第17話 母娘
柔和な面立ちの老爺と屈強な若者が数名、華やかな顔立ちの少女がふたり――
「
広い応接間のソファで、金蓮がころころと転がりながらぼやく。雅文はまたか、と内心でため息をこぼしつつ針を動かす。
「用事が終わったらすぐ戻ってくるよ。上海にいるんだから」
「といってもう十日ぞ。その間、顔も見せぬとは何事じゃ」
「忙しいんだよ。ちょっとくらい待ちなさいよ」
「わしはやつの
ぷくっと頬を膨らませる姿は愛らしいと言えるが、同じ会話を延々と繰り返しているので、正直勘弁して欲しかった。
ふう、と大きく息を吐いて、ソファの背にもたれる。光沢のあるアラベスク模様も大胆な生地は上等なジャカード織だ。天井に吊ってあるのは大きなシャンデリアで、クリスタルガラスがきらきらと光を散らしている。
この邸宅は一応雅文の自宅である。
針を使って疲れた目を休めるつもりで部屋を見回したが、内装の豪華さにかえって落ち着かない。
「金蓮、暇なら手伝ってよ。手を動かせば愚痴も減るよ」
雅文が唇をとがらせると、金蓮は軽くにらみつけてきた。
「なぜわしがそんな下賤な仕事をせねばならんのじゃ。そもそもこの札のせいで気分が悪いというに」
不平を漏らす金蓮の額には何やら妙な札が貼ってあり、それも不機嫌の理由のひとつらしかった。
「じゃあ、取ればいいじゃない」
「……聟花の望みゆえ、無体に破ってはならんのだ」
むくれつつも、金蓮は額を押さえて頑なに拒む。やれやれ、と雅文は肩をすくめた。
あの札は
最初の数日こそ警戒していたが、やがてじっとしていることに飽きてきた。下女たちに混ざって警護の男たちのために粥を作り、大量の洗濯物を捌いて繕い物などすれば一日などあっという間に終わる。
金蓮は器用に立ち働く雅文を呆れたり感心したりして眺めているだけで、自ら何をするでもなく、ころころしているのであった。
このひと月足らずで、すでに金蓮への遠慮がなくなっている雅文は、ふと思いついて、唇の端を持ち上げた。
「せっかくだもの、風先生に何か作ってあげたら?」
提案する雅文に、金蓮がぴくりと反応した。
「金蓮は器用そうだし、すぐに上手くなるよ。針なら座っていてもできるから暇つぶしにもなるし、風先生を見返せるいい機会かも」
金蓮の自尊心をくすぐってみせると、少女はむくりと起き上がった。
「……ま、針を使えるのも悪くなかろ。どれ、ひとつやってみようではないか」
などと言いつつ、雅文の指導の下、ぎこちない手つきで針を握り始めた。
そもそも、この屋敷に帰ることになったのには理由がある。何を隠そう、風生こと飯田野分からの頼みだった。
フランス租界での騒ぎの後、風生が金蓮を迎えに来た『聟花』だと知った。彼は金蓮が香幇の世話になっていたことへの礼を述べると、急いだ様子で引き上げていった。そのまま日本に帰るのだろうと思っていたが、いくばくかも経たぬうちに、風生はふらりと金華茶楼に姿を見せた。
そしておもむろに、
風生はある筋から、徐陶鈞が南市に蔓延する妙な薬の出所に何らかの関わりがあると聞きつけたという。
『とはいえ、証拠があるわけではない。なら直接、徐陶鈞に話を聞くしかない』
などと、大層なことをさらりと告げた。
妙な薬の噂は雅文も知っている。得体が知れないその薬を、香幇がばらまいたなどという不名誉を被ったこともある。もちろん、根も葉もない噂で、今でも腹立たしい。
『今すぐに返事を、とは言わない。考えておいてくれ』
風生がまさしく風のように茶楼を去った後、雲雕は『参ったな』と苦笑した。
『煙に巻いたつもりだったんだが、藪蛇だったか?』
雲雕はばつの悪そうな顔をした。
最初に出会ったとき、雲雕は風生に謎の薬について調べるよう仕向けていたらしい。真偽も不確かな噂だ、諦めるだろうと踏んでいたが、後日風生は茶楼に劉大人を訪ねてやってきた。そのときも適当にあしらって帰したのだが、今度は徐陶鈞の名が出てきた。
『風先生って、何者?』
『上海日報の記者だとさ。記者にしちゃあきな臭すぎる。かといって、悪い奴でもないんだよなあ……』
雲雕の評には雅文も同感だ。愛想がなく無骨な印象ではあったが、礼儀正しく分を弁えている。徐陶鈞と対峙した後だと、風生の美徳は殊更際立つ。
彼が何を目的に徐陶鈞を釣るつもりかは知らないが、おそらく香幇の協力がなくとも、彼は徐陶鈞を追うだろう。
果たして、香幇と浅からぬ因縁を持つ徐陶鈞の処遇を、赤の他人に任せてもいいものか?
(別に、放っておけばいいのに)
徐陶鈞がどうなろうと雅文は構わない。だが、香琳や雲雕はまだ徐陶鈞のことを気にかけているようだった。後日、風生の申し出を受けた香琳は、金蓮をひっそりと、しかし巧妙にこちらの動きが伝わるよう、今の屋敷へと移したのだった。
劉大人や香琳が数日おきに屋敷を訪ね、近況を話し合って帰る。そういう生活が二十日ほど続いたある夜、香琳が様子を見にやって来た。
「茶楼はどう?」
早々に寝てしまった下女を起こすのも忍びなく、雅文が茶を用意する。
こんなに頻繁に香琳と顔を合わせるのも珍しい。数ヶ月会わないこともざらだ。普通の母娘ではない自覚はあるが、特別母を嫌ったことはないし、寂しいと思ったこともなかった。
「すっかり元通りだよ。みんな、あんたが戻ってくるのを待ってる。特に
雅文が目を丸くする。いつも誰にでもけんか腰の蔡栄が萎れているところなど想像できなかった。
「いつになったら戻ってくるんだ、って毎日のように訊くから参るよ。厨房に押し込めるのも一苦労なんだ」
香琳はうんざりと呟く。それは雅文と金蓮のやりとりにそっくりだったので、苦笑を禁じ得なかった。
「あんたは十分よくやった。ここから先はあたしたちに任せて、茶楼に戻っておいで」
香琳は優しい声で説き伏せ、力強く雅文の手を握った。
正直、かなりぐらついた。徐陶鈞に狙われたのは成り行き上仕方のないことで、最後まで関わる義理は雅文にはない。でも――
「もう少しだけ……いちゃだめかな」
ためらいがちに告げて母の顔色を伺う。香琳はしばらく口をへの字にして睨んでいたが、やがて卓に片肘をつき、重いため息を吐いた。
「まさか、解決したいと言い出すんじゃないだろうね?」
雅文は言葉にはしなかった。ただ、まっすぐに香琳の目を見つめ返しただけだが、それだけで察したらしい。
「あんたがいたからって、どうにかなることじゃない」
口調こそ穏やかだが、極めて冷徹に香琳は言い放った。
「それは、わかってるけど……」
雅文は落ち着きなく左肘の辺りを撫でながら言い淀む。香琳はおおむね雅文の意志を尊重してくれるが、その分、香琳が反対したときの頑固さといったらない。
「なら、大人しくしてるんだ。いいね?」
突き放すような香琳の声に、雅文の心の奥が細波立つ。
「あたしだって何かの役に立てるかもしれないじゃない」
「『上海の瑤姫』だから、かい?」
香琳の揶揄に、雅文の顔にさっと朱がさす。それは怒りだろうか、羞恥だろうか。
「若い娘が棍を振って、その腕前がちょいとよければ話の種になる。煽てられて、悪い気分じゃなかっただろう?」
雅文は困っている人がいたら率先して助けてきたつもりだ。名声や賞賛が欲しくてやっていたわけではない――ないけれど、悪い気がしなかったというのも事実だ。
(あたしなら……『上海の瑤姫』なら、これくらいどうにかできるって、思い上がっていたのかも)
言い返せない悔しさに、雅文は膝に押しつけた掌をぐっと握りしめ、唇を惹き結ぶ。
「――香琳、おぬしすいぶん意地の悪い物の言い方をするのう」
たよりない蝋燭だけで照らされた応接間に、軽やかな少女の声が響いた。
母娘は驚いて声の主を振り返る。応接間の入り口に立っていた金蓮は、あくびを噛み殺しながら、つたない足取りでソファに近寄り、よじ登る。
「まったく、こんな夜更けに口論とは。目が覚めてしもうたではないか」
金蓮はふう、と大層なため息をこぼし、軽く首を振った。長い黒髪がさらさらと揺れる。
「……娘は巻き込まれているだけに過ぎないんでね」
香琳が金蓮に当てつけるが、本人に堪えた様子はない。
「雅文はもうおので考え、選べる歳ではないか。おぬしの言い分にも理はあるが、いささか情が欠けてはおらぬか?」
「余計なお世話だよ。これは経験者からの忠告さ」
「ほう。忠告とな?」
「義和団紅灯照の花仙姑といやあちょっとしたもんだった。易をやらせりゃ必ずあたり、棍を扱わせれば当代一、なんてね。あたしはその頃、二十歳そこそこの小娘で、次の黄蓮聖母と目されていた」
香琳は役者のようにぱっと手を広げて笑った。
「あたしがこの国を救うんだって本気で思ってたよ。あたしならそれができるってね。結果として、失ったもののほうが多かった」
「……」
「あたしは雅文に同じ轍を踏んで欲しくない。大義なんてものに肩入れするより、地に足着けて生きていくほうがましさ。幸い、娘には今の暮らしのほうが向いてるみたいだしね」
雅文は目を丸くする。香琳は大義を追うことに夢中なのだと考えていたから、雅文のことをそんな風に見ていたとは知らなかった。
「なるほどのう。これは申し訳ないことをした。では、雅文はそなたのもとにお返ししよう」
「ちょっと、金蓮」
やけにあっさり承諾する金蓮に抗議しようとして、雅文はふと違和感に気づいた。なんとなくだが、人の気配があるような――
「ふむ、取り囲まれたようじゃの」
金蓮が呟いた。
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