第14話 脱出

 フランス租界はここに屋敷を構える貴族や裕福な商人が協力し、租界の境界に門を設けて私兵を雇い、四六時中警護させている。フランス租界への出入りも管理されており、その責任者は公董局刑事の黄金栄だった。


 これは杜月笙とげつしょうの発案と言われる。杜月笙は黄金栄の腹心だが、彼は黄金栄よりもその夫人・桂生けいせいに気に入られている。


 黄金栄と桂生夫人の仲は良好とは言い難い。しかしながら、上海における鴉片売買の成功は桂生夫人の手腕によるところが大きく、黄金栄にとって頭の上がらない存在だ。


 その桂生夫人を味方につけ、頭角を見せ始めた杜月笙と黄金栄の溝は次第に深まりつつあるという。


「朱小姐シャオジエ、準備はできた?」

 金蓮のそばについていた雅文がもんは、ノックの音に気づいて扉を開ける。そこには礼装姿のベネディクトと、黒一色の長袍に身を包んだ青年が控えていた。


「ああ、朱小姐とは初めて顔を合わせるね。彼は張天籟ちょうてんらい、僕の個人的な従者だよ」

 雅文の訝しげな視線に気づいたのか、ベネディクトは道袍の青年を紹介した。

 長身で品の良さそうな好男子だ。年頃は不明瞭だが、ベネディクトとそう変わらないだろう。目が細くて唇は薄く、水墨画のごとく幽玄な印象を受けた。


「初めまして、あたしは……」

香幇シャンパンの朱雅文でしょう。上海にいて、あなたを知らない人はいません」

 張天籟は拱手すると、美しい北京語を紡いだ。どこかぼんやりした顔の印象とは裏腹に、その声には詩吟のような流麗な響きがあった。


「急かしてすまない。とにかくフランス租界を出よう」

「どこへ行くの?」

匯中飯店パレス・ホテルだよ。朱小姐にはパートナー役を頼みたい。ここにいるよりは安全だ」

「そんなの、あたしじゃなくてもいいじゃない」

「あいにく都合がつかなくて。パートナーという言葉が不適切なら、護衛と言い換えるよ」

「護衛が必要なパーティって、本当に安全?」

 雅文は呆れたが、ベネディクトはあくまで生真面目に応えた。


「危険性でいえば大差ない。でもフランス租界ここの兵より黄大亨ダーホンの警備のほうが勤勉かもしれないね」

「黄大亨……って」

 そう呼ばれる人物はひとりしかいない。青年が雅文の考えを察したように頷く。


「うちは青幇と何かと摩擦が絶えなくて。たまにはご機嫌伺いしておかないとね」

「前から気になってたんだけど、李先生の商会ってどこなの?」

 雅文の質問に、ベネディクトは少し逡巡してから口を開いた。

「……聖桀洋行せいけつようこうだよ」

 雅文は息を呑む。それこそ上海にいて、その名を知らない人間はいないだろう。


 聖桀洋行は上海租界が成立して間もなく、大々的に鴉片売買を行い、莫大な財産を築いた商会だ。ベネディクトの家は相当な富翁お金持ちだろうと察していたが、まさかそんな大商会の名が出てくるとは。


「君は招待客ではないけど、『上海の瑤姫』なら歓迎してくれるよ。いずれにせよ、嫦鬼よりやっかいってことはない」

 安心させようと微笑む青年に、雅文は首を横に振る。 


「あたしは……遠慮しておく」

 雅文は自身の肘の辺りを落ち着きなく触りながら答えた。ベネディクトは雅文の返答に見当がついていたのか「そうか」と苦笑しただけだ。


「朱小姐の気持ちは尊重したい。だけど上海に住む限り、彼らと無関係でいることはできない――香燈会こうとうかい花香琳かこうりんでさえね。内心はどうあれ、付き合わざるを得ない」

「わがままだってことは分かってる」


 ベネディクトの言うことは正論だ。

 黄金栄の表向きの肩書きは仏租界公董局の敏腕刑事だ。嫦鬼の排除という共通の目的もあり、香燈会大亨・花香琳とは友好関係にある。


 黄金栄の肩書きと実態が乖離していることは公然の秘密だ。青幇を真正面から糾弾できる人物も組織もない。ましてや青幇は要人暗殺や競合相手の買収や謀殺、調略といった手法に躊躇いがないのだ。そのような相手に、正道で勝てる力が香燈会にはない。


「李先生、今まで匿ってくれてありがとう。だけどあたし、茶楼に戻る」

 雅文の意志が固いと見て取ったか、ベネディクト青年は諦めたように少し笑った。


「構わないよ。僕は僕にとって都合のいい提案をしただけだ」

「勝手ついでに、李先生に金蓮を預かってもらいたいの。また徐陶鈞たちが茶楼にやってくるかもしれないし」


 聖桀洋行の要人に頼むことではないが、さすがの徐陶鈞も参事会に名を連ねる大商社には手を出せまい。李家天主堂のカタリナも、無辜の子供を略売するような人物には見えなかった。金蓮を匿うには最適だ。


「――待たぬか」

 と、口を挟んだのは、当の金蓮だ。

 いつの間に目覚めたのか、ベッドの上で膝を揃えて座っていた少女が、あくびをひとつこぼしてかた、雅文に向かって小さな手を伸べる。


「雅文、連れて行ってくりゃれ」

 雅文は困ったように金蓮を見つめ、救いを求めるようにベネディクトに視線を移した。だが、青年は説得するのは雅文の役目だと言わんばかりに、肩をすくめただけだ。


「今の状況分かってる? 外はものすごく危険なの。死んじゃうかもしれないのよ」

「そんな中、ぬしはひとりで行くというのか? それこそ正気ではなかろう」

「あたしひとりなら何とかできる。けど、誰かを守りながら戦う自信はないし……」

「――雅文、わしを連れてゆけ」

 端座した少女が有無を言わさぬ口調で告げ、雅文を見据える。金蓮の瞳の中、まるで炎のように朱金の輝きがゆれる。その強い意志の光に雅文は息を呑んだ。


 金蓮が人間ではない、という事実を受け入れることにまだ抵抗があった。金蓮のことをただの少女だと思いたかった。しゃべり方と態度が尊大な、少し変わった少女だと。それ以上を、考えたくなかった。


(だって、嫦鬼と関係があるかもしれないなんて……)

 信じられないし、怖い。躊躇する雅文に焦れたのか、金蓮の小さな手が雅文の太腿の辺りを叩いた。


「ちょっと、何するのよっ」

「よく聞け。わしは、切り札ぞ。簡単に手放すのは考え物じゃぞ」

「どういう意味?」

「今に分かる。少なくともぬしの足を引っ張るような真似はすまい」

 金蓮が薄い胸を張って断言する姿に、雅文は頭を抱えそうになる。さっきまで金蓮が放っていた気魄は一体どこへ行ったのやら。


 雅文は大きく息を吸って、金蓮を抱きかかえる。いくら小さいといっても、それなりに体重はあるはずなのに、彼女は見た目よりも遙かに軽い。

「わかった。あたしを助けてくれるのよね?」

「衆生済度はわしの役目ぞ」

「ずいぶんと立派な使命をお持ちですこと」

 雅文の皮肉に、金蓮は鼻で笑っただけだ。


「話はまとまったかい?」

 ベネディクトに訊かれて、雅文は頷いた。なんだか真剣に悩むのが馬鹿馬鹿しくなってきた。


「車へ。途中まで送ろう」

「いらない。代わりに馬を一頭借りてもいい?」

「いいのを貸そう。無傷で返してくれるとありがたいけど……」

「それは保証できないわね」

 間髪を容れず返す雅文に、ベネディクトは笑う。

「逃げるなら白賽仲門バイサイヂョンメンにするといい。まだ嫦鬼はいないようだから」


 そんなやり取りを交わしながら、玄関ホールに向かう。獲物は持たなかった。馬上で武器を扱う技量はないし、例え持っていたとしても、嫦鬼を一人で倒すことはできない。金蓮を抱えながらでは尚更だ。


 フランス租界を脱出し、金華茶楼にたどり着くことだけが目的なのだから、余計な荷物はないほうがいい。


「天に坐す我らが父の加護が、朱小姐、君の上にもありますように」

「ご丁寧にどうも。ついでにあたしの守り神の加護を祈りましょうか?」

「異国の神から加護を得たことで、機嫌を損ねないといいんだけれど」

「だとしたら狭量だわ。加護は多い方がいいに決まってるでしょ」

「その発想はなかったな」


 マクラーレンの開いた扉を潜ると、そこにはすでに厩番が馬引いてそこにいた。

「危ないことに付き合わせてごめんね」

 雅文はわずかな間相棒となった馬の首を叩いてから金蓮を先に鞍に乗せ、自身もひらりと跨がる。


 ベネディクトの言うとおり良い馬だ。美しい鹿毛がつやつやと輝いていて手入れも良い。知らない人間を乗せても動じる気配もなく、馬首を返すと賢そうな瞳で雅文を見つめてくる。


「――朱小姐。君が僕のことで腹を立てるのも当然だと思うけれど、志は同じだということを忘れないで欲しい」

「……別に、全部が全部、李先生のせいだとは思ってないわ」

 不意に真面目に言われて戸惑った雅文が、小声でぼそぼそと言い訳するように答えると、ベネディクトは安堵したように笑った。


「では、また会おう」

 トップハットを持ち上げて会釈した青年に、雅文も馬上から黙礼を返し、馬の腹を蹴った。

 白い旗袍と紅い着物という華やかな取り合わせの少女二人を乗せ、鹿毛は軽やかに屋敷の門を出た。

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