第12話 暗雲低迷

 金華茶楼は清朝の半ばまでは青楼ぎろうとして栄えていたという。かつては鮮やかな花緑青だった柱の色は現在、朱色に変わっている。


 昼間は店名の通り、茶と茶請けの菓子や軽食を提供しているが、夜は社交界の名士が会食に用いる酒店となっているようだった。


 野分のわきは扁額の掛けられた立派な門を抜け、茶楼の扉を開く。応対したのは屈強な男だった。


「すまないが、今日は営業してないんだ」

 男は不審そうな目つきで野分を上から下まで検分しながら告げる。


「食事のために伺ったのではありません。こちらに方雲雕ほううんちょうという方はいらっしゃいますか? 風生ふうせい、と言えば伝わるかと」

 野分は帽子を脱ぎ、丁寧に尋ねる。男は野分を店に入れ、少し待ってくれ、と言い残して奥へと引っ込んだ。


 雲雕を待つ間、手持ちぶさたの野分は花庁ひろまを見渡す。 

 昼時を過ぎてどこか気だるい空気の中、広々とした空間に点在する丸い卓のひとつで若い娘たちが雑談に花を咲かせている。皆揃いの白い旗袍を着ているところを見ると、ここの女給だろうか。


 野分の姿を見る少女たちの間に一瞬緊張が走ったが、ややあって笑声が上がり、雑談が続く。彼女たちが笑った理由も、何を話題にしているかも、さっぱり分からない。

 女の会話の速度についていくのは至難の技だ。少なくとも、飯田家の男たちの間ではそれが共通の認識である。


 床はつるりとしていてまだ新しく、西洋建築の影響を受けたのだろう幾何学模様ヘリンボーンの寄せ木張りだ。吹き抜けになった天井からは大きなシャンデリアが三つ吊され、まるで花庁を見下ろすように、ぐるりと廊下が取り囲んでいる。下宿を兼ねていると聞くから、上階は宿なのだろうか。


 つと左に目を向けると窓越しに中庭が見える。青々とした庭木に囲まれた四阿は実に風情がある。その風情にそぐわぬ、荒っぽい男たちが哨戒しているのが視界に入った。


「しばらくぶりだな。一体どうしたんだ? 何か分かったのか」

 雲雕の声に振り向けば、ちょうど左奥の扉から出てきたところだった。

「残念ながら、大して進展していない。先日、こちらでもめ事があったと聞いた」

「それでわざわざ尋ねてくれたのか。立ち話もなんだ、座ってくれ」

 雲雕に勧められ、野分は大人しく従った。雲雕が女給たちに目配せすると、その中の一人が渋々立ち上がり、厨房のほうへと消えた。


 ほどなくして、くだんの少女が木箱を抱え、慎重な足取りでこちらの席にやってきた。

 野分が軽く会釈をすると、少女は戸惑い、助けを求めるように雲雕を見る。雲雕は少女から木箱を受け取り、俺がやるからと言って下がらせた。


「悪いな。ここんとこ厄介なことに巻き込まれているせいか、みんなぴりぴりしてるんだ」

「構わない。慣れている」

 母曰く『あんたは黙って立ってるとお不動さんみたいなんよ』だそうだ。店先にいると客が逃げるから奥へ行け、と追いやられたものだ。


「別に、風生を怖がったわけじゃねえよ。あんたは最近来た客の中では上等なほうだ」

 雲雕は笑い、木箱を卓の上に置く。蓋を開くと簀の子状の内蓋があり、その中に鎮座した茶具が姿を見せた。


 工夫茶ゴンフーチャというものだろう。話は聞いたことはあるが、あいにく野分は風雅な趣味とは無縁だ。そんな野分に、雲雕は慣れた様子で道具を取り、ひとつひとつ説明をした。


「南市で調べ物は骨が折れたんじゃないか?」

 雲雕が宜興紫砂ぎこうしさ茶壺チャフ―に茶葉を入れたところで、先ほどの少女が薬缶を持ってきた。雲雕は茶壺に熱湯を注ぎ、口に浮かんだ茶葉の灰汁を落とし、ゆっくりと蓋をした。大男の外見に似合わぬ丁寧な手つきだ。


「……協力的だとは言い難かった」

 野分は苦々しく吐き出し、雲雕は呵々と声を上げる。


 南市での聞き込みは難航した。こちらを官憲と疑い、取り合わないのはまだ可愛いほうで、大した情報もないのに都度金銭を要求する者、数を頼んで暴力に及ぶ者と数え上げればきりがない。近頃は野分が嗅ぎ回っていることが知れ渡り、姿を見せるだけで逃げられる。


「そりゃあ風生が悪い。同類でないのはすぐに分かるからな」

 雲雕から菜譜を差し出され、野分は意図が分からず首を傾げる。

「営業していないのでは?」

「堅苦しいことは抜きだ。何がいい? 代金は気にすんな、俺のおごりだ」


 そういうつもりで来たわけではない。固辞する野分を、雲雕がまあまあとなだめつつ譲らない。挙げ句には「俺の腹が減ってるんだ」という。頑なに断るのも気が引けて、五仁月餅ウーニャンユエビンを頼んだ。


「南市に出回っている妙な薬とやらは見つからなかった」

「だろうな。俺たちだって、嫦鬼チャングイ退治は香幇シャンパンの自作自演、なんつう噂は本意じゃねえ。使える香幇員で散々探したが成果はなかった」

「それは先に言ってくれ……」

 つい愚痴がこぼれた。雲雕は「すまん」と軽く頭を下げた。


「風生なら、別の糸口を見つけられるかもと期待したんだが」

「期待に応えられなくて悪かった」

 雲雕は茶海チャハイに茶壺の中身を全て出し、白磁の茶杯に分けていく。明るい杏色の水色の茶は、鉄観音というらしい。小ぶりな茶杯を受け取って口に含むと、ほのかに水蜜桃の香がした。


 薬缶を持ってきた少女は次に月餅を運んできた。先ほどとは別人のように笑みを浮かべ、「ごゆっくりどうぞ」などと愛敬を振りまいて帰っていった。

「気に入られたみたいだぞ」

「あいにく、おれは妻帯者だ」

 相手の顔は夢で見ただけ、そもそも人間ですらないが、手続きを踏んでいる以上、嘘はつけない。


 雲雕が振り返って「残念だったな」と声をかけると、少女は「天哪ティエンナ!」と叫んで卓に突っ伏し、周囲で笑い声が弾けた。


「そういえば、『上海の瑤姫』の姿が見えないな」

 嫦鬼に勇敢に立ち向かう、現世に顕現せし瑤姫――朱雅文がもんの活躍は大きく紙面を割かれ、巷間を賑わせている。香幇の方雲雕も名が通っているようだが、朱雅文のそれには遠く及ばない。銀幕女優か京劇役者並の熱意をもって歓迎されているようだった。


「ああ……雅文は今、取り込み中だ」

 雲雕の眉の辺りが曇り、歯切れが悪くなる。野分の追及を避けるように、月餅の皿を手元に寄せた。花模様が型押しされた五仁月餅は、大の男の掌ほどあり、想像より大きい。


 雲雕が切り分けると、ぎっしりと木の実の餡が詰まっている。月餅の名の通り、中秋の名月の際に食すのが習慣だが、金華茶楼では名物として年中提供しているようだ。


「もめ事の件と何か関係があるのか? 下宿人同士で刃傷沙汰が起きたらしいが」

「えらく大げさに伝わったもんだな。確かにいざこざはあったが、ちょっとした行き違いだ」

 雲雕はたいしたことはないと明るく振る舞うが、野分が訪ねた時の様子や、中庭を哨戒する男たちの姿を見ると鵜呑みにはできない。


「風生、そんなことを訊いてどうするんだ。上海日報の記者ってのは一茶楼の醜聞にかまかけるほど暇なのか?」

「……いや、単なる興味だ」

 どうにも触れて欲しくないようだ。野分は話題を変えた。


「妙な薬はともかく、聖桀洋行せいけつようこう鴉片アヘン中毒者を囲っているというのは本当らしい」

 聖桀洋行は連工局参事にも名を連ねている貿易商社だ。大陸はもちろん日本にも複数の支店を持つ。正式名称はセントジャーメイン商会、創始者はイギリス貴族のウォーターフィールド卿だ。


 聖傑洋行は上海租界が成立して間もなく鴉片売買に参入し、多大な利益を上げた。そも、鴉片戦争の開戦にはウォーターフィールド卿によるロビー活動が背景にあったとされている。


「南市には聖桀洋行出資の加療院が多い。治癒の名目で中毒者を放り込んでいるそうだ」

「自分のところの鴉片を使って人助け、か。偉いお人の考えることはわからんな」

 雲雕は皮肉にしては淡泊な口調で応じ、野分の前に切り分けた月餅の皿を寄越した。


「ところで、こちらには劉清穆りゅうせいぼくという御仁がいるだろう」

「劉大人ターレン?」

 雲雕は意外そうな表情をする。

「父が世話になったことがある。同姓同名の別人という可能性もあるが、会えるようならお会いしたい」


「へえ。孫中山先生を匿ったりしたのかい?」

「劉大夫は医者だ。孫中山と面識があったとは知らなかった」

「劉大人が医者とは初耳だね。別人じゃないか? まあ朱師兄しゅしけいと親しかったから、多少はそういう知識もあったのかもしれんが」


「その朱先生は……」

朱虞淵しゅぐえんは雅文の父親だが、もう亡くなってる。十五年前だ」

「そうか……では、劉大夫に連絡を取れるだろうか」

 野分の打診に、雲雕は唸りつつ月餅を口に運ぶ。思案するように咀嚼し、嚥下する。


「劉大人は忙しいお人で、上海には滅多にいない。いたとしても時間が取れるか分からん。劉大人なら、気持ちだけで十分だというだろうさ。もし、どうしてもというなら、風生の親父さんがどういう恩を受けたのか、教えてくれないか?」


 月餅をかじりながら問う雲雕の目には、油断ならぬ光が灯っている。これ以上の追及は難しそうだと内心でため息をつき、野分もまた月餅を一切れつまんだ。


「……言えないか?」

「説明するには複雑な話なんだ」

 両者の間に剣呑な沈黙が落ちる。女給たちのさえずりだけがしばし漂った後、野分は茶杯を空にして席を立つ。


「時間を取らせて申し訳ない。そろそろ失礼する」

「気にするな。役に立てなくてすまなかったな」

 雲雕の台詞に野分は首を振る。少なくとも劉清穆という人物が実在しているのは確からしい。恩田や常葉を疑うわけではないが、裏を取っておいて損はない。


(朱虞淵なる男の足跡を追ってみるか……)

 遠回りだが、正面から香燈会の内情を突いて、余計な疑いを持たれても厄介だ。野分が踵を返しかけたところで、雲雕に呼び止められる。


「……できれば、あんたとは争いたくねえなあ」

 雲雕の思わず、といった風情でこぼれた台詞に、野分は束の間逡巡してから頷く。

「おれも無用な争いは避けたいと考えている」

 では、と会釈した野分が雲雕に背を向けた瞬間、茶楼の扉が乱暴に開く。目の前に現れたのは些末な身なりの男で、見慣れぬ野分の姿に目を剥いた。


「どうした、小慈」

方師兄ほうしけい、大変だ! 法租界が嫦鬼チャングイに襲われた! どうしやしょう、朱小姐が……」

 小慈、と呼ばれた男は部外者の存在を気にかけてか、最後は声をすぼめて口を噤んだ。


 小慈の報告を受けた雲雕の顔色は、平静そのものだった。だが、瞳にかすかな迷いが浮かんでいた。


「……おれも手を貸そうか? 邪魔はしない」

 野分が軍刀を振って申し出ると、雲雕は覚悟を決めたらしい。直前までの逡巡は振り切って「頼む」と一言告げた。


 雲雕は「こっちだ」といって野分を茶楼の奥へと案内する。花庁を出て、廊下の突き当たりの扉を開くと、四方を囲まれた坪庭に出た。坪庭といっても中央に能舞台のようなものが設えられており、十二分に広い。


 雲雕の姿を見た部下たちが異常を察し、獲物を携えて集まる。雲雕もまた手下が持ってきた、長い柄の先に大きな曲刀がついた武器を担ぎ、仲間たちに軽く野分を紹介した。


「こいつは風生。俺たちの嫦鬼退治に付き合うという、酔狂な日本人だ。腕の方は……自ら助力を申し出るくらいだ、アテにしてもいいだろう」

「嫦鬼と相対した経験がある。貴国と日本の折り合いは良くないが、化け物に脅かされている現状を改善したい、という点では利害は一致しているはずだ。よろしく頼む」

「……ま、この通り、真面目な兄さんだ。ひとまずは信用してもいい」

 雲雕が口添えすると、男たちは相好を崩し、それぞれ簡単に挨拶を交わす。


 常葉の話では日本人への反感が強いということだったが、彼らからは敵意は感じない。反感を持っているのが一部なのか、それとも雲雕を信用しての反応なのかは図りかねたが、好意的であることに越したことはない。


「そいじゃ、いっちょお姫様を助けにいきますか」

 雲雕の悪戯めいた台詞に、男たちは「おう」と応え、獲物を掲げた。

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