第23話 蟷螂之斧
黄金栄主催の宴、客も使用人の数も段違いだ。雅文を含む給仕の少年少女たちは、ひっきりなしに食事や飲み物を運んで宴の中を練り歩き、暇を見つけてはつまみ食いをして腹を満たしていた。
銀盆に新たなシャンパングラスを乗せながら、雅文は笑いをかみ殺していた。
さっきのベネディクトの顔といったら! あんなに驚いた顔を見るのは初めてだし、痛快だった。
(いっつも余裕の顔しちゃってるもの。まさか女の人になってるとは思わなかったけど)
意識しなくても、自然と視線が彼に引き寄せられた。会場は花柳界や芸能界の美女が集まって妍を競う中、一際目立っていたのが男性のベネディクトだというのは皮肉な話だ。
もしベネディクトが本当に女だったら、国の一つや二つどころか十くらいは傾けているに違いない。
(それに比べると……あたしって、馴染み過ぎよね)
ここに来てからは努めて男らしく振る舞っていた。さらしを巻いて胸を潰す念の入れようだったが、もとより女らしいめりはりに欠けていた雅文は、少年でも十分通用していた。
この際ありがたいのだが、ベネディクトの完璧さを見た後では、いささか自分の性別に自信をなくしてしまう。
「――君、女の子?」
ため息を吐いた瞬間、腕を取られて、雅文は危うく盆を取り落としそうになった。
「ちょっと! 何すんだよ!」
「いいじゃん、少しだけ。な?」
腕を取った相手は雅文より少し年下らしい少年だった。雅文の抗議もむなしく、ぐいぐいと引っ張られて、人気のない方へと連れて行かれる。
少年の身体にぴたりと添う黒の長旗袍には、深い切れ込みが入っていて、歩く度に素足が露わになる。踵から見える足首の骨は太く、妙に男らしい。すんなりとした甲先を黒いエナメル革が覆い、艶やかな光沢を見せつける。歩きにくそうな華奢なヒールを物ともせずに、少年は颯爽と人波を割った。
やがて明かりの落ちた廊下に至り、先々で絡み合う男女の痴態が繰り広げられ、激しい喘ぎ声が混じり合う。
雅文は思わず赤面したが、少年の方はつまらなそうに「はいはい、お邪魔しますよ」と声をかけながら、ある部屋のドアを押し開けた。
中は備品置き場なのか、酒の荷箱が積み上がっていた。
少年が雅文の持っていた銀盆からグラスを取り上げ、高価なシャンパンを水のように空けていく。彼は雅文にもグラスを差し出した。
「飲む?」
「要らない」
「あっそ」
じゃあありがたく、とあっという間に全部空けてしまった。唖然とする雅文に、少年がおもむろに「いくら?」と尋ねる。
「……?」
意味がわからず首を傾げる雅文に、少年が舌打ちする。
「一回いくらかって訊いてんだよ」
その台詞でようやく意味を察した雅文は憤然とする。
「おあいにくさま。あんたみたいなのを相手にするほど、落ちぶれちゃいない!」
「ああ、やっぱり。堅気なんだ」
少年は淡々と呟くと、適当な荷箱の上であぐらをかいた。薄暗いなかでもはっきりと分かる、滑らかな内太腿が露わになる。大胆な仕草にぎょっとしたが、目を逸らせなかった。どこからともなく葉巻とライターを引っ張りだし、火をつけた。
「君は、相当モテそうだね」
「金持ちの顧客がごろごろいる」
葉巻を吹かした少年は事もなげに答える。荒んでいてもどこか肌艶が良い。かなりの稼ぎがあるようだ。
「今日は見慣れない連中が多いよな。給仕もそうだけど、客も」
内心どきりとする。香幇員が紛れ込んでいることに勘づかれたのだろうか、この少年は何者だろうか――動揺を出さぬよう、雅文は慎重に口を開く。
「君は……いつも黄金栄のパーティにいるの?」
「『黄大亨』ね。呼び方には気をつけたほうがいいよ、
少年は葉巻を弄びながら、にやりと笑う。雅文は焦ったが、少年はあまり気にした風もなく続ける。
「いつもいるわけじゃねえけど、客の顔ぶれはともかく質は一緒だしな。今日はちょっと違う感じがする」
少年の発言は抽象的だったが、言わんとすることは何となくわかった。
「なあ。あんたらもしかして軍かなんか? 黄を捕まえに来たの?」
「そんなわけないでしょ。君は『黄大亨』にいなくなって欲しいの?」
雅文が揶揄すると、少年は軽く吹き出して、あぐらの片方に肘をついて続けた。
「最初に上海に来た時、俺は十歳でさ、その日のうちに客を取ったんだよな。もう五年も前の話なんだけど」
突然の身の上話に、雅文は身構える。自身の悲惨な体験を話すことで同情を引き出すのは、よくある手だ。
「初めての相手が児童福祉の慈善家で有名な富豪だったんだぜ? 笑える」
「へえ。それでそのう……怖かった?」
なんとなく話の接ぎ穂に合いの手を入れてみる。
「全然。むしろ逆」
性的に求められることにはそんなに抵抗はなかった、と少年はあっけらかんと笑う。
「ほら俺、綺麗じゃん? お陰で客が切れたことはなかったし、しかも金離れのいいやつばっかり。我ながら強運だぜ。美味いもんも食ったし、いい服も着たし、綺麗なお姉さんにも事欠かないし。観劇も賭博もどれだけやったか」
ふうーっと長めに煙を吐く。過去を振り返る少年は同じ年頃なのに、場末の寂れた酒場の女亭主みたいで、その若々しく張りのある紅顔に見合わない強い憂いがあった。
「でもさ、なんか飽きた」
少年はぽいっとハイヒールを脱ぎ捨てる。足先だけ色が違っていて、たぶんそれが彼の本来の肌の色なのだろう、少し浅黒かった。
「ってなわけで、刺激に飢えてんのよ、俺」
少年が真剣な眼差しで雅文を見つめる。
「もし、あんたたちが何かしでかそうとしてるならさ、派手にぶっ壊して、
「……君は、この街が嫌いなの?」
「はあ?」
少年は顔を顰め、心底雅文を馬鹿にするように睨めつけた。
「大好きに決まってんじゃん。ここより楽しいとこなんて、地上のどこにもねえよ」
少年が小さくなった葉巻から二本目の葉巻に火を移す。新しい煙草を咥えながら、一本目を念入りにすり潰す。
少年の仕草や態度は傲慢さに満ち、恐れなどない。彼の背後に刹那的で享楽的な生活があることは、雅文にも容易に想像がついた。
ただ、彼の煙草を消す様だけは、妙に繊細で丁寧だった。夜明けの薄明の中で、ひっそりと行われる神聖な儀式のように。
その瞬間、乾いた銃声が響く。少年は儀式の邪魔をする無粋な嬌声に舌打ちし、小さく毒づいた。
――もう侵入したのがばれた?
雅文は素早く扉に身を寄せ、そっと開いて外の様子を伺う。慌てふためいたように建物の外を目指す人々の背を眺める。まだ敵の手はこちらまで及んでいないようだが、時間の問題だ。
愛用の棍は小慈から受け取る手筈にはなっているが、場所は厨房の裏手だ。何か武器はないかと辺りを見回す雅文に、少年が声をかける。
振り向いた雅文が、少年の投げ渡したものを受け取る。小さいけれどずっしりと重く冷たい金属の感触。銃だ。
「それやるよ」
少年が面白そうに告げる。雅文は礼を述べて、短銃を懐に忍ばせた。射撃の腕に自信はないが、牽制には使えるだろう。
「逃げるなら裏口を使えよ」
「ご親切にどうも。君も巻き込まれないうちに逃げたほうがいい」
雅文がそっと部屋の外をうかがうと、再び銃声が聞こえ、悲鳴が上がった。銃声の出所はよくわからない。
(金蓮を探さなきゃいけないってのに……!)
まだ目星すらついていないのに、面倒なことになった。思考を巡らせる雅文の背後で、ばりんと派手な音がした。
少年がシャンパンボトルの口側を握りしめ、まだ中身の残っているそれをためらいなく床で叩き割ったのだ。酒精の香りがつんと鼻をつく。
「……まさか、君、着いてくるつもり!?」
「うん。こっちのほうが面白そうだから。あと俺の名前は
即席で誂えた獲物を手にした少年は、全く悪びれた様子もなく言い放つ。
「もうっ、どうなっても知らないからね!」
「はいはーい」
李仁少年の軽薄な返事に、怒る気力すら奪われてしまう。途中で適当に撒いてしまおうか。
雅文が少年と共にホールへと向かって走り出したその矢先、顔を布で覆った男たちが立ちふさがり、二人に銃口を向けた。
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