第9話 革命の女たち
「一体何なんだろう、あれ……」
混乱する愛多亜路を離れた
「
運転手を務める幇員に確認されて、こくんと頷く。
「昔はいなかったんでしょう?」
「らしいですね。小刀会蜂起の後、増えたと聞きます」
「小刀会が広めたって言うけど、本当かなあ」
雅文が首を傾げると、幇員は「どうでしょう」と興味なさそうに相槌を打った。
小刀会は清軍や列強の駐留軍と交戦。やがて追い詰められると、太平天国を打ち立てた洪秀全との連携を図るため、同じ国名に改めたが、洪秀全は軍事には関わっておらず、連携は失敗に終わった。
いよいよ小刀会蜂起も鎮圧に向かうころ、『それ』は現れた。
県城には小刀会の幇員の姿はなく、代わりに見たことのない化け物が占拠していたのだ。彼らは悉く嫦鬼へと変じ、あるいは嫦鬼に変じた仲間たちに殺されたらしいが、数日後には痕跡は一切なくなり、文字通り見る影もなかった。
嫦鬼の急所は人と同じく、心の臓。首を落とせばなおいい。弱視であり、嗅覚が発達している。全身が毛に覆われ、手足が異様に長い猿がいれば、逆に手足が縮んで四つ足となった人面の獣もいる――魑魅魍魎さながらの一群に恐れを成した人々は県城から逃れ、以降、租界は華洋雑居の様相を呈した。
「ま、今頃首謀者がわかったってどうしようもないわよね。疫病だって噂もあるし、……?」
そろそろ
「すみません、朱
威勢のいいシュプレヒコールは労働環境改善を訴えるものだが、抗日デモも兼ねているらしい。
盛んに排日を唱えながら練り歩き、日本人が経営する店を荒らして回っている。そのとばっちりを受けた店の店主がデモ隊に噛みつき、殴り合いに発展する。デモというより暴動に近いそれを眺めつつ、雅文はため息をついた。
「仲裁しますか?」
「そこまでお人好しじゃないわよ。あなたこそ、どうなの」
「理想の高さは結構ですが、現実的ではありませんね」
「……とても国民党左派の台詞とは思えないわね」
香燈会は義和団紅灯照の壊滅を機に、花香琳が孫中山の妻・宋慶齢からお墨付きをもらうことで復活を果たした。
宋慶齢は二十二歳の若さで父親のような年齢の孫中山と結婚、夫の死後もその遺志を継いで国民党に尽くしている。渡米経験もあるこの才媛は控えめで優しく、誰もが親しみを覚える人柄だが、孫中山ただ一人のために生家を捨てるほどの情熱と覚悟を持つ女性だ。
同じく二十歳そこそこで革命に身を投じた花香琳とは、利害が一致するだけでなく馬が合うのだろう。その宋慶齢に請われ、党の役職を勧められたが辞退している。
母はあくまで宋慶齢の友人だと主張しているが、国民党内からは左派筆頭の宋慶齢に与し、国共合作を維持する立場だと認識されている。
右派の筆頭・蒋介石もまた孫中山の後継を自負しているが、党内の共産勢力排除を目論んでおり、宋慶齢とは対立関係にあった。
今の香琳は宋慶齢と蒋介石の仲立ちを務めている関係上、上海を離れがちであった。
「俺たちは香幇員であって国民党員じゃないですよ。
「相変わらずの忠臣ぶりだわね」
雅文は後部座席に背を預けながら、今日の予約客の名前を思い浮かべる。夜の金華茶楼は昼間とは全く違う。名士と呼ばれる人物が一堂に会することも多く、彼らの好みに合わせて料理の趣向も変わる。
給仕が馴れないフランス式だからといって、段取りを間違えてはならない。せっかく金華茶楼を選んでくれたのに、大事な客の顔に泥を塗ることになる。
昼の忙しなさも悪くないが、夜の緊張感のある現場も好きだ。雅文はまだ給仕をしているだけで、菜譜の内容や順番に口出しできない――客の嗜好は老板の劉清穆のほうが詳しく、料理のことはいわずもがな
(……
香琳が、今の中華民国を孫中山が理想とした民主国家だと考えているとは思えない。
袁世凱の、清国皇帝を退位させる代わりに自身が中華民国の初代皇帝とせよ、という要求を孫中山が呑んだあたりから、すでに理想が歪んでいたような気が雅文にはしている。
袁世凱が即位すると建国の功労者は一転、弾圧の対象となり、孫中山に献身的に報いた香燈会もまた狙われるようになった。
情熱だけで人生を駆けてきた香琳に、中華民国のことを諦めろとは言えない。香琳は雅文の母である前に香燈会の首領で、香琳の志に与する多くの人間の人生を背負う立場なのだから。そう、頭では理解しているけれど。
(
母や仲間の信念を無視し、国の窮状を見ない振りをして平穏な暮らしを望む雅文は、独りよがりなのだろうか。
消化しきれない想いのあれこれが詰まった深いため息が、雅文の口からこぼれた。
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