第8話 香幇の方雲雕
こういった場所に現れる嫦鬼は、仏英どちらが対処するか決まっておらず、放置されているのが現状だ。公董局は門をぴたりと閉ざし、警護に立つ支那人警官が他人事のように騒ぎを見守っている姿に胸の中がざらざらする。
――あいつらは敵を欺いたり、連携を取ったりしないからな。
実際、訓練された隊が各個撃破することは容易で、人を相手にするよりはましと漏らす新兵も多かった。
しかし、今の野分は単独で、相手にもよるが鉛玉一発で倒れるほど柔ではない。鞘袋から白露の刀を取り出し、現場に向かう。
愛多亜路には人垣ができており、悲鳴が聞こえる。それと同時に、野分は異質な臭いを嗅ぎ取って顔をしかめた。
爛熟しきった果実が腐り落ちるような甘く不快な臭気が、雑多な臭いが充満している中でもはっきりと漂ってくる。現場と思しき場所に近づけば近づくほどに腐臭が濃くなっていく。
その野分の視線の先、一回り大きな黒い猿のような影を捉える。逃げ惑う人々に逆らう形になり、上手く近づけないでいると、誰かがあっと叫んで指を指す。
釣られて目を向けると、まるで人波の上で船頭のように立つ大男の姿がある。男は薙刀のような獲物を手にしながら、群衆に向かって「そら、どいたどいた!」と叫ぶ。
「『上海の瑤姫』のお出ましだ! 巻き込まれたくなけりゃ道をあけろ!」
その台詞を耳にした人々が「
車両の後部に座っていた白い旗袍の少女が、群衆の熱狂に応えるように笑って手を振ると、一層大きな歓声と拍手が起き、野分は圧倒される。
馬を操る男たちが黒猿と距離を取りながら周囲を走る。彼らは一様に腰に香球を下げており、彼らが動く度に樟脳の香りが漂う。まるで樟脳の香が腐臭を吸い取っているかのように、薄くなるのを感じる。
誰かが、あれこそが香燈会の名の由来なのさ、と得意げに語るのが耳に入る。嫦鬼の出るところ樟脳の香が在れば、そこは香燈会の境界だ、と。
大男――方雲雕というらしい――は、慣れた様子で部下に指示を飛ばし、黒猿を取り囲む。見事なほど統率された動きだった。
民間の秘密結社だというから、素人が数を頼みに叩くのかと思っていたが、明らかに質が違う。
方雲雕の命令は兵法の心得がある者のそれで、彼の部下たちは年単位で訓練を積んでいるように見える。もし手こずるようなら助力を申し出るつもりだったが、その必要はなさそうだ。
野分は白い旗袍の少女を見やる。方雲雕はあの少女を『上海の瑤姫』と呼んでいた。どうも香燈会を象徴する人物のようだが、当の少女は棍を抱えて戦闘を見守っている。
二匹の黒猿はそのまま大人しく狩られるかと思いきや、最後の抵抗を見せる。幇員の作った人垣を破り、方雲雕・朱雅文二名の乗る車に突進した。
「――!」
反射的に刀の柄を握り、飛び出そうとした野分よりも早く、白い影がふわりと跳んだ。
たった数歩の助走とは思えぬ跳躍力、弓のようにしなる身体は曲芸師が見せる技のよう。全身のばねを使って繰り出された棍の先が、黒猿の側頭部を打ち据えるのをまざまざと見せつけられる。
黒猿は衝撃に耐えきれず、ふらふらと二、三歩歩んだところでどうと倒れる。そこへすかさず、方雲雕が獲物を振り下ろし、黒猿の首が飛んだ。
鮮やかな手並みに、野分の口から感嘆の声が漏れた。それは周囲にとっても同様で、わっと歓呼の波が立つ。
もう一匹のほうも幇員たちが倒したらしく、奥の方からも声が聞こえる。そんな彼らのもとに、手帳とペンを手にした記者たちが走り、写真が焚かれる。
朱雅文は殺到する記者たちの質問をやり過ごし、車に乗ると早々に去ってしまった。『上海の瑤姫』がいなくなると、記者たちも周りにたむろしていた冷やかしも散り、日常へと戻っていった。
後に残っていたのは方雲雕を始めとした香燈会の面子で、彼らは自分たちが始末した嫦鬼の遺体を確かめていた。
頃合いを見計らって、野分は方雲雕の元へと向かう。
「少し、話を聞いてもいいだろうか」
ちょうどかがみ込んでいる方雲雕に声をかけると、彼は野分を胡乱げに見返す。
「悪ぃな、ちょっと取り込み中だ」
「嫦鬼について調べている者だが……ああ、すまない。名乗るのを忘れていた」
野分は背広の内側から名刺を出し、雲雕に差し出す。雲雕は胡散臭そうにしばらく名刺を見つめ、渋々手に取った。
「……上海日報の記者?」
名刺はもちろん、本物である。恩田少佐の伝手で手に入れたものだ。聞き込みをするなら軍人よりも記者のほうが都合がいい。支那語が堪能な野分にはうってつけの肩書きだった。
難点を挙げるなら、野分自身が人の懐に容易く入り込めるような愛嬌が不足していることだ。現に、雲雕は名刺と野分を見比べて、不審そうに鼻を鳴らした。
「記者らしくねえお人だな。帯刀を許されているのは下士官からじゃなかったか?」
「先日、退役したばかりだ。ふらつく暇があったら職に就けと紹介された。おれなら多少危険でも大丈夫だと見込まれたらしい。軍刀は借り物だが……よく知っているな」
「『
「日本では見たことがないからな。他の新聞も読んでみたが、眉唾物の話ばかりだ。関東軍の人体実験、
つらつらと述べる野分に、雲雕は呵々と笑う。
「誰も正体なんかわかっちゃいないからな、好き勝手に言えるさ」
「香燈会ではどう考えている?」
「どう、と言われてもな。上海市民の生活が脅かされてる、俺たち自身も危ない、となるとあれの駆除が最優先になる。正体を突き止めようにも方法はねえ、人手も足りねえ」
「香幇は義侠の徒、革命の志士が多いと聞いていたが、なかなかやれることではない」
野分の感想とも賞賛ともつかぬ台詞に、雲雕は苦笑する。
「そういうあんたは……えーと……」
「飯田野分、だ」
日本名をそのままこちらの発音で答えたが、雲雕は何度か繰り返してから「長いな」と顔をしかめた。
「もう少し短いと助かるんだが。名前はどういう意味だ?」
「嵐」
簡潔に応えると、雲雕はにっと笑った。
「いい名前だ。では、
「風生?」
「『
野分は気を引き締める。先ほどの孫子といい、さらりと古典を引用してみせる人間が、ただの暴力頼みの破落戸集団のはずがない。
「俺に訊く前に、風生の見立てを聞かかせてもらいたいね」
「……失礼した。といっても、おれ自身も詳しいわけではない」
ちらりと足元の骸を見遣る。嫦鬼の遺骸は恐ろしく脆い。
ついさっき倒したばかりなのに、肉体は糸の束が崩れるように綻んでしまい、元には戻らない。骨は歪に変形し、瘤ができているだけでなく、何かに食い荒らされたかの如く
嫦鬼の名称の由来は様々ある。一つは、夫が西王母からもらい受けた不死の薬を盗み飲んだ仙女・嫦娥が月に逃げ、蟾蜍になったという故事になぞらえて『嫦鬼』と呼ぶようになった説。
もう一つは、山海経の大荒西経の『
女媧とは古の神女にして天帝だった者。人面にして蛇の身体を持ち、一日に七十変する。土を捏ねて人を造り、石を練って天を繕う。人を救い、人を増やし、人を教化する創造の女神だ。彼女は全ての役目を終えた後、十人の神人に姿を変えてどこかに去ったという。
誰がつけたのか今となっては分からない。女媧が姿を変えていずこかに去ったように、由来もまた遠い過去の中に埋もれてしまった。
「おれに分かるのは、これが出るのは上海に限ったことではないということだけだ。天津や香港、
「そのくせ、日本にもソ連にも出たとは聞かん。不公平だな」
「いずれ出るかもな」
野分が肩をすくめる。
実際、海を渡って日本にもやってくるのではないかという懸念が紙面に躍っている。日本郵政が長崎と上海を結ぶ日華連絡船を運行開始する際も、反対デモが起きていたほどだ。
「風生、あんたは他の記者と違って少しは話せるようだ」
雲雕は、これは不確定なことだが、と前置きして声を低めた。
「嫦鬼は、鴉片中毒者を使った新薬の実験ではないか、と言われている」
「……作り話では?」
野分の率直すぎる返答に雲雕は笑った。
「確かに小説みてえな話だ。
「実物を見たことは?」
野分の問いに、雲雕は首を横に振る。
「首謀者の見当はついているのか?」
「
「南市か……」
任務の本筋からは外れているが、少々引っかかる。調べてみる価値はありそうだ。これをネタに金華茶楼を尋ねる口実にもなる。劉清穆のことを追及するにも信用があったほうがやりやすい。
「貴重な話をきかせてもらった。礼を言う」
折り目正しく頭を下げる野分に、雲雕は笑みを深めた。
「何か分かったら記事にしてくれよ。俺だって、嫦鬼の正体は気になるからな」
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