第13話 絵本

「ごめんね、麦茶しかなくて。こんなことなら、ジュースとかお菓子とか買っておけば良かった」

「いや、藍銅鉱ウチは子連れの客とか想定してねぇからな」

 ヒダカの突っ込みを受けながら、タイクウは少年の前に麦茶の入ったガラスコップを置く。応接セットのソファーに腰を下ろした少年は、すぐにコップに口をつけ、一気に半分くらいの麦茶を飲み干してしまった。よほど喉が乾いていたのだろうか。


「どう? 少しは落ち着いた?」

「ああ。えっと、突然連れていけとか生意気なこと言って、ごめんなさい」

 先ほどと打って変わって、少年はしおらしい態度で頭を下げる。ヒダカの睨みが効いたのだろうか。

 タイクウは、応接スペースと事務スペースを隔てるパーテーションへと視線をやる。少年を泣かせてしまったため、ヒダカは少年から少し距離を取ったそこで半分隠れるようにして突っ立っているのだ。


「それよりも、君、運び屋に依頼したいって言ってたよね?」

「あ、おれ辻村翼つじむらつばさって言うんだ」

「おっけー翼くん。僕はタイクウで、あっちはヒダカだよ。よろしくね」

 少年、翼の自己紹介に応えて、タイクウは自分と相棒の名を伝えた。

「地上に行きたいって言うけど、その……地上に行くにはとっても危険な方法をとらないといけなくて、そう簡単には行けないんだ。だから、君が地上に行きたいって思った理由を聞いてもいいかな?」


 少年の外見からして、彩雲で生まれて育った年代だろう。この子自身に地上への思い出はないはずなのに、何故行きたいと言い出したのだろうか。

 タイクウは威圧感を与えないよう、翼に向かってにっこりと微笑んで見せる。翼は少し肩の力を抜き、俯きがちに声を発した。

「だって、地上へは行くんだろ?」

 え、と思わずタイクウは聞き返す。すると翼は意志のこもった黒い瞳で、タイクウを見上げてきっぱりと言った。


「噂で聞いたぞ! 機械を食べる怪物のせいで飛行機は動いてないから、運び屋は飛んで地上に行くんだって!」

「『飛んで』って……」

「飛ぶちゃあ、飛ぶけどな」

 タイクウは苦笑を浮かべて、反射的に相棒へ視線を向けた。ヒダカは呆れた顔をして少年を見つめている。


「あのね。僕たちは飛ぶって言うか、んだよ。だから、鳥みたいに自由自在に空を飛べるわけじゃない。上から下への一方通行なんだよ」

「え? でも、二人はここに帰ってきてるじゃん」

 翼の鋭い指摘に、タイクウは一瞬言葉を詰まらせた。まさか、あの天空鬼スカイデーモンに変身して帰ってきているとは言えない。タイクウは表情を引き締め、翼を諭すように言った。


「それはその――企業秘密なんだ。少なくとも、翼くんが想像しているような楽しいやり方じゃないんだよ」

「えー、うん……そう、なのか」

 翼の表情が明らかに曇り、落ち込んだ様子で下を向く。もしかして、と思い、タイクウは翼に声をかけた。


「もしかして翼くんは、地上に行きたいって言うよりも空が飛びたかったのかな?」

「そ、そんなわけないだろ!」

「本当?」

 真っ直ぐ翼の目を見て、タイクウは微笑みながら尋ねる。少し間があって、翼の頬がりんごのように朱く染まった。

「いや、うん。実はその、ちょっとだけだけど、空を飛んでみたくて――」

 消え入りそうな声で言うと、翼は上目遣いでタイクウとヒダカを交互に眺める。そうして、何故か驚いたように目を見開いた。


「変だと思わないのか? 空を飛びたいって言っても」

「どうして? 別に変じゃないよ」

「学校の友だちが、こんな時代に空を飛ぶなんて変だって言うんだ。父さんも母さんも、おれが空を飛びたいって言ったら、すごく悲しそうな顔をするんだ。だから……」

 ああ、とタイクウは嘆くような息を吐いた。かつてヒダカと一緒に憧れた空は、もうそういう場所になってしまったのか。

 しかし、空を飛びたいと願うことは、両親すら悲しませてしまうようなことなのだろうか。


「おれの父さんと母さん、おれが生まれる前は彩雲の研究所にいたんだ。彩雲の浮力源でもある『反重力装置』について研究してたんだってさ。今は、彩雲の環境管理科で働いてるけど」

「え、そう、だったんだ」

 タイクウはヒダカに視線を向ける。ヒダカはどこか遠い目をして、翼を見つめていた。


 十年前の研究の時点で、彩雲の反重力装置は今の地球では存在しない物質で作られ、現在の人類よりも遥かに高度な技術が使われていることが分かっていた。

 空に大地を浮かべたのは一体誰なのか、また、それを今ある物質やシステムを使って再現できないのか。

 この研究が進めば物流や医療など様々な分野に役立てられるだけでなく、人が「翼」を手にして空を自由に飛ぶことも可能だと言われていたのだ。

 しかし、これからという時に天空鬼の襲来があり、地上からの資材やエネルギー、人員の供給が断たれてしまった。

 数年後、研究チームはやむを得ず解散したのだと噂で聞いたことがある。


「だから、父さんも母さんも空が好きなんだって思ってたんだ。それなのに、おれが友だちに見せてもらった絵本の話をして『おれも空を飛んでみたい』って言ったら、なんだかすごく悲しそうな顔をしたんだ。それで、何も言ってくれなかった」

「絵本って?」

「タイトルは覚えてないけど、男が天使にお願いして翼をもらって天空都市にいる女に会いに行くやつ」

「あ、その絵本って……『まもると天使』って絵本?」

 知ってるの、と翼は弾んだ声で身を乗り出した。説明が雑過ぎるが、内容からして恐らくあの絵本で間違いないだろう。

 昔、タイクウとヒダカが保育園に入ったばかりの頃に、よく読み聞かせてもらっていた絵本だ。


「僕も――僕たちも昔大好きだったんだ。ね? ヒダカ」

「はぁ⁉ ガキの頃の話だろ」

 大好きだったことは否定しない幼馴染に、タイクウは軽く吹き出した。

 同じ絵本を好きだったと分かったからだろうか。翼は瞳をキラキラと輝かせ、はしゃいだ声を上げた。


「兄ちゃんたちも好きなんだ⁉ おれ、絵本に出てくる空が本当にきれいだったから、空を飛んでみたいって思ったんだ。……笑わないか?」

「笑わないよぉ。だって、ヒダカも昔似たようなことを」

「ダァーッ! とにかく、俺たちはお前が想像していたみたいに飛べるわけじゃねぇ。重力には逆らえねぇし、途中で天空鬼にやられたら死ぬし、着地に失敗しても死ぬ。今の空は『飛んでみたいから』で飛べるような、楽しい場所じゃねぇんだよ、分かったら帰れ」


「ちょっとヒダカ、何も追い出すみたいにしなくても」

 タイクウが思わず腰を浮かすと、ヒダカの視線が鋭く突き刺さった。

「テメェ、分かってんだろ? 俺たちのやってることは命がけだぞ。夢だかなんだか知らねぇが、まさか本当にコイツを抱えて飛ぶつもりか? 第一、地上へコイツを運んだって、その後の生活はどうする? どうにもなんねぇだろうが」

「いや、それは、そうだけど」

「聞いただろ? ほら、さっさと家に帰れ! 消灯時間に間に合わなくなっても知らねぇぞ」

「あ、わぁ⁉」


 ヒダカは翼の両わきに手を突っ込んで、彼を軽々と持ち上げた。そのままクレーンゲームのように運ばれていく翼を見て、タイクウは慌てて立ち上がる。

「待って! 僕、翼くんを送っていくよ!」

 翼の体をヒダカから受け取って、タイクウは慎重に彼の体を床へと下ろす。

 ヒダカは軽くため息を吐いて、頭をかいた。


「付き合うのは程々にしとけよ。俺は昼飯メシを食ってるからな」

「分かった! ごゆっくり」

「おれの扱い、ぬいぐるみみたいでなんか嫌だ」

 翼の不満の声に苦笑を浮かべながら、タイクウは翼の手を引いて事務所の扉を開く。

 ヒダカは消灯時間に間に合わなくなるなどと言っていたが、ビルの隙間から見える空は真っ青で、夕やけの橙色に切り替わる様子はなかった。


「やっぱり、空を飛ぶなんて無理なんだ。ふんっ、最初から分かってたし、そんなこと」

 翼の不貞腐れたような呟きに、タイクウはその場で両膝を下り、翼と目線を合わせた。

「そんな寂しいこと言わないで。無理だって決めつけなくてもいいじゃない」

「でも、みんなが」

 翼の黒い瞳は、涙の膜が張って潤んでいる。労わるようにそっと、タイクウは翼の頭に手を乗せた。


「友だちのことは分からないけど、翼くんのお父さんとお母さんはきっと空が大好きだったんだと思うよ。でも『空』は変わってしまったから、それで――色々なことを諦めなきゃいけなくなっちゃったんじゃないかな。だから、翼くんが空を飛びたいって言った気持ちを、上手く受け止めてあげられなかったんだと思うよ」

「そうかな? 父さんも母さんも、空が好きかな?」

「うん。だって、君の名前は『翼』でしょう?」

 飛ぶために必要なものの名前を、わざわざ息子につけたくらいだ。少なからず翼の両親には、空への憧れがあったのではないだろうか。


「これからも、みんなの前で『空を飛びたい』って話はできないかもしれない。でも君の夢なんだから、君の自由だ。君が大切にしてあげたらいいんだよ」

 自由、とタイクウの言葉を繰り返し、ゆっくりと翼が瞬きをする。


「そうだ! 僕が今度地上へ行ったときに、翼くんにお土産を買ってきてあげるよ。地上になら、空に関するものも見つかると思うから、何か、翼くんの夢を応援できるようなものを買ってくるよ。だから、元気出して」

「え、良いの……⁉ え、なんだろう? おれ、すごい楽しみ!」

 途端、万歳をするように両腕を上げて翼が歓声を上げる。元気が出て良かったと、タイクウは思わず笑い声を漏らした。

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