第11話 李家天主堂へ

 この憂鬱な日々は、いつまで続くのだろう。


 徐陶鈞じょとうきんらは四合院の主屋を陣取ると、夜は妓女を連れ込んで酒を飲み、昼は茶楼に踏み込んで客に因縁をつけ、女給をからかい口説く。


 雅文がもんが抗議しても、香琳こうりんの恩人を追い出す気か、と怒鳴って手を出してくる。お陰で店には人が寄りつかなくなってしまった。

 香琳は金華茶楼の評判を落とさないよう忠告し、徐陶鈞も承諾したはずなのにこのありさまだ。


 茶楼には劉清穆りゅうせいぼくが残っていた。彼も徐陶鈞の振る舞いを憂い、注意をしているが、向こうには聞き入れる気配がない。人と会う約束があり、その人物に荷を渡したら出て行く、の一点張りだ。


「そのお方とはいつお会いになりますので?」

 と劉がやんわり探りを入れても徐陶鈞は、

「忙しい御大だからな、いつ会えるか分からん」

 と返してくる。


 劉の『大人ターレン』らしい礼節や物腰の柔らかさは、大半の人間が立派で品格があると評するはずだが、徐陶鈞には上っ面だけを取り繕っているように映るらしい。うるさい羽虫を追い払うような仕草をして、全く取り合おうとしない。


 劉大人も軽んじられていることは分かっているだろうに、怒るそぶりも見せない。雲雕うんちょうも度々部下のしつけをしっかりしてくれ、と要求してはいるが、過去の恩義をちらつかされては分が悪い。


(劉大人も雲雕も、人が良すぎるのよ!)

 雅文は肩を怒らせて徐陶鈞の元へ向かう。文句の一つも言ってやらないと気がすまない。


 わざと音を立てながら四合院の廊下を歩いていると、房室の扉が開く。出てきたのは徐陶鈞が連れてきた手下のひとりだ。咄嗟に身構えた雅文と目が合うと、男は「頼むよ」と声を潜めた。


「ちっと出て行く用事があるんだけどよ、荷を見ててくれねえか?」

「? どこへ行くつもりよ……」

 尋ねたところで、雅文は男の異常さに気づいた。彼はそわそわと落ち着きがなく、目が泳いでいる。額に冷や汗を浮かべ、手が震えている――鴉片中毒だ。


 一度依存してしまうと鴉片が吸いたいという欲求にあらがえず、鴉片を手に入れるためには何でもする。それこそ、邪魔をする人間を殺すことだって。流石の雅文も狂人の相手はしたくない。仕方なく頷くと、男は締まりなく笑った。


「徐師兄には内緒にしててくれよな」

 へらへらとした口調でそう言い残し、足早に去って行く。

(……呆れた。大の大人が薬に頼るなんて情けない!)

 彼らのこれまでの行いにいらだっていたこともあり、とてもではないが助けてやろうという気になれない。


「大体、なんであたしが連中の荷の見張りなんてしなくちゃいけないのよ!」

 小声で悪態を吐きながら、雅文はちらりと房室へやの中の荷に視線を走らせる。


(そもそも、何をそんなに大事に守っているのよ?)

 大したものでもないだろう、と高を括っていたが、徐陶鈞は荷のある房室に昼夜を問わず見張りを置いている。特別なものだ、という言葉は嘘ではないらしい。見張りのほうは勤勉ではないようだが。


(ちょっと見るくらいなら、いいわよね)

 ちくりと良心が痛んだが、傍若無人な彼らに気を遣う必要がどこにある。何より、好奇心が勝った。

 周囲に人がいないことを確認して房室に入る。中央に鎮座する木箱の天板にそっと手をかけると、意外なことに簡単に開いた。


 中にあったのは大きな紅い繭だった。雅文の腕で一抱えできるかどうかという大きさだ。

(何、これ……?)

 生き物、なのだろうか。よく見ると規則正しく胎動している。まるで眠っているかのように。


 息を詰めてしばらく眺めていると、繭に裂け目があるのを見つけた。雅文が恐る恐る指先で触れる。繭はかすかに暖かい。躊躇いつつも裂け目を広げてみると、耳が現れた。少し小さいけれど、ちゃんとした人間の耳が。


 雅文の心臓が大きく跳ねた。あたしは今、とんでもないものを見つけてしまったのかも――

 ごくりと息を呑みながら、指先でそろそろと繭を割いていく。白い輪郭をたどっていくと紅い唇が薄く開いて呼吸をしている。人だ。しかも、幼い少女だった。


 雅文は辛うじて悲鳴を飲み込む。この少女が何者であれ、ろくでもない男たちに閉じ込められている状況が、真っ当であるはずがない!


「……信じられない」

 雅文は箱から少女を抱え上げ、どうするべきかを迷った。

 警察に駆け込んで徐陶鈞を告発するか? いや、警察を頼ってもろくな捜査はしまい。香燈会で保護し、少女の両親を探すほうがまだ望みがある。ああ、まず劉大人に相談しなくちゃ――


「おい、小広! そろそろヤクが切れる頃だろ。待たしちまって悪かったな」

 思考を巡らせていた雅文は、突然ぬっと姿を見せた徐陶鈞に驚いた。徐陶鈞もまさか雅文がいるとは思っていなかったらしく、ぎょっとのけぞった。雅文が抱えているものに目を移した途端、徐陶鈞は形相を変えた。


「やっぱり荷を狙ってやがったな!」

 そう吼えて懐から匕首を取り出し、雅文に躍りかかる。いつもの癖で棍を構えようとして、両手が塞がっていることに気づく。まずい!


「手癖の悪い賤人アマには仕置きが必要だよなあ?」

「人さらいが偉そうに説教? この王八蛋恥知らず!」

 雅文の徴発に乗った徐陶鈞が、怒りにまかせて匕首を振りかぶる。雅文はなんとか刃を躱し、少女を抱えたまま主屋から院子にわに飛び出した。


 背後から徐陶鈞の罵倒と風を切る音がしたと思うと、鋭い痛みが雅文の二の腕に走る。徐陶鈞の投げた匕首が肌を裂いたのだ。血が流れるのもお構いなしに、茶楼の方へ駆け込んだ。


 雅文が荒々しく扉を開いた先にベネディクトの姿があった。どうやら外出の予定があったらしく、燕尾にトップハットという正装だった。


「朱小姐シャオジエ? そんなに慌てて……何があった?」

 雅文の只ならぬ様子に、青年の顔が引き締まる。雅文は見知った顔に安堵のため息をこぼしたのも束の間、にわかに怒りが湧いてきた。


リー先生! あいつら誘拐犯だわ! この子を攫ってきたのよ!」

「朱小姐、少し落ち着いて」

「何よ、李先生は見捨てても平気なの!?」


 二人が言い合う間に、慌ただしい足音が増える。徐陶鈞とその部下たちのものだろう。雅文は痛みをこらえて少女を抱え直しながら、ベネディクトの腕を引っ張る。


「李先生も逃げて! 部外者だろうが平気で殺せる連中よ!」

「――そのようだね」

 促す雅文にベネディクトは固い声で応じるが、その場を動こうとはしない。一体何をもたもたしているのか、といらだつ雅文に向かって、ベネディクトは口を開く。


「朱小姐、その子は君に任せる。僕が足止めしておくから」

「は!? 何馬鹿なこと言って……」

 雅文の抗議を遮るように背後の扉が開き、徐陶鈞の部下の一人が姿を見せた。


「なんだてめえは!? その娘をこっちに寄越せ!」

「断る」


 ベネディクトは男の要求を言下に切り捨てる。常の柔和な物腰からは想像できない、低く冷徹な声音に雅文のほうが震え上がってしまった。

 恐れを知らない徐陶鈞の部下は、懐から獲物を取り出し裂帛の気合いと共に襲いかかってくる。


 ベネディクトが素早く進み出て雅文を庇う位置に立つ。青年が左手に携えた洋杖の柄頭に右手を添えた次の瞬間、雅文の眼前で閃光がひらめく。一瞬のことで何が起きたか分からなかったが、気づけば男は腕を押さえて呻き、獲物を取り落としていた。


「え……?」

 改めてベネディクトは右手に目をやれば、いつの間にか細い剣らしきものを携えていた。


聖桀洋行せいけつようこう大楼ビル近くにある李家天主堂を訪ねて、『シスター・アナベルの使いで来た』と言うんだ。頼んだよ」

 呆然とする雅文の目前で、青年は慣れた手つきで血振りをし、男から目線を外さぬまま小声で囁く。確認したいこと尋ねたいことはいろいろあるが、問い質している暇はない。


 それに何より、息を荒げてうずくまる男を、厳しい表情で見下ろしているベネディクトが、得体の知れない魔物のように見えて、雅文は少し怯んだ。


 ベネディクトに早く行けと急かされて、雅文は正体なく眠る少女を抱えて弾かれたように身を返した。


「あの女を追え! 観音を逃がすな!」

「僕を無視されるのは困るなあ……」

 追いついてきた徐陶鈞の怒声と、どこか緊張感の欠けたベネディクトのぼやきを背に、雅文は花庁へ続く扉を開け放ち、そのまま金華茶楼を飛び出した。


 ちょうど昼下がりで、四馬路スーマールーの往来は激しい。雅文はこれ幸いと人波に紛れ込み、ベネディクトの言に従って李家天主堂へ向かう。


 聖桀洋行大楼は外灘ワイタンに面する中山東一路二七号に立つ商業ビルで、『魔都』や『東洋のパリ』と名高い上海の、象徴的な景観の一角を担っている。

 その大きなビルのすぐ横に、李家天主堂はあった。鋭い穂先のような屋根と十字架の印で天主教徒カトリックの堂だと分かる。


 雅文は少女を抱えたまま二の足を踏んだ。異教徒のお堂では攫ってきた年端のいかない子供の目玉をくり抜き、薬にしていると聞く。何をされるかわかったものではない。


 追っ手を気にしつつも、聖堂には踏み込めずにいた雅文の目の前で門が開いた。出てきたのは黒い道袍のようなものに身を包んだ老女だ。


「我が教会にご用が……、まあ、怪我をなさったのね?」

 老女は丸眼鏡を押し上げ、雅文の二の腕に目を止めた。その滑らかな上海語と穏やかそうな瞳に警戒を解いた雅文は、少女を抱え直しながらベネディクトの言葉を思い返す。


「ええっと、あたしはしゅ雅文がもんと申します。こちらにはシスター・アナベルの使いで来ました」

 雅文の回答を聞くなり老女は素早く十字を切り、表情を引き締める。


「委細承知いたしました。こちらへいらっしゃい、手当をしましょう」

 なおもためらう雅文に、老女が近寄って肩を叩く。

「我々はシスター・アナベルに恩義があるのです。彼女の名に誓って、助力することをお約束いたします。――さ、急いで」


 雅文は老女に促されるまま聖堂の門をくぐった。老女は素早く門扉を閉じ、鍵をかける。

「すぐに迎えが参りますよ。それまでしばらくゆっくりなさい」

「迎え……ですか?」

「ええ」


 にこりと笑う老女に先導されて、雅文は門扉から聖堂に続く小道を進む。舗装された道を挟んだ左右には小さな菜園があり、瑞々しい緑が規則正しく並んでいる。


 雅文たちは聖堂と聖堂を囲む塀が生み出した細道を抜け、建物の裏手に回る。ビルに挟まれて窮屈そうな聖堂の裏に、意外なほど広々とした庭があった。遊んでいた数名の少女たちが、老女を見るなり駆け寄ってくる。


「シスター・カタリナ!」「昨日のお話の続きはまだ?」「ねえ、その子は新しく入ってきた子なの?」

 次々と投げかけられる質問に、老女――シスター・カタリナはゆっくりと腰を落として少女たちの目線に合わせ、微笑んだ。


「お客様よ。怪我をしているから手当てしなくちゃいけないの。また遊んでらっしゃい。後で、聖書の続きを朗読してあげますからね」

 カタリナの優しい声音に、少女たちはくすぐったそうに笑い、庭へと散っていく。カタリナはその姿を眩しそうに見送って、大儀そうに立ち上がった。


「騒がしくてごめんなさいね。あの子たち、ようやくここに慣れたところなの」

「いえ、お気遣いなく。ここは孤児院なんですか?」

「女子修道院ですが、一時的に預かることもあります。彼女たちは里親を得るか、奉公に出ます。中には修道女となる子もいますよ」


 李家天主堂は実業家の李聖三なる人物が、私財を投じて建てた聖堂だという。十六名の修道女が共に生活をし、月に一度聖堂内で作った菓子の販売や南市ナンシーでの炊き出しを行い、身寄りのない子供たちを保護しているという。


「私たちは一日のほとんどを祈りに捧げています。今この時も、です」

 街中にあるのにしんとしていて、十六人もの人間が共同で暮らしているようには感じられない。雅文は特別信心深くないが、彼女たちの修道を否定する気もなかった。


「たいしたおもてなしはできませんが、後でお茶を差し上げましょう」

 そう言って通されたのはこじんまりとした房室で、カタリナ曰く、行き場のない人々や遠方からの来客のために用意している客間だそうだ。房室の作りは意外にもこちら風で、衝立の奥に床榻しょうとうがある。


 カタリナは雅文から金蓮を預かると床榻に寝かせ、雅文には壁際の長椅子に座るよう勧める。

 傷口の処置のためにカタリナが用意したのは茶色の小瓶だった。蓋を開けると刺激臭がする。カタリナは丸めた綿布に褐色の薬液を染み込ませ、傷口に近づける。毒ではないか、と警戒した雅文が身を引く。


「これはヨードチンキですよ。傷口の毒を綺麗にするためのものです」

 カタリナはそう説明したが、得体のしれないものを塗られてはたまらない。固辞する雅文と一歩も引かないカタリナでしばし揉めたが、カタリナの「五歳の子供でももう少し分別のあるものです」という一言に折れざるを得なかった。


 薬液を傷口に軽く塗るだけでもかなり痛かった。悲鳴をこらえて我慢したが、カタリナの処置が終わって包帯を巻かれた後もじんじんとした痛みは続く。


(……本当にこれで治るの?)

 疑わしげな雅文にカタリナは「もう大丈夫ですよ」と笑い、道具を片付け始める。その間に、別の修道女が銀盆に白磁の急須と茶器を乗せてやってきた。

 金華茶楼でも工夫茶を出す手前、雅文にも多少の茶の知識があるが、修道女の持ってきた茶の香りは雅文にも初めてのものだった。


檸檬茅レモングラスと薄荷のお茶よ。気分がすっきりとして落ち着くわ」

「いただきます」

 真っ白な磁器の注ぎ口から湯気を立てた茶が注がれ、杯の中で明るい黄緑の細波を立てた。一口含むとかすかに苦く、春の草原のような爽やかな香気と柔らかな甘みが広がって、檸檬の香りと共に鼻を抜けていく。


「美味しい」

「それは良かったわ。あちらのお嬢さんには粥を用意したほうがいいかもしら」

 カタリナは衝立の向こうを心配そうに見つめる。雅文もつられて振り返り、金蓮の姿が見えないことに安堵した。何とはなしに嫌な予感がして、雅文は言葉を探る。


「ええっと……長居するわけではありませんし、結構です」

「遠慮なさらないで。ここを訪れた者は皆、主たる耶蘇やそとして扱うべし――それが私どもの教義ですから」

「大丈夫です、本当に。あの子、一度寝ちゃうとなかなか起きない子なんです」

 雅文が適当に言い募ると、カタリナは怪訝そうにしながらも、ならよいのですが、と引き下がった。


「では、迎えが来たら呼びに参ります。何か用があったらベルを鳴らしてちょうだい」

「ありがとうございます」

 雅文が頭を下げるとカタリナたちは十字を切り、房室を出て行った。 後に残された雅文は一息つくと、茶を一気に飲み干す。


 ここまで全速力で走ってきたせいで喉が渇いていた。謎の薬草茶はくせはあるが不思議と飲みやすく、急須の中身はあっと言う間に空になる。


 迎えとやらが来るまで手持ちぶさたになった雅文は、衝立をのぞき込んで少女の様子を探り――息を呑んだ。


 床榻に寝かせたはずの少女がいない。

 代わりにそこにあったのは、少女と同じ大きさほどの繭で、それは徐陶鈞の房室で見たものと相違なかった。


 徐陶鈞は言っていた。これは特別な荷で、お大尽にしか拝めない代物だ、と。雅文は徐陶鈞の言葉を軽んじていた。茶楼に居座るための口実だと決めつけていた。


「……これって、やらかしたことになるのかな……」

 雅文はただ、平穏な生活に戻りたかっただけなのに。

 目の前で起きたことにめまいを覚え、頭を抱えた。

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