第19話 四面楚歌

「……どうも、長話をする余裕はないようだね」

 香琳はゆっくりと立ち上がる。続いて、雅文がもんも扉近くにかけてあった棍を手に取り、素早く金蓮の手を取った。


 油断なく周囲を見回す。異様な気配が房室を取り囲むように存在している。

 にわかに香琳の右手が動き、風を切る音がした。ほぼ同時に応接間の扉が開き、その奥で何者かのうめき声と共に倒れた。香琳が旗袍の袖に隠していたひょうが命中したのだ。


 それに重なるようにして、房室の窓が派手な音をたてて割れた。雅文は金蓮を抱えてうずくまり、そんな二人を守るように香琳が素早く前に出た。


「――ようやく見つけたぜ」

徐陶鈞じょとうきん……!)

 声に聞き覚えがある。元からあまり気持ちのいい声ではなかったが、今の声にはへどろのような粘り気が混じっていて、雅文の背筋に怖気が走った。


 窓枠に軽々と飛び乗った男の影は、夜の闇をいっそう濃く切り取り、その双眸だけがぎらぎらと光っていた。

「雅文、その子を外へ。雲雕うんちょうと合流しな」

 香琳がささやく。雲雕は風生ふうせいと共に近くの石庫門からこちらの様子を監視しているはずだった。


 雅文は金蓮の手を引き、にじり下がる。その動きを見咎めた徐陶鈞が身を屈め、跳躍の姿勢を取った。その姿は人間ではなく獣のよう――猩猩しょうじょうだ。


(あいつ、嫦鬼チャングイに……!?)

 雅文に襲いかかろうとした徐陶鈞めがけて、香琳の右腕が唸る。香琳の指に挟まれた数本のひょうが、鋭く猩猩の両目を狙う。徐陶鈞はすさまじい反射速度で払いのけたが、鏢に繋がっていた鎖が腕に絡まり、体勢を崩した。


「ここはあたしが押さえる! 早く行きな!」

 香琳に促され、雅文は金蓮を抱えて応接間を飛び出し、玄関に向かう。


 角を曲がったところで、二匹の猩猩と対峙した。そのうちの一匹が跳躍する。雅文が猩猩の鳩尾を狙って棍を真っ直ぐ突き出すと、ぎゃっと悲鳴を上げて廊下に転がる。


 すかさず二匹目が飛びかかってくる。避けきれないと判断した雅文は玄関を諦め、食堂に向かう。食堂にも窓があるから、外に出られるはずだ。

 食堂の扉を蹴破り、窓を開け放つ前に、猩猩に追いつかれてしまった雅文は、仕方なく敵に向き直る。金蓮を背に庇い、棍を構えた。


 猩猩が異様に長い腕を引きずりながらのっそりと近づく。指先に備えたかぎ爪の先端が床をひっかく。犬や狼がそうするように、ぶるりと首を振った。


 次の瞬間、飛びかかってきた猩猩の側頭部に棍の先を打ち込み、回転しながら反対側の先を再度打ち込む。床にのたうち回る猩猩にとどめを刺す前に、追ってきた別の猩猩が踊りかかり、爪を伸ばしてくる。棍を両手で支えて爪を受け止めたが、撥ね除けることはできなかった。

 苦し紛れに腹に蹴りを入れ、何とか振り払って難を逃れた。


媽媽かあさんみたいに飛び道具も習っとくんだった!)

 大きく肩を揺らして、息をする。純粋な力比べで、雅文は嫦鬼に遠く及ばない。時間稼ぎがせいぜいだ。


 息を整え、猩猩二匹と向き合う。低く、床につきそうなほど身構える猩猩の姿は四本足の獣のようだ。

 飛びかかってくる猩猩たちの攻撃を躱し、受け流す。それを繰り返すだけで、互いに決定打を与えることができない。だんだん雅文の息が続かなくなってきた。


 猩猩の一撃を弾き返そうとして、振り下ろした瞬間、棍を握っていた手が汗で滑った。

「雅文!」

 と叫んだのは金蓮だろうか。

 咄嗟に雅文は後ろに飛んだが、旗袍の袖に猩猩の爪先がひっかかり、床に叩きつけられる。衝撃に息が詰まり、うめき声すら上げられない。


 こちらの首を噛み千切ろうと飛びかかってくる猩猩を前に、雅文は上体を起こそうとしたが間に合わない。

 死を覚悟したその時、猩猩の喉から血が溢れた。黒々とした血は雅文にかかるまえに糸状になって溶け消える。


「ご無事ですか、朱小姐シャオジエ。遅れて申し訳ありません」

 その抑揚のない話し方と玲瓏たる声は忘れようがなかった。張天籟ちょうてんらいと名乗った青年だ。


(李先生の従者じゃなかった? なんでこんなところに?)

 暗色の長袍をまとった青年は、剣の切っ先を猩猩に突きつける。

「詳しいことは後ほど。今はここを出ることが先決です。公主をお願いします」

 あくまで淡々と告げる天籟に、雅文は頷くしかできなかった。


 猩猩が天籟を探るようにうろつくのに対して、天籟は自然に立っているだけなのに隙がない。

 しばしのにらみ合いが続いた後、天籟は飛びかかってきた猩猩の懐に踏み込み、その喉元を突いた。その手並みの鮮やかさに、状況も忘れて目を奪われてしまう。


(この人、強い……)

 剣筋に迷いがなく、まるで吸い込まれるように喉をひと突き。こんな戦い方ができる人間は香幇シャンパンの中にもいないだろう。


「そうだ! 応接間で媽媽が戦ってるの、助けなきゃ!」

「心配なく、そちらには方師兄ほうしけいがおられます。私が朱小姐をお連れします」

 雅文と金蓮は天籟に従い、玄関に向かう。そこには戦闘を終えたらしい香幇員が集まっており、中には香琳もいた。


「媽媽、徐陶鈞は?」

「今、雲雕が相手してる。ぐずぐずしてられない、さっさと逃げるよ!」

「――そう、慌てることはないでしょう」


 香琳の檄に雅文たちが応えるより先に、野太い男の声が割り込んだ。

 途端、門扉が勢いよく開き、男たちが雪崩れ込んでくる。揃いのカーキの制服に、コルト四十五口径を構えている――租界警察だ。


 悠然とした足取りでやってきたのは、福々しい顔立ちの老爺だ。灰色の長袍に丸帽子の出で立ち。後ろ手に組んで立っているだけなのに、ずっしりと圧がある。


「お迎えにあがりましたよ、蚕花娘子ツァンファニャンズー。この黄金栄、ずっと御身を待ちかねておりました」

 おっとりとした口調で彼は告げ、金蓮を見据える。穏やかなのは顔だけで、その声と瞳には凪いだ闇がある。


「足労をかけて悪いが、わしはそなたに迎えを頼んだ覚えはないの」

「娘子に伝わらなかったのはこちらの疎漏でございましょうな。ご無礼をお詫びいたします」

 些か大げさな仕草で揖礼する黄金栄を、金蓮は冷ややかな眼差しで見下ろす。


「ふん、詫びの言葉くらいはぬしの辞書にもあるようじゃの。貴人を迎えるに、銃を向けるのが礼と勘違いしている男にしては上出来じゃ」

 挑発する金蓮に、黄金栄の眉が跳ね上がった。貼り付けた笑みがはがれそうになったのを、一瞬で持ち直す。


「お許しいただけたようですな。どうぞ、我が屋敷においでくださいませ」

「嫌じゃ」

 言下に撥ね除けた金蓮に、黄金栄の顔から表情が失せた。


「では、仕方がない。――おい、連れてこい!」

 背後に控えた警官に荒っぽく呼びかけると、縄に縛られた男が二人、黄金栄の足元に転がった。警官たちが男たちの髪をつかんで顔を露わにする。


 まだ年若い少年たちの顔には見覚えがある。彼らは公董局こうとうきょくの動向を探るために近くの石庫門・松露坊しょうろぼうに潜んでいた香幇員だ。

 彼らの顔は殴られたかして腫れ上がり、口の端から血が流れている。香琳がぎりっと奥歯を噛みしめて拳を握った。


「その子らをどうするつもりだ!」

 吼える香琳を一瞥した黄金栄は、一言「ファン」と命じる。発砲音と共に悲鳴が響く。警官の一人が香幇員の足を撃ったのだ。


 金蓮が顔を背けて抱きついてくる。雅文も金蓮を抱く腕に力を込めると同時に、今にも飛び出しそうな香琳の旗袍の袖を強く握った。香琳がいかに戦士として優れていても、今飛び出せば蜂の巣だ。


「まずは右足。それでも承諾しないなら左足。次は右腕と左腕。手足が撃たれても、剥ぐ爪は残っておるな」

 黄金栄の口調そのものはおっとりしているが、その声は底冷えするほど冷淡だった。


「娘子が諾と申すまで終わりはない。耳を削ぎ、鼻をそぎ、目を抉り……それまでに死ぬやもしれんが、お仲間は彼一人ではない」

「外道め!」

「もとより真っ当な道などない。花仙姑、ないものを歩めとは無体をいう。――左足だ」

「やめよ!」

 雅文の肩口に顔を押さえつけていた金蓮が、悲鳴混じりの声で叫んだ。


「わしを尊ぶつもりなら、わしの前で殺生は控えよ。不愉快じゃ」

 降ろせ、という風に軽く叩いてくる金蓮に、雅文は首を振った。金蓮は大事な預かり物だ。守ると約束したのに、手放すわけにはいかない。


「どうもこれは……絶対絶命というやつじゃ」

「そんな簡単に諦めないでよ!」

 慰留する雅文に、金蓮はふふん、と薄い胸を張る。

「なぁに、心配するな。連中にわしは殺せん。なにより、ぬしの仲間が死ぬのは見とうない」


 仕草はいつも通りだが、強がりであることは言うまでもない。ためらう雅文に金蓮は大丈夫だと笑う。雅文は金蓮を抱きしめてから、ゆっくりと降ろした。

 金蓮はつたない足取りで黄金栄と相対すると、ぐるりと視界を一周させる。


「わしの迎えにしてはちと人が多すぎる。わしが去った後、始末するつもりかえ?」

 金蓮の問いに、黄金栄は「まさかまさか」と笑った。

「事を荒立てるのは本意ではない。香幇がこれより二度と法租界に立ち入らぬというのであれば、見逃すのもやぶさかではないが――如何か?」


 最後の問いかけは花香琳に向けられた。黄金栄の視線と共に、十数の銃口がこちらを向く。ここで香琳が諾と答えねば、何が起きるかは明白だった。

「……わかった。香幇はもう関わらない。公主は黄大亨に預けよう」

 数十秒ほどの沈黙の後、香琳が押し殺すような声でそう宣言する。


 黄金栄は「ご理解いただけたようで何より」と微笑むと、捕らえられていた若者を解放するよう命じた。

 黄金栄は悠然と金蓮を抱き上げる。腕に収まった少女を大事そうに撫でたが、金蓮は渋面を作ってふいっと顔を背けた。


 彼はそのままゆっくりと踵を返し、門を出て行く。その後を、警官たちが守るように着いていく。

 やがて車のエンジン音がして、黄金栄たちは去って行った。

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