本編

 事務所のドアを開けると、そこには普段の清潔感のある紺のスーツ姿とは裏腹に、表情を曇らせた健一の姿があった。


「どうしたんだ?」


 悠一郎が尋ねると、健一は深いため息をつきながら答えた。


「実はな...会社の冷蔵庫から、俺のプリンが消えたんだ」


 一瞬、悠一郎は聞き間違いかと思った。しかし健一の真剣な表情は、この「プリン消失事件」が決して些細な出来事ではないことを物語っていた。


「単なるプリンじゃないんだ」健一は続けた。「昨日、母が入院する前に買ってきてくれたものなんだ。最後に会社に来てくれて...」


 言葉を詰まらせる健一の様子に、悠一郎は事件の重みを直感的に理解した。


◇◇◇


 オフィス内を観察しながら、悠一郎は他のスタッフについて健一から説明を受けた。


 まず、開発チームリーダーの小田雅也。端正な顔立ちながら、疲れた目つきが印象的な30代後半の男性。


 デスクの引き出しには常に菓子類が詰まっているという噂の持ち主だ。今日も机の上には、コンビニで買ったと思われるカステラの包装が残されていた。


「実は小田さん、昨日から体調を崩してて。今日は早退する予定なんです」と健一。


 次に、新入社員の佐藤真理子。23歳。黒縁メガネをかけた真面目そうな女性で、入社以来、休日返上で働いているという。


 デスクの上には複数の空のエナジードリンクが並んでいた。


「昨夜も遅くまで残業してたらしくて。朝、紅茶を飲みながらぼんやりしてたのを見かけました」


 そして営業部長の山田隆二。50代前半で、厳格な性格で知られる。


 普段から「オフィスでの飲食は控えめにするように」と部下たちに言い聞かせているという。


 しかし、悠一郎は山田のデスクの隅に置かれた高級そうなコーヒーメーカーに目を留めた。


◇◇◇


「プリンはいつ消えたんだ?」悠一郎が尋ねる。


「昨日の夕方5時には確かにあった。今朝9時に確認したら、なくなってた」


 共用の冷蔵庫を開けながら、悠一郎は内部を詳しく調べ始めた。


 すると、奥の方から一枚のレシートを発見。日付は昨日で、確かにプリンの文字が記されている。


 しかし、そこには別の商品も。


「健一、このレシート...プリンの他に"シュークリーム"も買ってたのか?」


「ああ、確かに一緒に買ってきてくれたよ。でも、シュークリームは、母が持っていったんだ。母は生クリームが大好きでね。プリンも特に牛乳をたっぷり使った濃厚なカスタードプリンが好みなんだ。だから、同じものを私にもって...」


 健一は言葉を詰まらせた。母の入院前の最後の贈り物。それは彼女の大好物と同じ牛乳たっぷりのプリンだったのだ。


 悠一郎は黙ってレシートの裏面を確認した。そこには、かすかに指紋らしき跡が残されていた。


◇◇◇


 悠一郎は冷蔵庫の周辺を一通り調べ終えると、各スタッフへの聞き込みを始めることにした。


 最初に話を聞いたのは開発リーダーの小田雅也。疲れた目つきで応対する彼の机上には、カステラの包み紙が残されていた。


「昨夜はどれくらいまで残っていましたか?」


「ああ、確か夜12時過ぎまで...」小田は胃を押さえながら答えた。

「システムの不具合が出て、対応に追われていたんです」


「冷蔵庫は使いましたか?」


「水を取りに行っただけです。それと...」小田は言葉を濁す。

「実は夜中に具合が悪くなって。今日は早退させてもらおうと思っていたところです」


 次は、新人の佐藤真理子。彼女のデスクには空のエナジードリンクの缶が複数並んでいた。


「佐藤さんは昨夜、何時まで?」


「私ですか?」紅茶を啜りながら佐藤は答える。


「午前1時くらいまでいました。新人なので、まだ仕事が遅くて...」


「その間、誰か見かけましたか?」


「そうですね...」佐藤は思い出すように目を細める。


「小田さんが夜11時過ぎに帰られるのは見ました。あと、山田部長が同じ頃、コーヒーを入れに来られたかな」


 最後は山田隆二部長。高級コーヒーメーカーの前で、優雅にコーヒーを淹れる姿が印象的だ。


「昨夜は遅くまでいらしたそうですね」


「ああ」山田は香り高いコーヒーを一口飲んで答えた。


「重要な商談の資料作りでね。プリン?私は甘いものは口にしない主義だ。ただ...」


「ただ?」


「昨夜、誰かが冷蔵庫を開ける音を聞いた気がする。時刻は...そうだな、夜11時半頃かな。そういえば、小田君が最近、社員食堂のデザートも遠慮がちだったな。乳製品が苦手とか言ってたような...」


 悠一郎は小田のデスクに視線を戻した。


 引き出しからはみ出た薬の容器。よく見ると「乳糖分解酵素」という文字が記されている。


 そして机の上のカステラの包み紙。甘いものは好きなのに、なぜか乳製品だけは避けている様子。


 全ての証言と痕跡が、少しずつ真相へと繋がっていく。悠一郎はメモ帳に時系列を書き込みながら、静かに考えを巡らせた。


 各証言には微妙なズレがある。そして、誰もがそれぞれの理由で昨夜遅くまでオフィスに残っていた。


 ◇◇◇


 午後5時、全員を会議室に集めた。早退していた小田も呼び戻された。小田は青白い顔で席に着く。


「皆さんにお聞きしたいことがあります」悠一郎は切り出した。


「昨日から今朝にかけて、冷蔵庫を使用された方は?」


 全員が手を挙げる。


「山田部長は珈琲を...佐藤さんは紅茶を...小田さんは?」


「水を取りに」

 小田は弱々しく答えた。


 悠一郎はゆっくりと立ち上がり、話を続けた。


「このプリンには、実は特別な意味がありました」


 悠一郎は健一の方を見た。健一は黙って頷く。


「健一の母親が入院前に買ってきてくれた、最後の贈り物だったんです」


 会議室に重い空気が流れる。


「そして、犯人は...」


 悠一郎は一呼吸置いて、ゆっくりと振り返った。


 ◇◇◇


「犯人は、小田さんです」


 会議室が静まり返る。小田の顔が更に青ざめた。


「どういうことだ?」山田部長が身を乗り出す。


「説明しましょう」悠一郎は静かに語り始めた。


「まず、冷蔵庫の取っ手に付いていた砂糖粉。これは小田さんの机の引き出しにあったカステラのものです。次に、レシートの裏面の指紋。これは深夜、誰もいない時間に触れたものでしょう」


 小田が両手で顔を覆う。


「しかし決定的だったのは、胃の不調です。小田さん、あなたは乳糖不耐症ですよね?」


 全員の視線が小田に集中する。


「...どうして分かったんだ?」小田の声が震える。


「デスクの引き出しに乳糖分解酵素のサプリメントが入っていました。しかし昨夜は、それを飲むのを忘れていた。深夜まで仕事をして疲れ、甘いものが欲しくなった。冷蔵庫を開けると、プリンがあった」


「待ってください」佐藤が口を挟む。


「私も昨夜残業していましたが、小田さんの姿は...」


「あなたが席を外している間です。防犯カメラの映像を確認させてもらいました」


 小田は肩を落とし、ゆっくりと顔を上げた。


「申し訳ない...」

 涙ぐむ小田。


「夜中まで仕事して、どうしても甘いものが欲しくて...誰のものか確認せずに食べてしまった。そしたら今朝から胃が...」


 健一は深いため息をつき、小田の肩に手を置いた。


「分かったよ。母のこと、話してなかったしな」

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