第7話 馬漢堂の葉健
「まあ、大したもてなしもできへんけど……煎茶でええか」
行き止まりの小路から東へ向かうと、ほどなくして『馬漢堂』の扁額が見えた。常葉に続いて扉を潜った
「お言葉に甘えます」
野分は椅子を引き、ふと施された精緻な彫りに目を留めた。岩山に腰かけた仙人らしき老爺、その足元は生い茂る百草――その意匠には既視感がある。神農炎帝だ。道修町に生まれ、薬種問屋を営む生家にいれば少なからず縁のある神だ。
椅子と同じ深みのある木の卓には煙草盆が置いてある。恐らく、客との相談や商談に使う場所なのだろう。
「ほな、ちょいと待っといてんか。すぐ出すさかいに」
奥に消えていく常葉を見送り、野分はしばし店内を見渡した。中は薄暗く、流行っているようには見えない。店に立ちこめる生薬独特の苦い香りも整然と並ぶ百味箪笥も、野分の身に馴染んだものだ。
奥から常葉が盆を携えて戻ってくる。無骨な信楽焼の湯飲みに薄い浅黄色の茶が満たされ、柔らかい湯気が立つ。さらに常葉は茶請けだといってカステラを出した。
野分が遠慮無く緑茶とカステラに手をつけている間に、常葉は卓上の煙管箱を手元に寄せ、慣れた手つきで煙草をつけると野分に煙管を差し出した。
野分は酒も煙草もしない。丁重に断ると、常葉は「ほうか」とあっさり引っ込めて自分で吸い始めた。心ゆくまで紫煙を味わい、吐き出した常葉の顔に恍惚が浮かぶ。
「あんた、騙されんように気ぃつけや」
野分が瞬くと、常葉はにやりと笑った。
「何も疑ってはらへんようやけど、日本人てことで油断してんのとちゃうか? 毒盛ってるとは考えへんのか」
常葉の言葉も一緒に噛みしめるように、野分はひとしきり菓子を味わい、一息で緑茶を飲み干して茶托に置いた。
「騙し討ちをするような方には見えませんが、脇が甘かったのは事実です。今後は気をつけるようにします」
生真面目に応える野分に、常葉が吹き出した。
「あのなあ、あんたその堅いしゃべり方やめてくれへんか。こちとら軍人でございと宣伝してるようなもんや」
「は。申し訳ありません」
「聞いとらへんな人の話を」
「癖ですので」
「やぁな癖や。これやから軍人は好かん」
そういう常葉も元軍人なのだが。戸惑う野分に向かって、常葉は煙管の先を突き出す。
「気ぃ抜いたらあっちゅう間にやられんで。抗日運動やなんやで日本の店やら人やらが襲われて大変なご時世や」
常葉は鼻から煙を出しながら続ける。
「住山か三石か知らんけど、紡績の工場でえらいこき使われた挙げ句にぽい、ってのが当たり前やてな。日帝も偉うなったもんや」
軽い口調ではあったが軽蔑が滲んでいる。常葉の軍人嫌いというのは事実なのだろう。
野分は日々その日帝への忠誠を叩き込まれているので、とっさに反発が湧いたが、堪えるだけの分別もあった。それに今日の野分の目的は別にある。
「常葉殿は……」
「さん、にしてくれ」
「常葉さん、は仁保里のご出身と伺いました」
「はあ、それどこですん?」
問い返す常葉は本当に知らないように見えたが、構わずに続けた。
「京都の綾部です。実はキョウをいただきに参りました。橘のキョウです」
「確かにキョウは扱うてるけど……」
「左の棚にあるのではありませんか」
「よう知ったはる。でも奥にあるんや。待っとき」
「お手伝いします」
立ち上がり、奥へと向かう常葉の後に続きながら、野分はそっと息を吐いた。先のやりとりは恩田から教えられた符丁だった。
奥の座敷は常葉の私生活部分なのだろう。畳敷きの日本家屋風の作りだったが、その大半を本に埋められている。
日本の書籍だけでなく、四書五経や神農本草経などの漢籍、西洋の医学書や聖書、ありとあらゆる言語の背表紙が見えた。目を瞠る野分を見て、常葉が苦笑する。
そしてそのまま、野分に向かって膝を突いて頭を下げる。
「無礼をお許し願いたい。橘の御子、
変わり身の早さに呆気に取られたが、自分が何かを言うまで常葉は頭を上げそうにない。野分もまた座して、小さく息を吐いた。
「常葉さん、顔上げてください。聟、言われても実感が湧かんのが正直なところです。できれば大坂の飯田商店の次男坊として扱うてもらえませんか」
野分の言葉を受けて、常葉はゆっくりと上体を起こす。そのまま常葉はまじまじと野分を見つめる。
まるで検分するかのような目つきに少々居心地の悪さを覚えたが、野分自身にはやましいことはない。できるだけ泰然と常葉の視線を受けた。
やがて常葉はにこりと微笑んだ。
「今代の聟はんはえらい謙虚やな。『野分』は過去にもおったけど、名前通りの気性のお人でな。ええところで預こうてもらはったんやな」
野分は面食らってどう答えるか迷い、結局頷くだけで返事とした。
「ついでに、こいつらのことも許してくれるとありがたいんやけど。――
常葉が呼ばわると、物陰から二人の男が姿を見せた。一体どこに潜んでいたのか、体格のよい若い男たちだ。彼らの顔つきに共通点はなかったものの、同門の兄弟といった風情があり、常葉の傍らで膝を突く姿は躾の良い犬のようだった。
「驚きはらへんのですね」
「気配は感じてましたから……おれをつけていたのは彼らですか?」
「ええ。恩田少佐から連絡はありましたけど、確証はなかったもんですから。気づいて撒かれるとは、修練が足りんな」
後半は崔良と古星に向けられた台詞だ。常葉の声は朗らかで、咎める色はなかったが、二人は恥じ入るように深く頭を垂れた。
常葉は若者二人を下がらせて「早速、用件に入りましょか」と促す。
「恩田少佐からあらかた話は聞いてる。仁保里村から大繭が失せたとか、裏に黄金栄がいるとか。近いうちに赤間が動くとは思うてたけど、直々に聟殿を駆り出すとは、相当難儀したはるようやな」
「おれは、最近仁保里の生まれだと知ったばかりで勝手がわかりません。あなたに聟呼ばれ、礼を尽くされても、おれがそれに相応しいのかどうかも」
「何も知らされてへんのかいな。まあ、そんな暇あらへんか」
常葉は二煎目を用意し始める。長居する気はないと固辞したが、常葉は「ええから」と有無を言わさず茶を注いだ。
「少佐が真っ先にあんたをここへ寄越したんは、あんたに話せいうことやろ。仁保里のことを」
思わず背筋を伸ばす野分に、常葉は苦笑する。
「長い話になるさかい、そう力まんでもええ。まず、我が国のお上が千年女帝と呼ばれてることはご存じですやろ」
野分は頷く。今の日本の元首は
「お上が病に倒れはったとき、有名な高僧が橘の実を献上し、一命を取り留めた。そこからお上は不死身におなりになった」
この高僧は今上帝の病を治すべく、記紀神話に残る『
記録によると、高野比売命は南北朝の頃までは政治の表舞台に立っていた。時の権力者たる室町殿と対立し、反抗する南朝の説得を成せなかった。それが己の限界と悟った今上は、神事を司ることに専念すると宣下し、伊勢に居を移した。かくて女帝は天照大御神の御杖代となり、国家を鎮護せしむる要となった。
浄界を統べる高野比売命に代わり、俗界における政務や行幸は男系皇族たる東宮が襲うこととなった。肩書きこそ皇太子だが、現在の実質的な日本国元首は
「当時『非時香菓』が綾部の匂里に生る、いうて有名になった。時代が下ると
「はい。媒酌人の立花という方から伺うてます」
野分の答えに、常葉はああ、と口の端を持ち上げた。
「あの人、気はええねんけど、いっつも同じ話しはるんが玉に瑕やわ」
その生園社は今上を救ったことで名を高め、藤原摂関家の庇護下に入る。大規模な荘園を得、平安末期頃には参拝者の絶えぬ観光地となっていた。
その後、武士の台頭に伴って平家と繋がった生園社は、鎌倉時代に入ると権勢を弱めるものの、仁保里の『橘』の献上は毎年続けられ、室町時代には天皇家の養蚕に仁保里が関わる。仁保里の飼っていた
戦国期に突入すると、生園衆は生き残るために僧兵から素破や武士に転身し、関ヶ原では西軍についたが、あえなく敗北を喫する。
「生園衆はこの時、刑部殿の草になってたようや。小早川の襲撃で刑部殿の家臣やった聟花殿がのうなってな、お陰でその年は繭が生まれんで、橘が枯れるいう凶事があった」
寺領の取り上げこそなかったが、基盤である養蚕業の衰退を重く見た村の古老は聟の確保を急ぐと共に、京・大坂を離れ、全国各地に散った。
御庭番として大名家に仕える素破とは違い、生園衆はひたすら仁保里と女帝の権威の維持に努めたという。
「要領を得んのですが……仁保里は今上の長命に本当に関わっているのですか? 確かに、仁保里には橘がありましたけど、実は食用には適さんと……」
「『橘』は通称や。漢方の
「ええ、まあ……」
この手の話は母か兄の領分だが、野分も聞きかじったことくらいはある。
白僵菌に感染した昆虫は水分を奪われ身体が硬化する。この病で死んだ蚕の幼虫のみを白僵蚕と呼び、癇癪や中風、傷薬に用いる。古くから知られる生薬のひとつだ。
「今の仁保里は反物より僵蚕で有名でな。あんたさっき『橘のキョウ』言うたけど、あれは仁保里産の僵蚕のみを指す。タチバナとかコウサンとも言うな。紅の蚕、と書く」
「……『
常葉がにや、と笑った。
仁保里産の紅い僵蚕は万能薬として『和漢三才絵図』にも登場しており、これが女帝を不老不死たらしめたとされている。が――
「市場に流通している紅蚕を飲んだところで、不老不死になるとは思えません」
『和漢三才絵図』の通りなら本邦は今頃、神仙の国になっているはずだ。滋養強壮を謳うにしても、いささか誇張が過ぎるのではないか。それに、外国人が橘僵を手に入れたところで罪に問えるとも思えない。
「当たり前やろ。紅蚕は確かに貴重やけど、入手不可なもんとちゃう。あんた、羽化前の姫御前と祝言上げたやろ?」
頷く野分の脳裏に、ひと抱えほどある赤い繭と、連日の夢のことがよぎった。
「繭から蚕女が生まれて次の繭を生む。繭を生んだら蚕女の役目は終了や。数日もせんうちに掌大の僵蚕になる。それを煎じて飲めば不老不死になれるらしい。本来、紅蚕はこの蚕女の骸のことをいう。生薬のタチバナは副産物に過ぎん」
「……」
にわかに信じがたい話に閉口する野分をよそに、常葉は続ける。
「それで、や。あの繭をどうやって持ち出せる? 渡せと言われて簡単に渡すような代物とちゃうで。そもそも上海の黄金栄に、仁保里村の位置なんか分かるもんかい」
「つまり、繭が盗み出されたのは日本国内である可能性が高いと?」
仁保里の場所や紅蚕の価値をよく知る人物の仕業だとしたら、首謀者は生園衆の中枢人物、あるいは陸軍の上層部か。
一筋縄ではいかないだろうとは思っていたが、想像よりもはるかにやっかいな事態に放り込まれたらしい。一歩間違えれば、
「ところで、この人物をご存じですか?」
野分は懐から二枚の写真を出した。どちらも
一枚目は軍服姿の正面写真だ。入隊時のもので、若々しい顔にやや緊張の色がある。二枚目は一枚目とは違い、満服に身を包んでいる。どこかの建物から出てきた瞬間を捉えたもので、その横顔は過ぎた年月の分、老け込んではいるが面影はある。
「どれどれ……」と常葉は眼鏡を取り出す。写真を取り上げ、じっくりと検分し始める。しばらく眉根を寄せたり、首を傾げたりした後、彼は写真を卓袱台に戻した。
「――見覚えのあるお人や。確か……
「こう、とうかい……? 会社ですか?」
「劇場や茶楼の経営もしてるけど、香燈会自体は秘密結社やな」
秘密結社、と野分は繰り返す。ずいぶんきな臭い響きである。
「特に隠してるわけやないけどな。昔は養蚕業者の集まりやったけど、白蓮教と結びついて反明運動し始めてからは政治結社や。義和団
「
「あれはヤクザみたいなもんやけど、香燈会は武侠いうんかなあ。租界警察より頼りなるいうて上海市民にも人気や」
「その、香燈会の中枢にこの男がいると」
「確かこの辺に……」
常葉が呟きながら本棚から分厚い冊子を取り出した。ぱらぱらとめくって、とある頁を野分に示した。
そこには香燈会の
扁額のついた立派な門の前に立つ年輩女性が所有者の花香琳、彼女の後ろに控えた初老の男が劉清穆だろう。手持ちの写真と比べてみると、確かに雰囲気はよく似ていた。
「金華茶楼は
「ご助言、ありがとうございます」
野分は改めて頭を下げ、馬漢堂を出ようとする。と、常葉が呼び止めた。常葉は一度奥に引っ込むと、錦の鞘袋を手に戻ってきた。
「これ、もっていき。俺が軍人やってた時の刀や」
無造作に手渡された鞘袋の紐を解き、中身を改める。護拳のついたサーベル型の軍刀だ。
ニッケルの青白い光沢を放つ鉄鞘から刀身を引き抜くと、刃に添って張った糸のように真っ直ぐな文が現れる。地肌の黒と刃の白がくっきりと別れた景色には、冬の早朝のような清々しさ、潔さがある。
「業物ではありませんか。銘があるのでは?」
「ほお、若いのに見る目あるなあ」
「祖父が刀剣収集を趣味としていましたので」
野分は刀身を鞘に納めながら応える。道場の師範だった祖父の教えは厳しい一方だったが、幸か不幸か野分は初年兵時代に二年兵から受けた『学科』を苦にしたことがない。
比較的おっとりした家庭の中で、祖父だけは異質な存在だったが、名刀の良さを語るときだけは普段の厳格さが消えて、宝物を自慢する少年そのものであったことを思い出す。
「伝家の宝刀、無銘の名刀ってやつや。銘は勝手につけたけどな、『
「『白露』ですか。良い銘ですね」
銀河の輝きが埋まっているかのような印象の刃文に、白露という言葉の持つ凜とした響きがぴたりとはまる。
「日露戦争んときにな、露助百人斬るつもりやったんやけど、一人足りんかってん。そやから、百から一引いて『白露』」
「……」
典雅な銘に似合わぬ、物騒な謂われである。直刃は実戦向きと聞くが、この大人しやかに見える常葉の本質を顕したものなのだろうか。
「そんときの傷で足悪うしてもうて、刀振れんようになったんやけど」
「大事な物でしょう。尚更、いただくわけには……」
固辞する野分を押しとどめて、常葉は笑う。
「貸すだけや。今の上海は丸腰でおれるほど安全やない。それに刀は使うて初めて価値が生まれる。聟花殿やったらおかしな使い方もせんやろしな」
野分はなおも迷ったが、今の上海は化物の巣窟のようだから、獲物があれば心強い。常葉の信頼を無下にするのも憚られる。
「では、お預かりします。この一件が終わりましたら、必ずお返しします」
丁寧に頭を下げた野分の耳が、外からの叫び声を捉えた。素早く上体を起こすのと同じくして、崔良が姿を見せた。
「愛多亜路にて、
崔良が報告するまでもなく、嫦鬼が出た、と騒ぐ様子が奥まで聞こえてくる。早速、刀を振る機会が訪れたらしいと察した野分が立ち上がる。
「上海来たばっかやねんやろ? どういうところか、見とくのもええやろ」
辞去する野分の背に、どこか試すような常葉の台詞がかけられる。
振り返った野分は、薄暗く狭い座敷の中でぼうっと浮かび出る常葉の姿が、不吉な予言を投げかける易者のように見えた。常葉も馬漢堂も、上海の片隅に忍び込んだ幻なのかもしれない――
そんな馬鹿げた妄想を引き裂くような悲鳴が聞こえ、野分は振り切るように店を出た。
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