第21話 饗宴

 その日、山梔花園さんしかえんでは端午節(たんごせつ》の宴が開かれていた。


 フランス租界の華山路ファシャンルー沿いにある広大な屋敷は、黄金栄こうきんえいが愛人にねだられて買い取ったものた。屋敷のあらゆるところに彼女の好きな山梔くちなしを植えたという逸話が、そのまま屋敷の通称となっている。


 黄金栄は招待客にひとつの条件をつけてきた。曰く、出席者は自身の生国の民族衣装をまとうか、もしくは歴史上の人物に扮すること。


 ベネディクト曰く、欧州の上流階級ではこうした仮装舞踏会は珍しくないそうだが、任務の一環とはいえ、少々うんざりする。

 野分のわきは軍服のカラーの窮屈さに倦み、つい手をやってしまうが、それをベネディクト青年に窘められる。


「なるべく目立たないようにお願いします。といっても、この中で目立つのも骨が折れるでしょうが……」

 ベネディクトがシルクの扇子を片手に野分に囁く。わずかに首を傾げた拍子に、彼のつけた金の巻き毛が野分の肩に触れた。白粉を塗り、頬紅を差した青年の長い睫が、シャンデリアの下で悩ましげな陰影を作る。


 元の姿を知っている野分ですら、本物の女かと見紛う完璧な化けっぷりで、紅を塗った唇から零れるテノールに違和感すら覚える。首と胸元にたっぷりとレースを重ね、男性の特徴を覆い隠していては尚更である。


 腰の後ろが張り出した独特な形のドレスは、レースやリボンで飾り立てられ、ほとんど実用性のない小さな羽根帽子についた真珠とダイヤ、大粒のエメラルドがきらりと光る。


 野分もまた、ひと昔前の英国の軍服に身を包んでおり、緊張して固くなった野分の腕に、青年が手を添えている。実態を知らない者からすれば恋人たちの図に見えるだろう。

 野分はハリボテに見せかけた軍刀の柄に、つと手を伸ばす。今の野分にとってはこの感触だけが本物だった。


 緑のドレスの迫力美人と東洋人の軍人の組み合わせは、会場でも衆目を集めていた。

 背丈こそ足りないが西洋人に見劣りせぬ見事な体躯、短い髪を撫でつけた精悍な面立ちだけでも目を惹く。野分の生来の無骨さが、華々しくも軽薄な赤い軍服に重みを生み出していた。


 物珍しさも手伝って、ちらちらと野分に目線を向ける女も多かったが、悲しいかな、野分は女の放つ秋波には気付かなかった。宴の規模の大きさと派手さに戸惑い、浮き足立たぬようにするのが精一杯だった。


 生まれてこの方、パーティというものに参加したことがない。先日の華燭の典が精々で、こんなに大きな屋敷に三百名近くの招待客がいるなど、想像の埒外だ。


 母屋に備えつけられたダンスホールで流行のバンドが奏でるジャズに合わせて踊る男女を、シャンパングラス片手に眺めていたが、酒と香水と料理の香りが混ざり合い、あの橘の香をかぎ分けられる自信を失っていた。


 ――端午節に厄除けの粽や雄黄酒を振る舞うので、是非参加してほしい旨を記された招待状が、ベネディクトの手元に届いたのは五月初めのことだ。


「風流な話に聞こえますが、実体はらんちき騒ぎでしょうね」

 招待状を一読したベネディクトの評価は手厳しい。聖桀洋行せいけつようこう青幇チンパン同様、鴉片アヘン取引に熱心だ。商売敵ゆえかと思ったが、事情を聞くとどうも違うらしい。


 共同租界や南市を中心に、聖桀洋行名義の加療院を増やし、ほぼ無償で麻薬中毒者を受け入れ、治療を行っているという。薬物中毒の根本的な治療法はない。鴉片は禁断症状が強く、徐々に薬の量を減らすという対症療法しか取りようがなく、これには時間と根気が必要だ。


 そこで聖桀洋行は鴉片を専売制とし、中毒患者を専売者登録しているのだが、青幇はこれを利益の占有とみなして批難しているそうだ。

 ベネディクトは青幇との折衝に手を焼いているらしく、招待状をひらひらと振りながら、憂鬱そうなため息を吐いた。


「不本意ですが、滅多にない機会です。あなたにとっても都合がいいでしょう?」

 かくして、野分はベネディクトの従者として参加することになった。

 ベネディクトからこの格好をしろ、と、中世風の西洋の軍装を見た時には度肝を抜かれたが、この宴の中ではさほど奇異ではないと思い知らされた。


 ある女は島田に何本もの簪を挿し、金襴織りの打掛を羽織っているかと思えば、隣の男は逞しい身体をトーガで包み、金の腕輪を光らせて我が物顔でホールを歩む。その中を、深いスリットの入った旗袍を身につけ給仕の少年がすり抜ける。


 上海は狂乱の街とは聞いているが、実際に目にするのは初めてだった。こうした場所とは無縁の野分は、この状況に飲まれ気味だった。

 野分が深い息を吐く隣で、ベネディクトが扇子の下で苦笑する。


「ベネディクタ様、こちらにおいででしたか」

 涼しげな男の声が耳朶を打ち、野分はさっと身構えた。振り向けば、黒の道袍を着込んだ青年がいた。


 長髪を一つにまとめて黒い冠巾をかぶった姿は『三国志』の軍師を彷彿とさせた。彼は扇の代わりに剣を帯びていて、それが不思議なほど馴染んでいる。

 彼は長い両袖を持ち上げてベネディクトに一礼すると、さっと跪き、差し出された青年の手の甲に口づけを落とす。


 儀式を終えて顔を上げた男は、目を剥いている野分を見て、おや、と眉を跳ね上げた。

「驚かせてしまい申し訳ありません。これが女性に対する西洋式の挨拶なものですから」

「いや……」

 野分は軽く汗を拭いながら答える。確かに、彼の挨拶にも驚いたが、それよりも。


(気配がなかった……)

 幼少のころから剣に打ち込み、実際に戦場に立つ経験を踏んできた野分は、人の気を読むことにも慣れている。だが、この男が近づいたことにすら気付かなかった。目は細く、唇が薄い。墨で描いたような幽玄なこの男が仙人だと言われれば信じそうになる。


「そういえば、紹介していませんでしたね。彼は張天籟ちょうてんらい、当家の使用人です」

 あまりに大雑把な説明だと思ったのは野分だけではなかったようで、紹介された天籟本人が困ったように眉を下げた。


少爺しょうや、確かに私は使用人ですが……少し違うかと……」

「では、『密偵』?」

「いい加減なことをおっしゃる。風先生ふうせんせいが信じてしまいますよ」

「冗談は好きですが嘘は言いませんよ。それで何か変わったことは……」

 悠然と微笑んでいた美女の顔が、にわかに凍りつく。


「お客様、シャンパンはいかがです?」

 給仕の少女の声には聞き覚えがあった。この退廃的な宴で聞くにはあまりに健康的すぎる、明るくまっすぐな声。


「あまり、香燈会あたしたちを甘く見ないことね」

 ゆったりとした紅の漢服、丫頭あとうに白い李花を飾った童子姿の雅文は、にやりとその紅唇の端を持ち上げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る