第5話 地上へ

「ただいま」

 薄暗い事務所の扉を開けて、タイクウは中にいる相棒へ声をかける。扉を閉めてパーテーションの内側を覗き込むと、ヒダカは事務椅子に胡座をかいて座っていた。

 片手にハンドグリップを握りながら、ぼんやりと天井を見つめている。これはこれで、寛いでいるらしい。彼はタイクウの姿を一瞥すると、ぶっきらぼうに声を発した。


「メシは?」

「ん? 外で食べてきたよ」

 シンクを覗くと、食器カゴにまだ水滴のついた食器がふせられている。ヒダカはもう食事も片付けも終えたようだ。

「そうだ。さっき夕陽さんに会ったよ。彼、『飛べ飛べウササギくん』知っててさ! 懐かしい話ですっかり盛り上がっちゃったよ。嬉しかったなぁ、語れる人がいて」

「俺はいい加減にしてほしいけどな。テメェの机の上で増殖しまくってる謎の生物が、鬱陶しくて仕方がねぇ。つーか、だんだん俺の机の方まで浸食してきてんじゃねぇか⁉ 一丁前にバリケード越えてきてんじゃねぇよ!」

「あ、ごめんごめん。ちょっと数が増えてきちゃって」

 謝りながらタイクウは、書類をまとめたファイルボックスの上に置かれたをひょいと持ち上げた。


 ヒダカの机と向かい合わせに置かれているのが、タイクウの事務机である。そこには、羽とくちばしの生えたウサギの人形フィギュアがズラリと整列していた。腹ばいになって両手足を伸ばしているもの、膝を抱えたもの、片手を上げたものなど謎のウサギらしき生物の格好は様々である。

 中でも風船を持っている人形フィギュアは、片手で数えきれない数になっていた。


「あはは、案外上手くそろわないものだよねー。もっとしっかり吟味してから買えば良かったのかなー?」

「知るか、ンなこと!」

 吐き捨てるように言ったヒダカに、タイクウは思い出したように告げた。

「そうそう。近々、仕事になるよ。準備しておかないとね」

「――そうか」

 それで察したのか、ヒダカは好戦的に犬歯を見せつけるように笑う。そんな彼を少し寂しげな笑みで見つめて、タイクウは彼の名を呼んだ。


「ねぇ、ヒダカ」

 ヒダカから視線を逸らして、自嘲気味に笑う。

「後悔しないって、本当に難しいね」

「まぁな」

 ヒダカの声は珍しく、どこか柔らかい響きをしていた。





 天候を加味し、様々な準備期間を経て、タイクウたちは航空機の元滑走路へとやってきた。かつてエスカレーターだった長い階段を下りた先に、そこはある。ここから地上へ飛び降りるのである。

 バリアに覆われた内側は風もなく、冷たいはずの外気も感じない。ただ天色あまいろの空が広がっている光景を眺めていると、まるで絵画の中に佇んでいるようだった。


「はー、すごいですねぇ。昔、彩雲に来たときは、飛行機から直接搭乗橋を通りましたし、こんな風に滑走路を歩いたのは初めてです」

 夕陽が、少しだけ恐怖を滲ませた感嘆の声を上げた。登場橋はとっくに機能しなくなっているし、元滑走路は現在安全のために立ち入りが禁止されている。夕陽が訪れたことがないというのも当然だ。


「最後にもう一度聞くが――後悔しないな?」

 投影でない空に圧倒されている夕陽に、ヒダカが静かに声をかける。彼の黒檀色こくたんいろの両目がじっと夕陽を見つめていた。

 タイクウから夕陽の表情は見えない。身長差のおかげで、その旋毛つむじが見えるだけだ。タイクウは夕陽をタンデムジャンプで地上へと運ぶため、彼の背中にくっついている状態である。

 一瞬だけ間が空いて、思いのほか、力強い一言が夕陽の口から発せられた。


「はい。僕は地上に降りる決断をしたことを、絶対に後悔なんてしません」

「上出来」

 ヒダカが尖った犬歯を見せつけるようにニヤリと笑った。夕陽はもう覚悟を決めてきている。タイクウも思わず顔を綻ばせた。

「んじゃ、覚悟も決まってるようだし、準備するか」

 ヒダカは片腕をぐるりと回した後で、ヘルメットを手に取った。タイクウもヘルメットを着用する。そしていつものように、自身の髪の毛を髪ゴムでくるりとまとめていく。

 ふと視線を下げると、首を捻ってこちらを見上げている夕陽が視界に入った。


「気になる?」

 夕陽が見ていたのは、自分の髪の毛だろう。そう思ってタイクウは、自分の髪の毛をつかんで軽く振ってみせた。

「あ、ああすみません。その、長く伸ばされてるんだなと」

「うん、一応願掛けっていうか、お願い事があってね。その為に伸ばしてるんだ」

「願掛けって――」

『おい、テメェら』

 ヒダカの声がタイクウたちの会話を遮る。彼の声は、ヘルメット越しでも不思議とよく通った。


『無駄話はこれくらいにしろ。飛び降りたら、奴らの領域まであっという間だ。一瞬の判断ミスが命取りになる。気合入れろよ』

「うん、大丈夫だよ」

 適度な雑談はリラックス効果もあるが、気が緩み過ぎてもいけない。タイクウは唇を引き結ぶと力強く頷いた。


 絶対に、夕陽を守って彼を地上へ連れて行く。彼の家族の想いごと、全部。

 ヒダカはタイクウたちの様子を確認すると、青空へ視線を戻す。一歩大きく踏み出して、その隣にタイクウたちは並んだ。

「じゃあ、行こうか」

 タイクウの声を合図に、三人は大きく地を蹴った。

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