第10話 不速之客

 愛多亜路に嫦鬼チャングイが出て一週間が経った。

 先日の雅文がもんの活躍が新聞に載ったことで、金華茶楼はますます人が増え、連日の行列に対処しきれないという嬉しい悲鳴が上がるのに比例して、冷やかしだけの客も増えてしまったのは頭の痛いことだ。


 ちょうどこの日、昼の営業を終えた茶楼に老板ラオバンの劉大人ターレンが姿を見せた。


「朱小姐シャオジエ、ご無沙汰しております」

 濃灰の長袍に渋色の馬掛を重ねた劉清穆りゅうせいぼくは、丁寧に揖礼をする。母・香琳との付き合いは短いものの、金華茶楼の経営を任すのに適任だと強く推されて支配人になった。


 劉は由緒正しい士大夫の家に生まれた。幼い頃から官吏となるべく勉学に励んでいたが、いつしか孫中山に傾倒するようになったという。

 袁の粛清から逃れるために行方をくらましていたが、再起の報を聞きつけると迷いなく香燈会に加わった人物である。


「仕方ないわ。劉大人が忙しいのはいつものことだし」

 金華茶楼の従業員とっては不在がちの差配人だが、香幇シャンパン内では金庫番として通っている。


 香燈会は金華茶楼以外に劇場や映画館を抱えており、その経営方針の決定や銀行との融資交渉など、煩雑な財務や経理を一手に担っている。下手をすると、香琳よりも頭が上がらない人物だ。


 早速、雅文が昼の営業中に起きたことを報告する。劉は常にどこか微笑んでいるような顔の造作もあって、不思議と親しみやすい。

 雅文は父親を知らないが、戦いとは無縁の医師だったという。もし生きていたのなら、劉のようであったかもしれない。


「私の配慮が足りず、申し訳ございません」

 雅文の話を最後まで聞き終えた劉は、真っ先にそう詫びる。

 劉は年若い雅文だけでなく、あらゆる人間に礼を尽くしている。茶楼の最年長たる蔡栄を差し置いて、大人ターレンと呼ばれているのもゆえなきことではない。


老蔡ろうさい雲雕うんちょうにも迷惑をかけてばかりで恐縮です。女給たちは難儀するでしょう。昼の分の給金は……」

「二人と相談して、臨時手当って形でつけてるの。勝手にしちゃってごめんなさい」

「構いませんよ、よい判断です。しかし、このまま昼も続けるようなら給金を含めて条件を変える必要がありますね」


 雅文が劉に同意したところで、バンバンと派手な音が耳に入る。驚いて振り返ると、揺れる扉のガラス越しに人影が映っている。


「おい、返事しねえか! 花香琳かこうりんはいるか!?」

 雅文は乱暴な呼び声に顔をしかめた。懲らしめてやろうか、と振り返った雅文の肩を、劉に素早く掴まれた。


「どうしたの?」

「ここは方師兄ほうしけいに任せたほうがよいでしょう。呼んできていただけますか?」

 劉はあくまで穏やかに告げたが、その双眸はいつになく緊張している。異常を察知した雅文は素直に頷いて雲雕の元へ走ると、彼は心得たように頷いた。


 雅文は劉の言いつけ通り、奥に引っ込む――ふりをして、蔡栄と一緒になって奥の扉の影に隠れ、こっそり花庁をのぞき込んだ。雲雕が慎重に店の扉を開くと、ぞろぞろと五名の男たちが雪崩れ込んできた。


 彼らの表情や着崩れた服の端々から漂うのは、煌びやかな魔都・上海の裏側や底辺に張りつき、凝っている悪臭そのもの。つまりは破落戸の類いだと一目で分かった。


「よお、達者だったか、雲雕」

 男は雲雕を親しげに呼び、にぃと笑う。その笑い方が卑屈っぽく、卑しい感じがした。


 香燈会の幇員は元官吏や挙人、武侠の徒が多く、比較的毛並みがいい。この男と雲雕に接点があるようには見えなかった。


「――徐師兄じょしけい

 応じる雲雕の声が堅い。雅文には、彼の背しか見えなかったが、それでも緊張しているのが分かった。


「まさかご無事だとは。再見は叶うまいと思っていました」

 雲雕はぎこちなく拱手する。雲雕が師兄、と呼ぶところを見ると香幇員なのだろうか。


「ご無沙汰しております。劉清穆でございます。長らくお姿を見ておりませんでしたが、ご健勝なようで何よりです」

 戸惑いが隠せない雲雕に代わって、劉が滑らかに挨拶をした。


「申し訳ございませんが、花仙姑かせんこはここにはおりません。後日、改めて場を設けましょう」

 やんわりと断る劉に、徐はにやけた顔を一瞬で引っ込め、形相を変えた。


「御託はいい、今すぐ香琳を呼べ!」

「徐師兄、話は必ず伺います。ですが今は、劉大人の言うとおり……」

「雲雕、師兄に向かって口答えするんじゃねえ! お前が今こうして香幇にいれるのは誰のお陰だ!?」

「……もちろん、徐師兄のお陰です」

「分かってるんなら、香琳を呼べ! 徐陶鈞じょとうきんが来たと言えばすぐに飛んでくるさ。俺を追い返したら破門されんのはお前の方だぞ、雲雕。それにな、俺には他にでけえ後ろ盾がいるんだ。そいつらが黙っちゃいねえぞ!」


 居丈高にふんぞり返る徐陶鈞を見て、雲雕と劉がさっと目配せをする。自分の要求が通りそうだと踏んだ徐は、勝手に席につき「女を出せよ」と横柄に言い放つ。


「こんなに立派な酒楼なんだ。さぞかし上玉もいるだろうよ。お前たちだって久々に羽根を伸ばしたいだろう?」

 徐は配下らしい男たちを振り返る。徐に賛同するように声を上げ、鼻の下を伸ばす男たちに向かって、雲雕はすみません、と詫びた。


「ここは妓院ぎろうじゃないんです。後でご案内しますよ」

「怖え顔すんなよ。女給くらいいるだろ?」

「徐師兄」

 懇願するような呼びかけにも、徐はにやにやと笑うだけだ。雲雕に助け船を出すように、劉が口を開く。


「徐師兄がいらっしゃると知っておりましたら、歓待しましたものを。ささやかではございますが、のちほど宴の席をご用意いたしましょう」

 徐は劉に小馬鹿にしたような目を向け、鼻を鳴らした。


「花仙姑に伝えてくれ。徐師兄が訪ねたといえば、あいつにも分かるだろう」

「かしこまりましてございます」

 徐陶鈞は、なんとしても香琳に会う心づもりなのだろう。らちが明かないと悟ったのか、劉は小者を呼びつける。香琳への伝言を繰り返した小者は茶楼を出て行った。徐はその背を見送って、再度ふん、と鼻を鳴らした。


「雲雕、五年ぶりに再見した阿兄あにをもてなしてくれよ」

 突然現れて横柄さを見せつけたかと思えば、今度は猫なで声を出してくる。気分のままに振る舞う徐の態度に、雅文は頬を膨らませた。横にいる蔡栄も、険悪な顔つきで徐を睨みつけている。


「わかりました。といっても茶しか出せませんが……」

 うろたえる雲雕に、徐はこれ見よがしに舌打ちをしたが、まあいいや、と手を振った。

「とっておきの茶を出してくれよ」


「――うるせえ、三下め。奴に出すような茶はうちにはねえよ」

 蔡栄が声を低くして悪態を吐く。まさか蔡栄の文句が聞こえたわけでもないだろうに、雲雕が振り返って懇願するような目を向けてくる。


 徐はともかく、雲雕を困らせるのは本意ではない。蔡栄は仕方なく茶の準備を始めた。

 給仕は雅文が請け負った。怯える女給たちに無理強いするわけにはいかないし、武道の心得も少々ある。雲雕もいるのだから大丈夫だ。覚悟を決めて茶道具を持って近づくと、雲雕の心配そうな視線とかち合った。


 彼を安心させようと小さく微笑むと、雅文が愛敬を振りまいたと勘違いした男たちが口笛を吹く。とっさに睨みつけるとますますつけ上がり、男たちは口々に聞くに絶えない卑猥な野次を連発した。


 我慢の限界を迎えた雅文は、抱えていた竹製の箱を卓に叩きつける。中に入っている茶壺や磁器の茶杯が割れそうな勢いに、一瞬しん、と静まりかえった。

 劉はにこにこしているが、雲雕が額に手を当てて天を仰ぐのが、雅文の視界の隅にちらりと映った。


小姐シャオジエは、客への礼儀を知らねえようだな」

 どろりと這うような声を出す徐に、雅文は笑いかけた。

「あら、ごめんなさい。客だったの? 全然分からなかったわ」

 まさか反論されるとは露とも考えてなかったらしく、徐はあんぐりと口を開けた。


「あたしは客には客の礼節があるものだと思ってたけど、あんたたちの脳みそには礼節のれの字もないみたい。だからてっきり家畜が喋ってるのかと勘違いしちゃった。昨今の家畜は上海語も話せるのね、感心するわ」

 雅文の唇から飛び出る辛辣な皮肉に、男たちが色をなすのがはっきりとわかった。


「さっきから黙ってきいてりゃ生意気言いやがって!」

「ちっとも黙ってないんだけど、もしかして話した端から忘れるの?」

「てめえ!」

 血気にはやった徐の部下が椅子を蹴って立ち上がる。いつ襲われてもいいように雅文が構えようとした、その時。


「――雅文!」

 厳しい声が割って入り、思わず身をすくめた。声の方向を振り向くと、小者を従えた四十女が立っていた。


「……媽媽かあさん

 花香琳は小柄な女だった。加齢と共に垂れ下がった頬はふっくらとして、一見福々しい顔立ちだったが、雅文を見据える瞳は炯と輝き、獣のようだった。


 香琳のまとう漆黒の長袍ちょうほうには真紅の牡丹の刺繍が咲き誇り、複雑に結った髪に差した簪と耳飾りは大ぶりの真珠で揃えている。きりっとつり上がった意志の強そうな黒目と、引き結んだ唇に差した紅は、妖艶と呼ぶには硬質で、近づきがたい凄みがある。


「うちの娘が失礼したね」

 香琳が男のように拱手すると、徐は満足そうに鼻を鳴らす。

「構わねえよ。女はちょいと威勢がいい方が可愛いからな」

 徐はまたにたっと笑い、嘗めるような目を雅文に向けた。


朱大哥しゅたいかの子か?」

「ああ、そうさ。忘れ形見なんだ、見逃しとくれ」

「へえ、朱大哥にはあんまり似てねえな」

「あたし似なのさ。娘は父親に似るなんてのは……ま、俗説だよ」

 答えながら香琳がさり気なく雅文を遠ざけた。が、徐の粘っこい視線が身体の線をなぞっているのが分かる。気持ち悪い。


「雅文、蔡老さいろうに茶請けを持ってくるよう伝えとくれ」

 香琳の助け船にこれ幸いと乗り込んで、雅文は厨房へと引っ込んだ。そこで包丁を握りしめていきり立つ蔡栄とかち合い、雅文はちょっと笑った。


「なんでぇ、あの連中。でけぇ口ききやがって、ああ? 気に入らねぇな」

「蔡老は大体の人が気に入らないじゃない」

 雅文が指摘すると、蔡栄はふん、と大きく鼻を鳴らした。


 香琳からの言付けを伝えると、蔡栄は皿に棗や山査子さんざし枸杞くこを投げつけるように盛り、まるで戦場に出向くかのような勢いで出ていった。

 厨房の裏に隠れた雅文は、聞こえてくる会話に耳を澄ませる。


「久しいな、花仙姑。よく生き延びた。さすがは天津紅灯照の女傑」

「徐陶鈞、あんたはしばらく見ないうちにずいぶん老け込んだね。よくのうのうと顔を出せたもんだ」

 二人の声音には旧交を暖めるというような響きはない。敵同士のようなやり取りだった。


「そうかりかりすんなよ。あの時は俺たちにも事情があったんだ」

「事情、ね。仲間を売り飛ばさなければならないような事情がどんなものか、ぜひとも教えてもらいたいもんだね」

「これでも俺たちは花仙姑に配慮したつもりだぜ? お前の知恵と機転がありゃあ無事逃げおおせるって信じてたからな」

「信頼してもらってありがたいね。で、今は誰に飼われてるんだい?」

「誰でもねえ。俺たちを縛るものはない。しがらみもだ。また革命をぶちあげてやろうぜ、次は俺とお前で」

「願い下げだね。あんたと一緒にいたんじゃおちおち寝てもいられない」

「つれねえな。昔はあんなに懐いてたってのに。世話してやった恩義も忘れたか?」

 徐が試すように問い、香琳が沈黙する。


「――ねえ、あの徐陶鈞と媽媽ってどういう関係なの?」

 給仕を終えて戻ってきた蔡栄にこっそり尋ねると、蔡栄は少しためらい、まあ、隠すようなことじゃねえか、と続けた。


「やつは雅文の親父、朱虞淵しゅぐえんの友人だったんだよ」

 十四歳で義和団紅灯照に入って以来、香琳は徐陶鈞と朱虞淵を師兄と慕い、共に中華民国建国に邁進してきた。彼らの関係にひびが入ったのは、袁世凱が皇帝となり国民党粛清に乗り出した時だ。


 香燈会も弾圧対象となり、逃亡を余儀なくされたのだが、その際、徐陶鈞が袁世凱と手を組んで、朱虞淵と香琳の暗殺を企てたのだ。


「はぁ!? そんなのさっさと追い出しなさいよ!」

「雅文の言い分ももっともだ。けどな、幇会ってえのは、なかなか縁の切れねえもんなんだ」

 香琳の一言で徐陶鈞を追放するのは簡単だ。だが、妹分である香琳が、目上の徐陶鈞をぞんざいに扱えば、幇会そのものの評価に傷がつく。


 徐陶鈞はよく言えば目端が利くが、悪く言えば狡っ辛い。よほど上手く追い出さなければ、かえって事態が悪化しかねない。


「花仙姑と同じような顔をしてるな」

 眉間に皺を刻む雅文に、蔡栄は苦笑する。


「雲雕も強く言えねえだろうよ。あいつにゃ徐陶鈞に拾われた恩がある」

 天津の片隅で食うに詰めて掏摸すりをしていた雲雕を、義和団に入門させたのが徐陶鈞だった。入門後も何かと雲雕の世話を焼き、雲雕からは実の兄のように慕われていたようだ。今の徐陶鈞の姿からは想像もできないが。


「――わかったよ」

 花庁のほうから響く徐陶鈞の声につられ、雅文と蔡栄は首を伸ばして様子を伺う。


「お前をアテにはしねえ。ただちょいと金に困ってんだ。房室を数日、貸してくれよ。踏み倒す気はねえ。後でたんまり金が入ることになってるからよ、ちゃんと返す」

 徐陶鈞の言い分に、香琳はたっぷり数十秒は沈黙し、深い息を吐いた。


「……昔のよしみだ。房室を貸してやってもいいが、これを最後にしておくれ。茶楼の評判を落とすような真似も遠慮してもらう」

「ああ。恩に着るぜ、花仙姑」

 徐陶鈞が立ち上がり、あごでしゃくって合図をすると、部下たちが一抱えほどある木箱を大儀そうに持ち上げる。


「大層な荷だ。鴉片アヘンじゃないだろうね?」

 香琳の詰問に、徐陶鈞はへらりと笑う。

「まさか。これはお大尽にしか拝めない特別なモンだ。茶楼の連中には手を出すなとよぉく言い含めておいてくれよ。な?」

 徐陶鈞はそう告げて、雅文と蔡栄のいるほうに含みのある視線を寄越す。慌てて首を引っ込めたが、こちらが盗むと決めつけるかのような言い方に腹が立つ。


(大事な荷だかなんだかしらないけれど、ろくなものじゃないわよ!)

 どうして、媽媽はあんな連中を受け入れてしまったのだろう。

 雅文は痛むこめかみに手を当て、小さくうめき声を漏らした。

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