第20話 李家の麗人

 プラタナス彩る霞飛路シァフェイルーを歩いて程なくして、絹の日傘を差して散策する貴婦人たちとすれ違った野分のわきは、いささか拍子抜けした。

 つい先日、この通りを嫦鬼チャングイが蹂躙し、遺体が転がっていたことが夢であったかのような平穏ぶりだった。


「ここじゃあ毎晩のようにパーティー三昧や。人間てのは案外図太いもんやでえ」

 呆気にとられる野分の横で常葉は呵々と笑う。彼の案内で、野分はとある人物の屋敷に向かっていた。


 常葉は普段の長袍ではなく、長着に羽織姿だ。山高帽にステッキを持ち、いかにも好事家のお大尽といった風情である。ぱっと見はわからないが、わずかに右足を引きずっている。日露戦争の時に足を悪くしたというからその名残だろうか。


 野分のほうはといえば、代わり映えのしないシャツにズボン、鳥打ち帽という軽装だ。はた目には隠居主人とその書生といった体である。


 フランス租界は要所要所に門を設け、昼夜を問わずインド人傭兵が張りついている。門を抜けるには租界内に住む人間の紹介状が必要で、西に行けば行くほど警戒が厳しく『支那人お断り』であることが多い。


 常葉は華界近くのしがない薬種商主人・葉健を名乗る一方、民間人でありながら軍とも繋がりのある上海の事情通だ。さぞかし大層な伝手があるのかと思いきや、袖の下を渡しただけであっさり通された。


 このほうが後腐れがないんや、とは常葉の弁だ。フランス租界は襲撃が少なく安全と謳われているが、警護の質については疑問が残った。


 やがて二人は武康路ウーカンンルー沿いの邸宅にたどり着いた。

 屋敷の全景を視界に入れようと仰け反る野分をよそに、常葉は悠然とノッカーを鳴らす。ほどなくして出てきたのは、糊の利いた白いリネンも眩しい燕尾服姿の老紳士だった。

 常葉は彼にサー・クロウリーとの対面を求めた。


「ようこそおいでくださいました。わたくしは執事のマクラーレンでございます。どうぞこちらへ」

 五十半ばほどだろうか。理知的な面差しの執事に先導されて、二人は応接間に通される。


 そこには既に、二十代前半くらいの青年が悠然とソファに腰かけていた。彼は野分と常葉の姿を見るなり立ち上がり、会釈をする。


 ゆるく癖のある金髪が青年の整った輪郭にかかり、つい、と撫でつける仕草すら優美に映る。女性的で柔和な曲線を描く瞼の奥、透き通るような翠玉のような瞳が覗く。上背は野分より二寸ほど高いが、痩身で物柔らかな雰囲気のせいか、あまり威圧感はない。


 洗練された物腰と穏やかな微笑みだけで、野分や常葉とは生きる階級が違うことが明らかだった。


「久しゅうございます、馬漢堂の常葉でございます」

 常葉は支那人のように拱手すると日本語で話しかけた。

「直にお目にかかるのは二年ぶりでしょうか。常葉殿はお変わりないようで何よりです」

 青年もまた流暢な日本語で返してきた。言葉を聞く限りでは、とても西洋人だと思えない。


「こちらがお話した仁保里におりの聟花です」

 平然と告げる常葉に野分は驚いたが、驚いたのは野分だけで、ベネディクトは軽く頷いただけだった。


「初めまして。ベネディクト・クロウリーと申します。堅苦しいのは苦手なので、ベニーと呼んで下さって結構です。こちらではリーで通しているので、そちらでも」

「飯田野分と申します」

「仁保里の蚕花と聟の噂は聞いたことがありますが、実在しているとは思いませんでした。以後、お見知りおきを」


 野分は差し出された手をおっかなびっくり握り返す。何か気の利いたことを言えればよかったのだが、間近で見るベネディクトの美貌に気圧され、名乗るのが精一杯だった。


「野分よ。この御仁を見た目通りに判断すると痛い目を見るぞ」

 常葉が意地悪くにやりと笑う。ベネディクトは否定せず、涼やかな顔で座るように勧めた。野分と常葉は並んでソファに腰を落とす。


 やがて銀のワゴンを押してやってきた従僕が、テーブルの上に紅茶やらケーキや軽食などを用意していく。


「ちょうどお茶の時間イレブンジズです。よろしければお召し上がりください」

 見慣れぬ物ばかりが並ぶ卓に当惑する野分とは対照的に、常葉は平然とサンドイッチをつまんで「旨いなあ」と舌鼓を打っている。

 遠く離れた場所にいても、生まれ故郷と同じ生活スタイルを維持できるとは恐れ入る。


虹口ホンキュウも似たようなものか……)

 日本の食品や衣料など、大抵の物は手に入る。同じ上海という土地にいながら、皆が皆別の国に住んでいるようだ。


「別に、毒は仕込んでいませんよ?」

 ベネディクトは朗らかな口調で物騒なことを言う。彼を疑ったわけではないが、黙り込むと怒っているように見えるらしい。自覚はあっても治せるものでもない。

「失敬。朝は済ませたものですから」

「こいつ、朝から飯を四合食いやがる。お陰でわしは食欲が失せる」

 常葉が二つ目のサンドイッチに手を伸ばしながら野分をからかう。野分は健啖家で、生家でもこの手の文句に事欠かない。


 今朝は日も昇る前から常葉の部下である崔良さいりょうに呼ばれ、馬漢堂に出向いたのだ。その際、朝餉を共にしたわけだが、勧められるのをいいことについ食べ過ぎた自覚はある。


「三合です。日本に無事に帰りましたら、礼に米を送ります」

「そういうことやない」

 野分は真剣に提案したつもりなのだが、常葉は苦い顔をした。ではどうすればいいのか、と眉を下げる野分を見て、ベネディクトが控えめに声を上げて笑った。


 ベネディクトは悠然と紅茶を口にしているが、本当は食事など必要ないのではないか。人間のふりをするのに必要だから、そうしているだけで。……などと考えてしまうのは、この青年の現実離れした容姿のせいかもしれない。


「本題に入りましょうか。黄金栄に接触したいとのことでしたが」

「あんたは黄大亨とも顔見知りやいうし、簡単やろ?」

 常葉の口調から丁重さが消えて、共同租界の雑踏にある馬漢堂主人の話し方になる。


「面会できるようお膳立てするのは難しくはない。ですが、危険ですよ?」

「それに関しちゃ問題ない。聟殿はバケモンの一匹や二匹なら簡単に切り刻めるからな」

「刻みません」

 野分は顔を顰める。常葉は物事を脚色する癖があるようだ。


「確かに、腕は立つようですね。でも、何のために?」

 ベネディクトにどう話すか、そもそも話すべきなのかを迷った。野分の逡巡を見抜いた青年が続ける。


「僕はこれでも、生園衆しょうおんしゅうに詳しいほうです。あなたは『手』、常葉殿は『耳』でしょう?」

「申し訳ないが、おれは最近まで生園衆というものを知らなかった。『手』だの『耳』だのと言われても実感がない」

「箱入りとは聞いていましたが、ずいぶんと徹底していますね。……なるほど」

 何がなるほどなのかは野分に分かりかねたが、ベネディクトは感慨深げに頷いている。


「まず始めに、仁保里と生園衆は似て非なるものです。生園社しょうおんしゃの寺領を守るための自警組織が生園衆と呼ばれ、彼らは生園社寺奴の末裔かその係属です。生園社寺領を仁保里と称し、これは行政上の区分である京都府綾部市仁保里村に相当する」

 野分は呆気にとられてベネディクトを見つめる。まさか、仁保里とは全く関係なさそうな青年から、生まれ故郷に関することを講義されるとは。


「ですが、どうも話を聞いていると『仁保里』の指す場所はひとつではないらしい。生園社の由来を辿っていくと、その起源は綾部の霊峰・弥仙山中に存在する集落にある。不思議なことに、これは生園社寺領の境界外です」

 口を湿らすためにか、ベネディクトは茶を一口すする。


「生園衆は、僕が知る限りでは五つの組に分けられている。目・耳・口・手・足の五つです。目・耳は情報収集と分析、手・足は実行部隊といったところでしょうか。口に関しては判然としませんが、宣伝工作や謀略を担っているようですね」

 ただし、とベネディクトは続ける。


「この五つの組はとても流動的です。互いに緩やかな連携を保ちながら存続してきた。先ほど、生園衆と仁保里は似て非なるものと言いましたが、目的はおそらく同じ――弥仙山中の仁保里を表舞台から隠すこと」


「な? タダモンやないねん、この人」

 ベネディクトの蕩々とした語りを聞き終えた常葉が、ため息交じりに愚痴をこぼした。


「長年『耳』やってたけど、自力でここまで調べ上げたお人はそうおらん」

「僕一人の力ではありません。裏の世界に通じる者は生園衆だけではない。ただ、あなたたちの実体のなさには苦労しました」

「せやろな。なんちゅうても生園衆には『頭』がないんや」

 常葉が自身の頭部を指さした。司令塔がいないということだ。


「明確な命令系統が構築されていないのか。どうりで実体がないわけだ」

「そんなんで、よう保ちますね」

「保つわけあらへん。頭ないまま身体ばっかりでかなってしもたんや。まともなもんやないわ」

 常葉はやや憤慨した様子で腕を組んだ。


「李、と仰いましたか。貴兄は見たところまだお若い。何故これほどまでお詳しいのか……」

 野分が水を向けても、ベネディクトは笑うだけだ。確かに、この麗人は見た目通りの人間ではないらしい。


「おれの任務は……蚕花を確保し、その背後を洗うこと。及び、坂井陽厚なる医者の居場所を突き止めることだ」

 素直に軍を頼れない以上、ベネディクトのように距離感を保っている人物のほうが気が置けるのではないだろうか。我ながら無理やりな理屈だと思うが、正直に申し出て協力を得る方がてっとり早い。


坂井陽厚きよあつは関東軍から防疫の資料を盗んで逃げた。彼は今、劉清穆りゅうせいぼくと名を変え、花香琳(かこうりん)の信を得ている。上海にいるようだが、香燈会こうとうかい方雲雕ほううんちょうからは聞き出すことが叶わなかった」


方師兄ほうしけいは難しいですよ。義理難く恩義に厚い、本物の侠客です。賄賂はもちろん、たとえ拷問しても答えないでしょうね」


「ですから、劉清穆は後回しにして、赤蚕略取の背後を探ることにした。おそらく徐陶鈞じょとうきんという男が絡んでいることはわかったが、そこに黄金栄が現れた」

「それで僕を頼った、と」

 ベネディクトは笑みを引っ込め、思案する。彼の美しい顔に凄みが増して、上官を前にしているのと同じ緊張を覚えた。


 ややあって、ベネディクトが「わかりました」と応えた。

「折を見て接触の機会を作りますので、その際には同行願います」

「助かります」

 内心安堵する。なんとなくこの青年を敵に回す気になれなかった。


「そいじゃあ、わしは軍のほうを探るとしよか。少なくとも蚕花の確保は軍令やから決裁書もあるはずやろ。そこから誰の立案やったかを当たってみる」

 常葉は事もなげにいうと、さっと立ち上がる。


「常葉さん……危ない橋を渡ることになりますよ」

 野分が釘を刺すと、常葉はにやりと笑った。

「橋は危ないほうが渡りがいあるんやで。いやあ、面白なってきたな」

「……」

 野分は押し黙る。常葉は人生のどこかで、まともな神経を捨ててきたのだろうか。


「ほな、ごちそうさん。またよしてもらうわ」

 まるでその辺の屋台から出るような挨拶を残し、常葉は応接間から出て行った。

「さて、聟花殿」

「……飯田でいい。香幇員には風生ふうせいと呼ばれているので、そちらでも」


「『易経』かな? 雲雕がつけたでしょう。彼が好きそうな渾名だ。よく似合っています」

「方雲雕も朱雅文しゅがもんも、名付けが上手いらしい」

 野分が肩をすくめる。ベネディクトがああ、と少し笑った。

「金蓮ですね。『金瓶梅』のヒロインから取ったそうですよ」

「なるほど……」


 金蓮は全体的に一回り小さくできている。特に足は顕著で、自分で歩くことすら満足にできない。そのつたない歩き方は、こちらの習慣である纏足を彷彿とさせた。


 足の小さい女性を『金の蓮』と呼んで尊ぶ価値観は、野分には理解しかねたが、女を抑圧し、家に籠めるための施術だと思えば、これ以上ない名だろう。


 蚕の幼虫も腹脚が弱い。自力で木にしがみつくこともできず、風に吹かれて落ちるほど。成虫して羽が生えても、空を飛べる筋力がない。誰かの庇護なしには生きられないということを体現しているようだ。


「ああそうだ。もしよろしければ、しばらく我が家にご逗留ください」

 唐突な申し出に野分は首を傾げる。


「ご厚意はありがたいのですが……」

 断りかけた野分をベネディクトが制し、マクラーレンに何事かを言付ける。老執事は心得たという風に頷き、一礼すると応接間を出て行った。


「常葉殿が軍の内部に探りを入れたら、あなたにも危害が及ぶ可能性がある」

 ベネディクトは掌を顎に添える。


「僕は、蚕花の聟が隠され、秘されていることにも理由があるのではないかと考えています。あなたには徹底して、生園衆や仁保里の情報が与えられていない。知っていると都合の悪いことがあるのかもしれない……」

 よくぞここまで頭の回るものだ。羨望を通り越して、感嘆すら覚えてしまう。

 野分はつくづく思う。特務機関など己には向いていない。良くも悪くも、単純な力仕事のほうが性に合っている。


「――失礼いたします」

 やがて応接室に一人の青年が姿を見せた。暗色の衣に身を包んだ姿は修験者のようだ。彼は野分に気づくと拱手する。その時代がかった仕草が、この青年にはぴたりとはまる。


「天籟、呼び立ててすまなかったね。花仙姑たちは今どこに?」

好的はい。花仙姑は資生茶館、朱小姐シャオジエは金華茶楼です。フランス租界内は警官の巡回が増えております。香幇への牽制かと」

「……望ましくない事態だね」

 ベネディクトの呟きに、天籟と呼ばれた青年も重々しく頷いた。


「けれど、悪い話ばかりでもないですよ」

 と、ベネディクト青年は一通の手紙を取り出してにこりと笑った。

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