第18話 深夜の攻防
ふと目を開けた
「今、起こそうと思っていたところだ。勘がいいな」
窓を見遣ると外はすっかり闇の中に沈んでいる。
金蓮の存在を餌に
今、野分たちが潜んでいるのは、金蓮と雅文がいる屋敷の向かいに建つ石庫門で、香幇の拠点のひとつだ。
「たまたまだ。何かあったのか?」
「さっき
「徐陶鈞か?」
身を乗り出す野分に、雲雕はいなすようにさあな、と応じる。
「当たりだといいがな」
窓の外を親指で指し示す。灯りを落とした部屋から見える景色は、やはり闇に沈んでいて視認しにくい。星明かりだけを頼りに注視すると、確かに探るようにうろつく人影が三つ四つある。
かの屋敷には警護のために五人の香幇員が詰めているはずだが、彼らが不審者に気づいた様子はない。
「ったく、だらしがねえなあ」
雲雕がぼやいて窓のそばを離れる。
「
「手伝う」
軍刀を手に野分も雲雕に続く。野分が覚醒する直前、かすかだが橘の香りがした――ような気がする。眠りが浅く、過敏になっているだけかもしれないが、胸騒ぎがした。
野分と雲雕、彼の部下数名は見張りだけを残し、静かに房室を出ると石庫門の門扉に潜んで屋敷の様子を伺う。
怪しい人影は四つ。彼らは夜目が利くのか、無言のまま手振りで合図を送り合い、どこから潜入するかを探っている様に見える。
しばらくすると彼らはある通路の脇に集まる。あの通りに面する形で応接間がある。それを見て取った雲雕が、手下の三名を屋敷の表門に回るよう指示をした。
野分と雲雕は素早く飛び出した。二対四、相手の腕前は図りかねたが対処できない数ではない。
しかし、野分と雲雕が躍りかかるより先に、四名は一斉に何かを取り出し、腕に突き立てる仕草をした。
「――!?」
その瞬間、野分は濁った橘の香りを嗅ぐ。瞬く間に四人の影の形が膨張する。
たくましい巨躯と長い二本の腕を持つ
「ちっ、表に回ってる暇はねえな!」
雲雕がやけ気味に叫んだ。猩猩のように一足飛びではないにせよ、二人は難なく柵を乗り超える。
窓ガラスの割れる音がする。急いで駆けつけると、香琳が鎖のついた苦無のようなもので猩猩の腕を絡め取り、力比べをしている最中だった。
「花仙姑!」
雲雕が裂帛の気合いと共に猩猩の腕に大刀を振り下ろす。
雲雕の攻撃は常人ならばひとたまりもないが、猩猩の反応は人のそれを凌駕する。香琳の投げつけた鎖を強引に奪い取り、それで雲雕の刃を受け止めた。びいん、と金属のこすれ合う耳障りな音が室内に反響する。
遅れを取った雲雕が「
「花仙姑、雅文はどうした_!?_」
「
「面目ない」
香琳の叱責に、気勢を削がれた雲雕が首をすくめた。
「――なんだ、雲雕じゃねえか。元気だったか?」
突如、くぐもったその声が二人のやりとりを遮った。声の主は当の猩猩だ。
「
「探す手間が省けた」
野分が刀の柄に手をかける。最早この程度では驚くに値しない。
「口が利けるのなら願ってもない。お前に訊きたいことがある。協力するなら多少のことには目を瞑ってもいいが、どうする?」
「誰だ? ……と言いたいところだが、俺のことを嗅ぎ回ってた
野分は目を眇めただけで答えなかった。代わりに素早く踏み込むと軍刀を一気に引き抜く。鎖の絡まった腕を狙った刃は惜しくも外れ、返す動作で追撃しようとしたが、猩猩の姿はなかった。
「あぶねえ、あぶねえ。お前、いい腕だな」
「!」
慌てて声の方を振り仰ぐと、部屋の隅、さながら蜘蛛のように長い手足を伸ばして張りつく徐陶鈞の姿があった。黒い体毛に埋もれてぼうっと浮かび上がる白い耳だけが、元は人間であったことを偲ばせる唯一ものだった。
猩猩は静かに降り立つと、予備動作もなく拳を振るう。野分はとっさに身を躱す。先ほどまでいた場所に拳が降ろされ、床板に穴が開く。一瞬でも考えていたら、割れていたのは自分の頭だ。
「避けたか。狩りがいのある獲物で嬉しいねえ」
猩猩はくつくつと笑い、舌なめずりをする。
「……花仙姑、風生」
雲雕が押し殺した声で呼びかける。
「徐師兄のことは俺に任せてくれないか」
その台詞に思うところがあったのか、香琳は「わかった」と応接間を出た。恐らく、雅文の援護に向かったのだろう。
「悪いが、譲れない」
これまでの経験上、猩猩退治は難しくなかった。だが、今の徐陶鈞は超越した身体能力を得たうえ、理性も知性も失った様子がない。
金蓮のことも気になるが、規格外の相手に一人で立ち向かうのは賢明とは言えない。
「まあ、風生はそうだろうな」
雲雕は苦笑し、大刀の柄を握り直す。室内で立ち回るには不利な長物だが、それは長い腕をもつ徐陶鈞も同様だ。
野分もまた刀を鞘に戻し、間合いを計る。
先に動いたのは徐陶鈞だ。長い腕を鞭のようにしならせ、雲雕に振り下ろす。雲雕は鋭い爪先を大刀の先でいなしたが、思わずといった風情でたたらを踏む。軌道の逸れた徐陶鈞の爪先が、床板を深く穿つ。
徐陶鈞が野分に背を向けた。野分が踏み込む。刀を抜こうとした瞬間、ひやりとして身をかがめる。頭上を風が走る。すかさず次の攻撃が来る。体勢は整っていないが、よける暇もない。
呼気と共にさやを引き、刀を一閃! 手応えがあった。徐陶鈞の左腕が途中からすっぱりと切り落とされている。吹き出るはずの血はすぐさま糸に変わり、落ちた腕がごとりと音を立てて床に落ちた。
続いて、雲雕の大刀が徐陶鈞の右脚の腱を絶つ! 部屋に徐陶鈞の絶叫が響くが、それはもはや獣の咆哮に近かった。
痛みを感じているはずなのに、徐陶鈞の攻勢は止まらない。無軌道に繰り出される腕を避けきれず、野分は吹っ飛ばされる。とっさに受け身をとったが、しばらく呼吸もできないほどの衝撃があった。
徐陶鈞は執拗に雲雕を狙い続ける。防戦一方に回る雲雕が割れた床板に足を取られた。
「――!!」
雲雕の顔に、さっと焦燥が浮かんだ。好機に目を輝かせた徐陶鈞の気を逸らそうと、野分は倒れ込んだまま素早く十四式の引き金を引いた。
パン、と乾いた音は、聞こえすぎる猩猩の耳には仇となった。体全体が痙攣し、うずくまった徐陶鈞めがけて、雲雕が大刀を振り下ろす!
その大刀の柄を徐陶鈞が掴み、へし折る。反撃に備えて一歩引いた雲雕だったが、徐陶鈞の攻撃はなかった。ふらつきながら上体をゆっくりと起こし、ぴくりと耳を立てるとにやりと笑った。
「俺の役目はここまでだ」
徐陶鈞が告げると同時に、外から銃声が響く。遅ればせながら、屋敷の周囲が騒々しいことに気づいた。
気を取られた野分と雲雕を嘲笑うかのように、徐陶鈞は手足を損傷したとは思えない身軽さで窓を乗り越え、逃げていった。
「待て!」
徐陶鈞たちはただの囮で、本命は銃声のほうか――と、悟った時にはもう徐陶鈞の姿は消えていた。
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