第16話 密約

 フランス租界に嫦鬼チャングイが現れて五日が経った。

 蚕女の確保はできたが、フランス租界の騒ぎは少々大きくなりすぎた。翌日には新聞に派手に書き立てられてしまい、軍部に顔を出すことは憚られた。蚕女の誘拐に日本軍が関与していることを疑われてはまずい。


 その野分のわきの懸念は杞憂に終わった。

 上海の熱狂は冷めやすく、金色の炎の件は新興宗教の仙術と片付けられ、あっという間に紙面から消えた。


 そのまま金蓮を軍部に引き渡してもよかったが、徐陶鈞じょとうきんという男が引っかかる。蚕女誘拐の首謀者か、それに近しい人物だ。調べておいて損はない。


 この手の調査に向いていないと早々に悟った野分は、馬漢堂の常葉を頼った。

 常葉は渋い顔をしつつもこれを引き受け、分かったことがあれば使いをやると告げた。その使い――崔良がやってきたのが、今朝だった。


 彼はひと抱えほどの行李を野分に渡し、いつでもお越し下さいと言い残して去って行った。

 行李に入っていたのは着替えが一式。行商人風のくたびれた衣装だ。身支度を終えると早々に馬漢堂へと向かった。


「毎度、お世話になっております」

 店先で野分が軽く会釈すると、客の対応をしていた常葉が相好を崩した。野分を出入りの業者か何かと思った客が、話を切り上げて出て行った。


「よう来はったな。まあ中に入り」

 常葉に案内され、奥の座敷に向かう。

「無事に蚕女と会えたんやてな」

 はい、と野分が答えて背負っていた荷を下ろす。紺の風呂敷を解き、柳行李の蓋を開ける。中身は祝言のときに自分の隣にあった、大きな赤い繭だ。繭には、常葉からの指示で札が貼られている。


 薄い和紙の札に刷られた座仏像は、頭上に二つの馬頭を戴き、光背は燃え立つ炎のよう。怒髪天を衝き、目尻を吊り上げ、牙を剥き出す憤怒相――札の上部には『馬頭観音』とあった。


 その赤い繭は瞬く間にするするとほどけ、あどけない少女が顕れた。白絹の小袖に緋袴、紅の打掛を羽織った少女は行李から出て、ちらりと常葉を見下ろした。と言っても、座った常葉とそう目線は変わらなかったが。


 常葉はしばらく声もなく少女を見つめていたが、はたと気づくと正座し、叩頭した。


「姫御前。お初にお目にかかり申す。上海の『大耳』を務める常葉にございます。まさかこの身があるうちに、姫御前のお姿を拝すことが叶うとは……」

 かしこまった様子の常葉に、金蓮はうむ、と鷹揚に頷くと、野分が片付けた柳行李に腰かけた。黙っていれば雛人形のように可愛らしい。


「常葉、堅苦しい挨拶は抜きじゃ。むさ苦しい場所じゃがゆるりとせい」

「失礼だろう」

 野分がすかさず注意したが、金蓮に反省の気配はない。


「常ならぬ状況ゆえ、わしのことは構うな」

「姫御前のお耳を汚しまするが、ご寛恕願いますよう」

 金蓮の台詞に常葉は再度頭を下げるといそいそと茶を用意した。


 出された茶はほどよく温く、甘く濃い。おそらくは玉露だろう。先だって野分が訪ねたときは煎茶だったのだが。扱いの差に文句をつけるべきかしばし迷い、結局、高級な茶と共に不満を飲み込んだ。


 茶請けの鶴屋八幡の最中に手を伸ばし、賞味する。最中の皮の香ばしさと舌の上で溶けるこし餡の風味が絶品だ。


「徐陶鈞なる人物はまあ、行状がよろしいお人とちゃうな」

 一息ついたところで、常葉は煙草盆を手元に寄せる。金蓮に詫びてから、煙管に煙草を詰め始める。


「袁世凱がのうなってから、天津周辺で際どい商売に手を出してたようや。誘拐、女衒、人身売買。近頃は売血で生計を立てとった」


 輸血というものが確立したのはここ二十年のことだ。

 日本では患者の近親者や知人からの供血、あるいは供血斡旋業者の派遣した供血者が行うが、こちらでは専業的な供血者個人から賄うのが一般的であるらしい。


「悪質な供血斡旋業者が摘発された事件もありますが、徐陶鈞もその類いですか」

 常葉は煙草に火をつけ、煙を吸う。ゆっくりと一服して、口を開く。


「せやな。一旗組はぎょうさんおったけど、成功するんは一握り。徐陶鈞は食うに詰めた日本人を専業供血者として囲い込んで組織化した。軍閥の偉いさんや郷紳きょうしんなんかに不老不死の血やいうて、現地人の三倍から十倍の値で売り込んだ。実際、病が治るいうて評判やったらしい。ま、それで満足してたらよかったんやけど」


 この商売が当たった徐陶鈞は欲目を出し、顧客を増やそうと天津の有力者に声をかけ始めた。


「これが青幇チンパンの連中の癇に障った。徐陶鈞はシマを荒らす新参者やといびられて、囲うてた供血者も上がりも取られてひとり天津を追い出された」

「自業自得ですね」

 野分の率直な合いの手に、常葉は笑声を上げた。


「それから黒竜江の北まで逃げて密売血や。適当な村娘を無生老母むしょうろうぼの化身に仕立てて万病に効く血を分けた。もちろん嘘っぱちで、鴉片アヘン中毒者の血ぃ使うただけや。それでも無生老母教の噂は広まって、入信者は二万を超えた。中には直隷派の残党もおって、第二の太平天国を危惧した奉天軍閥が潰したんやけど、それはどうも関東軍の指示やった――らしい」

 悪党の小銭稼ぎからとんでもない方向に話が転んでしまった。


 関東軍は主として対ソ連を想定し、防波堤として満州国建国を目的のひとつに掲げている。一方、張作霖率いる奉天軍閥は、馬賊と満州に駐留していた北洋軍で構成され、満州一帯を実効支配している。共に満州利権を狙う関東軍と奉天軍閥は、利害が一致すれば互いを利用するのが常態だ。


「張作霖は直隷派潰していよいよ中央復帰や、出来るだけ兵は出したない。けど、関東軍が支援してくれんのやったら文句あらへんやろ」

 日本政府は現在、奉天軍閥を支援する方針を取っている。厄介な賊退治を張作霖に一任するのもあり得ぬことではない。


 野分は最中を一口囓る。そういえば金華茶楼で出された五仁月餅は、これよりしっかりとした甘さのある木の実餡で、柑橘の皮の食感と風味のおかげかしつこさがなく、あれも悪くなかったな、と思う。

 金蓮の様子を伺うと、彼女はとうに長話に倦んでいて、こくりこくりと船を漕いでいた。


「もちろん関東軍のほうかて親切心で申し出たわけやない。恐らく、このときに関東軍は張作霖に、徐陶鈞の身柄を渡せと要求した」

 でなければ、二万もの反乱軍を率いていた徐陶鈞が無罪放免になっている理由がわからない、と常葉はいう。


 こうして、無生老母教を潰された後の徐陶鈞の行方は突然途絶える。再び姿を見せたのはひと月ほど前、大連でのことだ。


「徐陶鈞は商人のふりして大連で荷を受け取った。上海の古巣を頼って、黄金栄との接触を図ったみたいやな」

 その荷が、羽化前の金蓮だった、というわけだ。


 徐陶鈞が蚕女誘拐に深く関係していることは間違いない。関東軍に依頼されて運んだのか、それとも張作霖の差し金か。いずれにせよ、面倒なことだ。

 野分と常葉が金蓮に目を向けると、少女は眠そうに目をこすり、ひとつあくびをこぼすと行李から降り、野分の膝を枕に横になった。


 改めて、何者なのだろう、と思う。先日の嫦鬼騒ぎでは、この少女が嫦鬼を人に戻したように見えた。何をどうやったのかを尋ねても、少女はさての、と首を傾げて何も語ろうとはしなかった。


 ちなみに、金蓮を見つけてからはあの夢は見ていない。この少女は炎を生み出す他に、夢告の能力もあるらしい。

(何せ、繭から生まれるような娘や。それくらいできるんやろう)

 と、無理矢理自分を納得させるしかない野分である。


「今、彼らはどこに?」

「徐陶鈞は元々義和団におって花香琳かこうりんとも面識がある。香幇を頼ったんとちゃうか? あるいは南市ナンシーに紛れとるか……」


 南市は主に県城内の支那人の避難先だったが、革命で国を追われた白系ロシア人、迫害を逃れてやってきたユダヤ人、厳しい兵役を投げ出したインド人など、出自や人種を問わず難民が流れ込む東洋雑居のスラム街となっている。


「追々、調べていくさかい。分かったらすぐに知らせるよってに」

「……そういえば、劉清穆りゅうせいぼくには会えませんでした。彼は朱虞淵しゅぐえんなる人物と親交があったようですが、朱虞淵について何かご存じありませんか?」

「清国人で、洋行帰りの医者やった。花香琳とは義和団の乱の頃に出会ったと聞くな。黄蓮聖母こうれんせいぼの尋問に立ち会った、とかいう話もあったけど、ま、これは単なる噂やろ」


「黄蓮聖母は……義和団紅灯照の首領でしたか」

「せや。天津陥落後に捕縛されたけど、当時の西部都督部参謀長の楠木正影くすのきまさかげ少将の命で釈放されとる。天津を脱出した張徳成ちょうとくせいを釣り上げるために逃がしたとか」

 煙管を吹かしながら常葉が答える。


 その楠木正影少将は大将に昇進し、現在は関東軍司令官――つまりは飯田の古巣の上官だ。楠木大将と直接口を利く機会はなかったが、遠目に見かけたことはある。


 皇孫の血筋で華族という出自、日本人には珍しい五尺七寸の長身という立派な風采、公私に渡って規律に厳しい人物という評判が相まって、近寄り難い雰囲気があった。


 楠木大将の人を見る目には定評があり、彼に認められれば無私の良人だというお墨付きをもらったようなものだ。一度目をかけた者には退役後も手厚く面倒を見るという情の深い面もある。


「結局、張徳成は独流鎮で殺されてもうて、空振りに終わったけどな。今の黄蓮聖母は花香琳や。先代はもう生きとらんやろ」

 香燈会こうとうかいの花香琳は義和団紅灯照こうとうしょうの後継・二代目黄蓮聖母を自負しているが、女性のみの組織だった紅灯照とは違い、元・義和団員はもちろん、辛亥革命前に加わった民主化運動の同志も多い。看板は同じでも中身は別物だ。


「どうや野分、上海は?」

 話の接ぎ穂を失って、湯飲みを傾けていた野分は、常葉の急な問いかけに少し思案する。

「……上海は、かすかに仁保里におりと同じ匂いがします」

 野分の答えに、常葉は怪訝な表情を浮かべる。野分が祝言の日に歩いた弥仙山みせんさんの道中のことを話すと、常葉が懐かしいなあ、と破顔した。


「里中に橘の薫香が漂うて、えもいわれん経験やった。けど、上海で同じ香りがするとは思うたことないなあ」

蚕花さんかの匂いなんでしょうか」

 眠りこけている金蓮に目をやりながら、野分が呟く。


「恩田少佐に言われました。おれは猟犬だと。その意味が分かった気がします」

「仁保里の男は蚕花の香りがわかるらしいな。わしはほとんどわからへんけど、あんたがいうならそうなんやろう」

 あの強く濃厚で、それでいて清々しい橘香の源は金蓮なのだ。上海が仁保里と同じ香りなのも彼女がいるからなのだろう。


 では、嫦鬼が発する匂いは一体何なのか。同種でありながら、顔を背けたくなるほど腐り澱んだ花の香は?

(仁保里の繭と嫦鬼には何かしらの繋がりがある)

 それが今回の事件に発展した要因でもあるのではないか。


「……仁保里に帰した方がいいでしょうか」

 野分の理性は、恩田少佐に報告するべきだと告げている。だが、金蓮の誘拐には軍内部の人間が関わっている可能性が濃厚だ。彼女を軍に預けたところで、根本的な解決に至るとは思えない。


 金蓮と娶せられたのは村の慣習によるもの。確かに器量は人並み外れているものの、態度が傲慢で口ばかり達者で生意気で、しおらしさのかけらもなく、聞いていた話とは違うが、だからといって無体を強いられていい理由にはならない。


「その仁保里もどうなってんのかよう分からん。迂闊に近寄るんも考えもんやな」

 野分と常葉が難しい顔をしていると、ふと金蓮が目を覚ました。

「話は終わったのかえ?」

 あくびをこぼしながら暢気に尋ねてくる少女に、簡単に現状を伝えると、彼女は軽く首を巡らせてから口を開いた。


「では、香燈会に頼るほかあるまいな」

 その結論に達していたのは野分も同様だ。軍の他に伝手があるのは馬漢堂の常葉か香燈会しかない。常葉が金蓮を粗略に扱うことはないだろうが、野分だけに肩入れしているわけでもあるまい。


 その点、香燈会とは個人的な面識があり、感触も悪くない。劉清穆の件で怪しまれているかもしれないが、少なくとも朱雅文はこの少女に好意的だったようだ。

 徐陶鈞が嗅ぎつけるかもしれないが、予想がつく分、対処もしやすいだろう。いや、むしろ――


「我が聟花殿は、物事を難しく考えるのが得意のようじゃな」

「あらゆる可能性を検討していると言ってくれ」

「ここから一歩も動かぬと? 馬漢堂に根を生やすつもりかえ?」

 からかい口調の金蓮に野分は首を振った。無論、そんなつもりは毛頭ない。


「劉清穆と徐陶鈞のほうは何とかしてみます」

「そら、何とかしてもらわんと困るけど……」

 常葉は言葉尻を濁し、探るような眼差しを野分に向ける。もし、常葉が野分の思惑を知れば、決していい顔をしないだろう。


「では、そろそろ失礼します」

 うかうかしていると見透かされそうな気がする。常葉の視線を断ち切るように、野分は深く頭を下げた。

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