第二章 蚕花娘子《ツァンファニャンズー》
第13話 金の蓮
真っ白なテーブルクロスの上に、輝く銀食器が規則正しく並ぶ。ベーコンやスクランブルエッグ、マッシュポテトに、薫り高い紅茶。
従僕の振る舞いも言葉遣いも、茶楼の女給たちとは比べものにならない。金華茶楼の評判は徐々に上がりつつあったが、酒店としての格はまだまだ低い。本場のマナーを知る貴重な機会なのだから、しっかり記憶に刻んでおきたかった。
李家天主堂にいた雅文を迎えに来たのは、ベネディクトの執事・マクラーレンだった。
「当家の主人に代わり、朱
折り目正しく一礼する老紳士に、どこへ向かうのかを尋ねるとクロウリー家の屋敷だという。
道中、マクラーレン老はいきさつを語った。雅文が李家天主堂に隠れている間、
そこでベネディクトが、香燈会で匿うよりも一見無関係の自分の元にいるほうが安全なのではないか、と香琳に申し出た。
香琳はやむなく彼の提案を受け入れ、かくして雅文はフランス租界にあるクロウリー家の屋敷の立派さに、あんぐりと口を開けることとなった。
「たまには世話をされるのもいいだろう?」
朝食、といっても時間は十一時だ。雅文の感覚では昼も同然なのだが、ベネディクトにとってはこれが普通らしい。
「あたしは働いてる方が気が楽だけどね」
高そうなティーカップに注がれた紅茶に遠慮なくミルクを足しながら、雅文はぼやいた。
「わしは世話をされる方がいいな」
にっこりと微笑む赤い着物の少女を見やり、雅文はため息をついた。
白磁のような肌に長い漆黒の髪、朱金のきらめきを閉じ込めた
雅文が連れ出した繭の少女は、翌朝目覚めると一方的に何かまくし立て、雅文を困惑させた。
彼女が何を言っているのかさっぱり理解できなかったのだ。どうやら日本語らしいと気づいたのは、ナガサキとかキョウトとか、雅文でも聞いたことのある都市の名前を聞いたからだ。
つたない英語で通訳を連れてくるから待て、と言ってみたが、少女は顔をしかめて悪態を吐いた。
そういうのは言葉が違っても雰囲気で通じるもので、ベネディクトが帰ってきた時には二人して互いの言葉で罵り合っていた始末だ。
「――金蓮(きんれん》、あなたこれからどうするの?」
雅文がそう尋ねた相手の前には、銀食器とブルー&ホワイトの皿ではなく、艶やかな漆器の椀が置かれていた。
盛られているのは米と少しの青菜と氷豆腐、汁物――日本で精進料理と呼ばれるそれは、成長期の少女には物足りない内容に見える。
「迎えが来る故、待っておる」
「……迎え?」
「うむ」
金連は自信満々に頷く。茶碗を両手で抱え、白湯を口に含んだ。
「いつかは分からぬが、我が聟花が来てくりょう」
と、万事この調子で要領を得ない。
ベネディクトを介して、どこからどうやって上海に来たのかを尋ねてみても「わしは先ほど生まれたばかりゆえ、よう分からぬ」。名前すらも「好きにつけよ」という。
いつまでも名無しというのも不便なので、『金蓮』と呼ぶことにした。少女に名の所以を問われた雅文は、軽く首を傾げて答えた。
「小さい足の美称よ。『金瓶梅』に出てくる女の人の名前でもあるわね。足が小さくて絶世の美女」
雅文の回答に、少女がまんざらでもなさそうに「ほう」と声を上げた。
あえて口にしなかったが、『金瓶梅』の藩金蓮は正妻を差し置いてわがまま放題し放題の典型的な悪女である。
雅文の提案に、ベネディクトが困ったような顔をこちらに向けた。
「……
「あるわよ。
「確かに、そういう解釈もできるけれど……」
ベネディクト青年が困惑気味なのも分からないでもない。世間一般では『金瓶梅』は禁書、平たくいうと官能小説だからだ。世の母親が十五やそこらの娘に進んで読ませる類いの話ではない。
こうして、ベネディクトの屋敷に世話になること早一週間、その間に金蓮はすっかり上海語を操れるようになっていた。
「聟だか何だか知らないけど、日本に帰っちゃったほうがいいんじゃないの」
「おそらく戻れぬ。戻らぬほうが良い。わしの勘がそう告げておる。それに迎えはそう遠くない」
「それも勘?」
軽い冗談のつもりだったが、金蓮は真剣な面持ちで頷くのみだ。
「ところで、べねでくとと申したか。そこな娘はぎゃいぎゃいとうるさい。下女には別の者を寄越せ」
と、これは金蓮が日本語で発した。雅文には内容が理解できなかったが、少女のしかめ面と声音で悪口であることは察した。
「李先生! さっさと訳して!」
「お断りするよ。喧嘩の仲裁は骨が折れるからね」
優雅なダイニングルームに見合わぬ姦しい朝食を終え、金蓮は少し眠る、といって恐る恐る椅子から降りた。
金蓮の動きはぎこちない。身体に釣り合わない小さすぎる足が、彼女の歩行を阻害しているように見える。頭がふらふら揺れて、いつこけるかとそわそわして落ち着かない。
結局、雅文が金蓮を抱えて客間へ連れ帰った。抱えられた少女は早くも寝息を立て始める。当初より目覚める時間が長くなったが、彼女の一日は食事をするか眠るかしかない。金蓮曰く、まだ成体ではないため不安定なのだそうだ。
少女を客間の寝台に横たえると、彼女の赤い衣がするすると少女を包んでひと抱えほどの赤い繭に変化する。
(金蓮は、人間じゃない)
人の姿をしているけれど、鬼か化物の類いだ。そうでなければ目の前の現象に説明がつかない。
「……李先生。あの子、何者だと思う?」
ダイニングルームに戻った雅文は、紅茶のカップを傾けている青年に尋ねる。
「さあ。僕に分かるのは、彼女は日本の近畿圏の出身かもしれないってことだけだよ」
「なんで分かるの?」
「彼女の話し方。京都に滞在したことがあるけど、よく似てる。アクセントが特徴的だからね」
日本にも大陸と同様、方言が数多く存在する。その中には大陸の声調と似通った発音をする地方もあるらしく、金蓮の言語習得が早いのも、それが一因かもしれない、とも。
「それ以外は皆目見当もつかないな。でも、繭になる生き物と言えば蚕、だろうね。
それは『捜神記』の中の一編で、あらすじはこうだ。
さる役人が遠くへ出かける際、娘が一人で留守番をすることになった。
娘は一頭の馬を可愛がっていたが、父親の不在を悲しんで、こんな願いを口にした。
『もしお前が父親を連れてかえってきてくれたらなら、私がお前の嫁になろう』と。それを聞いた馬は父親の元に飛んで行き、父親は馬の様子を不審に思い、娘の元に帰ってきたのだった。
その日以降、馬は娘を見かけるたびに喜び、悲しみ、足をふみならす。これが一度ならず起きるので、不思議に思った父親が娘に尋ねると、件の約束のことを口にした。驚いた父親は娘に『このことは誰にもいうな。家門の恥になる』と告げて娘を家に閉じ込めると、石弓で馬を殺し、皮を剥いで庭に広げた。
これで安心だろう、と父親が出かけた後、娘はとなりの娘と剥がされた馬の皮のそばで遊ぶことにした。
『畜生の分際で私を嫁にしたいなどと考えるから、皮を剥がれたのよ』
その娘のことばが終わらぬうちに、馬の皮が娘を包んで飛んでゆき、行方不明になってしまった。
数日後、娘と馬の皮が大木の枝にかかっているのが見つかった。娘は馬の皮にくるまったまま蚕になって、樹上で糸を吐き出していた。
その繭はとても大きく、普通の繭と違っていた。となりの娘がこの蚕を育てたところ、数倍の糸がとれた。
人々はこの大木を桑と名付け、挙ってこの蚕を飼うことにした――
「細部は変わるけど、同様の伝承が各地に残っているよ」
「よく知ってるわね……」
言葉を聴いただけで出身地を絞れるだけでなく、こちらの古い小説にも精通しているとは。ベネディクトの博識ぶりには舌を巻いてしまう。
「日本の養蚕は百済の民が持ち込んで、蚕神と馬の伝説やオシラさま信仰になって定着している。けど……」
ベネディクトはそこで言葉を切った。曇った表情から察するに、あまりよくない想像に思い至ったのだろう。
雅文もまた、気づいてしまった。馬の皮に包まれた娘の姿は、繭に包まれていた金連と重なる。だが、それ以外にも連想するものがあることに。
「
あの化物の血は真っ赤な糸のようだ。絹糸のように細く繊細で、跡形も残らず消えてしまう。
蚕花娘娘に語られる、娘が蚕と化し糸を吐いて死ぬ様が、雅文に得も言われぬ嫌悪感をもたらした。
「どうやら、彼女を日本に帰してどうにかなる話じゃないみたいだね」
磁器のカップを置いたベネディクトは、珍しく真剣な眼差しで呟いた。
二人の会話の切れ目を見計らったかのように、従僕がベネディクトに声をかける。
「旦那様、張老師からです」
従僕が差し出した銀盆には、メッセージカードのようなものが乗っている。ベネディクトがカードを取り上げて内容を確かめると、ちらりと雅文に視線を走らせる。
「休暇はもう終わりだ。嫦鬼がフランス租界に現れたそうだよ」
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