第15話 天啓
――橘の香りがする。
金華茶楼を出るなり
他の柑橘にない独特の苦みをもつ清々しい香りと同時に、ひどく澱んだ、腐臭のようなものを含んだ橘の匂いもする。全く正反対の二つの橘香が鼻先で混じり合って妙な感じがした。
香幇員の出した車に乗り込み、フランス租界へと走らせる。近づくにつれ、橘香が強くなるのがわかった。
フランス租界には四つの門がある。
門の側に銃を構えた兵がいる。
「俺たちは香幇だ。加勢する!」
「法租界を荒らすつもりか!?」
「少しでも手が多いほうが被害が減るだろ!」
門番と雲雕が掴みかからんばかりの勢いで押し問答するのを尻目に、野分は周辺の様子を探る。
銃声と悲鳴、そして胸が悪くなるほどの腐臭。思わず口元を塞いだ野分とは対照的に、他の香幇員たちは涼しい顔だ。それどころか、顔を顰めた野分を不審そうに見つめている。こんなに強く不快な臭いを、どうして無視できるのか。
(まさか……おれにしかわからないのか?)
思えば、同じ臭いを愛多亜路でも嗅いだ。臭いの元にいたのは
何度か呼吸を繰り返し、少し慣れてくると匂いに波があることがわかった。ともすれば発生源を辿れそうだ。
まだ門前で揉めている二人に目を向ける。筋を通すべきだろうが、それは時と場合による。野分はまだ閉じきっていない門の内側に滑り込み、臭いの元へと駆け出した。
あっ、と誰かが叫び、呼び止められたが無視した。意識して腐臭の元を探り、角を曲がったところで野分は足を止めた。
鮮やかな朱色の体毛をもつ四つ足の獣――赤犬だ。振り返った頭は人面で、首から下は犬そのものだ。猩猩は出たとしても精々一、二体だが、赤犬は多いときは十数の群れを作る。
飛び跳ねて襲いかかってきた赤犬を避け、体勢を崩したところを一息で首を落とす。頭が粘度のある赤い糸を撒きながら宙を舞う。そのまま道に落ちた衝撃で骨ごと下半分が潰れた。ぽっかりと空いた空虚な眼窩が、まるで恨むように野分を見つめている。
「
呼ばれて振り向けば雲雕たちだ。彼らの後ろには銃を構えた門番が続いた。
「腕に覚えがあろうが単独行動は謹んでくれよ。だがま、助かった」
最後の礼は耳打ちするように小さく囁いて、門番を親指で示す。連中を丸め込む口実に野分を使ったらしい。
「まだ近くにいる。赤犬は一匹見たら十はいるはずだ」
「赤犬……
野分は改めて周囲の空気を嗅いでみる。今まで気づかなかったが、周辺一帯が橘の香りを発していた。意識しなければすぐ掻き消されてしまうほど薄い香りの綾は、靄のごとく上海全体を包んでいるかのようだ。
ここでようやく、恩田少佐が野分をして猟犬、と呼んだ意味を理解した。
(比喩でなく、本当に鼻が利くという訳か)
また濃い腐臭を覚え、匂いの元を探る。急に走り出した野分の後を、雲雕たちが追ってくる気配があった。
角から新たに現れたのは青い体躯の牛だ。両側に角を生やし、四つ足のまま突撃してくる。さっと身をかわし、腹に体当たりをして横倒しにすると、目を刺し貫く。刃先はそのまま脳に至り、大きく二度痙攣した後、絶命した。刀身を汚した真っ赤なものは、瞬く間に糸状となって消えた。
「見事だ。
雲雕自身もまた、次々襲い来る天犬を容赦なく吹っ飛ばしておきながら、からかい混じりに声を掛けてくる。
「手を抜く理由がない」
野分は答えながら血振りをしたが、そもそも刀身には血も脂も一切残っていない。何も斬っていないかのように、凜とした風情でそこにある。無銘の名刀とはよく言ったもので、恐ろしいほど切れ味がいい。
「これが日本にはいないとは不思議なもんだ。千歳女帝の威光ってやつか?」
「おれには分からん」
「即答か。少しは考えてくれてもいいだろ」
また、澱んだ橘の香気がする。雲雕の軽口には応じず、この香気が一体どこから流れてくるのかを探りながら歩いていくと、また天犬の群れに遭遇する。
天犬は野分たちの存在に気づくと一斉に吼えて躍りかかってくる。雲雕らと共に天犬を蹴散らしながら、野分はかすかな違和感を覚えた。
「風生はまるで嫦鬼の居場所が分かってるみたいだな」
「……偶然だ」
話したところで信じるまい。野分は肩をすくめて応じ、違和感の正体に思い至った。
先ほどから、嫦鬼は一方向に動いているのだ。彼らは獲物を求めて右往左往しているわけではなく、明らかに目的があって移動している。そしてそれは図らずも野分の行く先でもある――あの、鮮烈な橘の香りの源へ。
嫦鬼を蹴散らしながら、疾く、疾く。何かに突き動かされるかのように走る。行き着いた先は
人波から目当てを見つけるべく野分はぐるりと視界をめぐらせたが、香りが強すぎてかえって方向がわからない。まるで酒に酔ったかのように頭がぐらぐらとして、身体の均衡すら失いそうになる。その時だ。
「雲雕――!」
良く通る少女の声が耳朶を打つ。喜色の滲むその声を掻き消すかのように、子供の甲高い泣き声が次々と上がる。それが、嫦鬼から発せられたものだと分かるのにしばらくかかった。
野分が少女の声の方に向き直ると、白い旗袍姿で鹿毛に跨がっている。
あれだ、と直感した。野分が、嫦鬼が、探し求めていたのはあの少女だ。不老不死をもたらす仁保里の蚕女にして、己の妻。
嫦鬼たちは鳴きながら少女たちに手を伸ばす。襲いかかるように、あるいは救いを求めるように。
「雅文!」
嫦鬼が少女たちに群がり、姿が見えなくなるや雲雕の顔色が蒼白になる。あの数の嫦鬼から逃げることは不可能だ。悲鳴を上げる間もなく、いくつもの爪や牙に四肢を裂かれてしまうに違いない。
悲惨な結末を覚悟した刹那、野分たちの眼前で信じられぬことが起きた。
「オン・アミリトドバン・ウン・パッタ・ソワカ! 甘露発生尊に貴命し奉る! 悪鬼の猛る
いとけない少女の声がまじないを唱えた瞬間、金色の炎が立ち上り、嫦鬼を焼き尽くす。嫦鬼は悲鳴を上げ、もがき苦しみながら倒れ込み、二度と動かなくなった。
通りは一転して、静けさに沈んだ。逃げ惑っていた人々も、何が起きたのか分からないという表情を浮かべて、通りの真ん中に積み上がった人の骸を見つめる。
やがて、その中から助けを求めるような少女の細腕が出てきた。
「……!」
雲雕がすぐさま反応し、野分も続く。
嫦鬼――だったはずのそれは、大量の遺体となって重なっている。老若男女を問わず、やせこけてはいるがごく普通だった。確かに炎に包まれたはずなのに、肌には火傷ひとつなく、人ならざる要素もない。
骸の山から這い出た雅文の髪は乱れ、旗袍に血が散っていたが、彼女自身に怪我はなさそうだ。雲雕の顔を見ると安心したように笑う。
その雅文にしがみついていた紅い着物の少女が、気息を整え、顔を上げた。夢で見たままの美しい顔立ちの少女は、野分の影に気づくと淡く微笑んだ。
野分は手を差し出す。夢の中ではどれだけ手を伸ばしても捕まえられなかった少女の小さな手が、野分の指をしっかりと掴んだ。その現実の感触に肌が粟立つのがわかった。
畏怖か、恐怖か、それとも歓喜か。その全てがない交ぜになったものを、人は運命、あるいは天啓と呼ぶのかもしれない――
「ようやく迎えに来たのかえ、野分」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます