第22話 螻蛄之穴
金蓮が
後日、ベネディクトの執事マクラーレンがやってきて、野分から預かった封書を置いていった。
そこには
完全にこちらの失態なのに責める気配がないことに、かえって雅文は気が塞いでしまった。
(あれだけ大口叩いといて、何もできなかったな……)
昼営業を終えた雅文はひとり卓に肘をつき、中庭をぼんやりと眺める。少し前、金蓮を抱えてあそこを駆け抜けたのが嘘みたいだ。
女給の数も減った。徐陶鈞一行に嫌気が差した者、青幇に関わることを恐れた者、
残っている女給たちにしても、今ひとつぴりっとしない。彼女たちをときめかしていた
「雅文、いつまで萎れてんだ?」
階下に降りてきた
「だって……打つ手ないし……」
「おいおい、諦めてんのか? 花仙姑(かせんこ)には引き下がる気はねえぞ」
一度守ると決めた金蓮が奪われただけでなく、仲間が傷つけられたことに
香幇と青幇は表立って争ったことはない。青幇にとって香幇が脅威ではなかっただけだが、ここまで踏みにじられたことはない。
「でも、香幇は法租界から追い出されたんでしょ」
「
「それができるのって小慈だけじゃない」
雅文は唇を尖らせる。
「それに出入りできるだけじゃ、黄金栄に近づけないよ……」
雅文の声が尻すぼみになって、雲雕の表情が曇る。
「いつもの威勢はどこに行ったんだ。しゃんとしろ」
「これだけ失敗続きじゃ落ち込むに決まってるでしょ」
「全く、世話が焼けるな。行くぞ」
雲雕に腕を引っ張られ、雅文は首を傾げる。
「行くって、どこに?」
「劉大人の隠れ家だ」
雲雕はにっと笑うと雅文を促し、金華茶楼を出た。
適当な力車を捕まえて
違法な
壁に背を預けていた女が、道行く雲雕と雅文に胡乱な目線を向けてくるのがわかったが、あえて目を合わさないよう無視した。その瞬間、足を取られた雅文は、思わず悲鳴を上げて雲雕に縋りついた。
足元にはぐったりと座り込んだ男が、ぼろきれのように横たわっていた。雅文がぶつかったことにも気づいていない様子で、力なく空を見つめている。
「悪いな、邪魔しちまって」
雲雕が男の身体を起こし、座らせたが、何の反応もない。雅文も申し訳程度に頭を下げ、慌てて雲雕の後に続いた。
「何で劉大人はこんなところにいるの?」
彼ほどの人物ならば、共同租界の
「隠れ家だって言っただろ。万が一のときのために用意しといたんだとよ」
雲雕が古い石庫門の前で立ち止まる。入り口の扉を抜け、細い路地を辿ると庭に出た。手入れをする人間がいないのか、雑草は伸び放題で、錆びた手桶や壊れた自転車が放置されていた。見上げるとそこかしこに洗濯物を吊すための縄が張られているが、使われている様子はなかった。
中に入って階段を上がる。足を乗せるたびにぎしぎしと音を立てるので、割れてしまうのではないかと気が気でなかった。
とある房室の前で、雲雕が扉を三度叩く。
「
そう声をかけると、扉の向こうからも三度音が返ってくる。
「
雲雕がゆっくり扉を開くと、劉大人の柔和な顔が現れ、二人を招き入れた。
「このようなあばら屋までご足労おかけして申し訳ない」
劉大人は詫びたが、外の荒廃ぶりからは想像もつかないほどこざっぱりとしている。二間に分かれた房室には、使い込まれた調度と行李が一つ。物がなければ少し寂しく感じる程度には広い。
「おれたちは構わねえよ。劉大人こそ、肩身の狭い思いをさせて悪いな」
「逃げることには慣れております」
劉大人はさらりとした口調で告げるが、花香琳の腹心であり、孫中山の逃亡にも手を貸した彼が、追跡の手を逃れるのは容易いことではなかっただろう。
「朱
「ありがとう。あたし、来ちゃってよかったのかな」
「もちろんですよ。茶楼で話すのはいささか憚られますし……」
劉大人に言われて初めて、金華茶楼に青幇の間諜がいる可能性に思い至った。直接送り込まなくても、女給たちが金華茶楼の内情を探る誰かに話してしまうことは大いにあり得る。
そういうことに少しも頭が回らなかったことに落ち込みそうになり、雅文は勢いよく頭を振った。後悔したって意味はない。
「実は
「ほんとに!?」
大声を上げてしまった雅文は慌てて口を塞いだ。
「ええ。どうも
劉大人の台詞の後を、雲雕が引き継いだ。
「今、青幇で頭角を現しているのは杜月笙だ。黄金栄もとうとう引退を考えて、黄家の廟堂を庭園にする計画を立てると同時に、愛人に新しい屋敷を買い与えた。この二つの庭に植える花木を選んでるって話だ」
その相談のために、造園業者が頻繁に黄金栄のもとを訪ねるようになった。
黄金栄は、廟堂には桂生夫人の名にちなんで金木犀を、愛人の屋敷には彼女の希望で山梔を植えることにし、業者に実際の株を見たいと言って、持ってこさせることも度々であったという。
「株を取っ替え引っ替えするのに乗じて、持ち込まれた荷があった。その業者を調べてみたら、この仕事の後、急に店を閉めていなくなっちまった。主人も従業員も行方不明だ」
雅文は顔をしかめた。あからさまな口封じだ。
「今度、山梔花園で端午節の宴を開く。ごく親しい友人、付き合いの深い知人だけを招くそうだ。その中には蒋同志もいる」
招待客は国民党役員の他、上海財界の著名人でその総数は三百人をくだらない。凋落したとはいえ、さすがは青幇の
「よくそんなことまで分かるわね……」
「これは花仙姑が探りを入れてくれたお陰だな。蒋同志は国民党から共産党員を追い出したくてたまらないらしい。清党に協力してくれとでも頼みに行くんじゃないか?」
「そんな大物ばかりが集まってるところに忍び込めるの?」
「ま、正面からは無理だろうな」
雅文の懸念を、雲雕はあっさりと肯定する。
「我々は舞台を作る方に回ります。こういう時のために、用意していた
おっとりとした口調で劉大人が告げる。彼が口にすると何気ないことのように聞こえるが大事だ。
曰く、日本人が経営している貿易会社で、日本のみならず欧州から食品・飲料を輸入し、ホテルや酒店などに卸している。近頃は小売も手がけており、
「上海にある日本人経営者の会社としては老舗です。黄金栄主催のパーティでも何度か酒食を提供したこともございます。その縁もあってか、今回も発注しておりますね」
「その中に香幇員を紛れ込ませるってことね」
雅文の相づちに、雲雕と劉大人が同時に頷く。
「その日本人経営者って、信用できるの?」
「朱
雅文の質問に、劉大人が珍しく回りくどい言い方で答える。数度瞬いてから、ようやく閃いた。
「まさか、劉大人が責任者なの?」
「ええ。花仙姑から任された公司のひとつです」
「――なあ、劉大人」
そこで意を決したように口を開いたのは雲雕だ。
「雲雕、何かあったのですか?」
劉大人に促されても、雲雕はなおも迷う素振りをみせる。雲雕のこうした煮え切らない態度は珍しい。迷った末、ようやく口を開いた。
「あんたを訪ねてきた日本人がいる。恩があるから礼がしたいと言ってたが、それは多分、口実だ」
「訪ねてきた人物というのはどなたですか」
「
雲雕がその名を口にした瞬間、劉大人は目を瞠る。彼がここまで動揺を露わにするのを、雅文は見たことがなかった。
「親友の……ご子息です。そうですか、私を訪ねに……」
「風生はあんたが医者だと言っていた。俺は、風生や劉大人が嘘をついていたとは思わない。でも本当のことは言っていない。違うか?」
「雲雕が疑うのも当然です。皆にはお話しておりませんでしたから。私が医者であったということも――日本人であるということも」
劉大人の告白に、雅文も雲雕も息を呑む。
「上海の町医者であった父は元藩士、こちらでいう士大夫でした。私もまた医者を志し、父の勧めもあって西洋医学を学ぶために日本へ渡りました。その頃知り合った親友が、野分殿のお父上です」
劉大人はふと窓に目をやった。曇ったガラス越しにあるのは向かいの里弄の壁だけだが、劉大人は真剣だった。その薄いガラスに、彼だけが見ることの出来る過去が映っているかのように。
「その親友ってのは、今どこに……?」
慎重に尋ねる雲雕に、劉大人は窓に顔を向けたまま淡く笑った。
「亡くなりましたよ」
さらりと砂をこぼすような口調だったが、劉大人の顔から感情が消えた。
「祖国を捨てた私のことを、花仙姑は受け入れてくださった。ですが未だに、父母や恩師の期待を裏切った後ろめたさが燻っている」
ふ、と小さく息を吐いてから、劉大人は雅文と雲雕に向き直る。
「野分殿が私を訪ねてきた理由に心当たりはあります。ですが、お二人に話すことはご容赦願いたい」
「――分かった」
雲雕がゆっくりと頷くと、劉大人がほっとしたように肩を落とした。
「ありがとう、雲雕。少しすっきりしました。隠しごとは得意ではありませんので」
「冗談。あんたほど腹芸の上手いお人を俺は知らねえよ。話、切っちまって悪かったな、続けてくれ」
「はい。その端午節の宴なのですが、仮装が義務づけられているようでございます」
愛人の提案を黄金栄が面白がって採用したらしい。髪型や衣裳が普段と違う人間が集まるのだから、その中に香幇員が混じっていたとしても目につきにくいだろう。
「だったら、あたしも行く」
間髪を容れず断言する雅文に、雲雕が大きくため息をつき、劉大人は苦笑する。
「ごめんなさい。足手まといなのは分かってるんだけど、じっとしてられなくて……」
また失敗してしまうかもしれないという恐怖はある。次は上手くやれるという自信もない。だからといって何もしないなんて、雅文には耐えられなかった。
「いいさ。雅文は少々羽目を外してるくらいでちょうどいい」
「どういう意味よ」
「俺は散々お前にしおらしくしろと言ってはいたが、実際しおれてる雅文は、らしくねえ」
唇を尖らせる雅文に、雲雕は飄々と嘯く。
「私も否やは申しません。朱小姐の心に従うのがよろしいかと」
「……なんだか、二人とも投げやりになってない?」
白い目をする雅文に、彼らは「まさか」「とんでもない」と否定したが、嘘臭く聞こえるのは気のせいだろうか。
「朱小姐のお力があれば助かります。ちょうど、給仕の手が足りず困っていたところです。朱小姐には手慣れたものでしょう?」
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