸せだって思おうとしたけど――会いたいって気持ちが募ってしまったわ」
百花は寂しそうに目を細める。想い人を思い浮かべているのか、焦がれるような眼差しで天井を見上げていた。
「向こうに行ったらね、私、彼が勤めている企業でデザイナーとして働きたいの。彼ね、有名なアパレルメーカーで働いてるのよ。この前の通話で教えてもらったの! あ、もちろん、ちゃんと試験も面接も受けるわ。狭き門だろうけど、必死で頑張る。だって私の夢なんだもの! それで彼と一緒に働けたら、本当に幸せだわ……」
百花は少女のように可愛らしく頬を染め、笑みを浮かべた。
しかし暗い表情の桜に気づき、はっとして首をゆっくりと横に振る。
「そんな時に、思い出したの。桜が話してくれた初恋の人のこと。桜だって、その人に会いたいでしょう? 忘れられない人なんだって、言ってたじゃない。会えないままで、本当に良いの?」
桜は肯定も否定もせす、百花の言葉を聞いていた。いつの間にかBGMの止まった静かな店内で、百花の必死な声が響く。
なんだかタイクウの胸は、不安で酷くざわつき始めた。
「うん、そうよ。桜も私と一緒に地上へ行きましょうよ。大丈夫! 桜なら地上でお店を開いても喜ばれると思うわ。桜のコーヒーとっても美味しいんだもの。……お節介に思えたらごめんなさい。でも私、桜には絶対に後悔してほしくないの!」
百花の声がわんと店内に響く。息遣いすらも聞こえてきそうな静寂に、百花は表情を曇らせた。彼女は気まずげに目を泳がせ、固く口を閉じる。
沈黙を破ったのは、淡々とした桜の声だった。
「心配してくれるのは嬉しいわ。けど、私はずっと彩雲にいるって決めてるの。例え、最後の一人になってもね」
最後、という言葉に、タイクウは驚きで目を見開いた。桜の覚悟を、初めて聞いたのである。
「桜!? え……でも、ずっとここにいてどうするの?」
桜は顔を上げ、百花に笑いかけた。目が笑っていないというのだろうか。貼りつけたような、どこか心を閉ざしたような笑みだった。
「悪いけどこれは、おじいちゃんたちとの大切な約束なの。別に、この約束に縛られてるわけじゃない。私は私の意志で、
弾かれたように百花は顔を上げた。見る見る顔が青ざめて、彼女は震えた小さな声で謝罪の言葉を口にする。
「ごめんなさい。余計なことを言ってしまって。うん。桜の為って言いながら、本当は私、桜に地上まで着いてきてほしかったから、こんなことを言ってしまったのかもしれない。本当に、ごめんなさい。やっぱり、自分で思っているよりも、私は不安に思ってるのかもしれないわ」
「それは当たり前のことだと思うわ。直接は会えなくなってしまうけど、また連絡を取り合いましょう。あああ、そうね。知り合い特権で、タイクウたちに手紙や荷物を届けてもらうのも良いわね」
「払うもん払ってくれんならどーぞ」
ヒダカが投げやりのような呟きで、百花はようやく肩の力を抜いた。桜の表情もおおむね柔らかいものに戻っている。
タイクウも左胸に手を当て、こっそりと安堵の息を吐いた。
「その――私、明日に備えて今日は早めに休むわね。最後に桜のアイスコーヒーが飲めて良かった! 私と仲良くしてくれて、本当に本当にありがとう。じゃあ、ね」
「ええ。向こうで恋人とお幸せに。私はずっとずっと百花を応援してるわ」
桜の体をぎゅっと抱きしめると、百花は日の光のような明るい笑みを見せた。もう、いつもの彼女に戻ったように思える。
二杯分のアイスコーヒーの代金のテーブルに置くと、百花は片手を大きく振って店を出て行く。
彼女の表情は、これから訪れる新生活への希望に満ち溢れていた。
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