第6話 上海の瑤姫

「茶楼は上手くいっとりますかい?」

 明るく声をかけてきた男は数いる香幇シャンパン員の中でも古参で、雲雕うんちょうの手下である小慈しょうじだった。


「まあ、なんとかね」

 歯切れの悪い雅文がもんに小慈は首を傾げる。雅文が昼間あった悶着をかいつまんで話すと「そいつあ惜しいことをしました」と笑う。


「朱小姐シャオジエが啖呵を切るところ、ぜひ見たかったですね」

「やめてよ、見世物じゃないんだから。雲雕なら院子にわにいるわ」


 小慈は雅文が生まれるよりも前から雲雕の弟分だが、年齢も前身もいまいちはっきりしない。顔立ちや声、立ち振る舞いにもこれといって尖ったところがないせいか、どこにでもいる普通の男、というぼんやりとした印象に収まってしまう。


 今の小慈は苦力の風体をしているが、身なりだけだ。彼は己の印象の薄さを生かして香幇シャンパンの伝令役を担っており、その都度姿を変えている。


 金華茶楼には花庁ひろまから見渡せる庭の他、下宿側に四方を囲まれた院子にわがある。一旦茶楼から出て二門をくぐり、院子に繋がる扉を開くと、威勢のよいかけ声が耳に入ってくる。


 院子の中央には戯台ぶたいが設けられており、客の要望で舞踊や京劇などを披露することもあるが、雲雕やその部下たちの鍛錬や手合わせの場として使われていることのほうが多い。


 鍛錬に励む男たちは皆、香幇員だ。昼間は雲雕から武術の手ほどきを受け、夜は別の老師について読み書き計算や四書五経を学ぶ。彼らは経歴も年の頃もまちまちだが、金華茶楼の用心棒として頼りになる者たちばかりだ。


「雲雕、愛多亜路アイドゥォヤールー猩猩しょうじょうが出たんですって」

 雅文が小慈の台詞を繰り返すと、雲雕は顔をしかめた。


「またか。って、公董局の目の前じゃねえか」

「その公董局警察は黄金栄の仕切りでしょ。期待するだけ時間の無駄だし、さっさと行きましょ。夜の営業に間に合わなくなっちゃう」

「……あのなあ、お前が出向かなくたっていいんだぜ? 猩猩じゃお前の出番はねえよ」

 雲雕に窘められても、雅文は全く意に介さぬ風情で鼻を鳴らす。


「小慈が見たのは二体だけかもしれないけど、増えてないとは言い切れないわ。向こうに着いてから人手が足りないんじゃ意味がない」

 雅文の抗弁に雲雕は呆れたように頭を掻き、部下のひとりに声をかけた。ややあって部下が持ってきたのは雅文が愛用している棍だった。


「頼むから、危ない真似はするなよ」

「わかってるって」

「……本当にわかってるのか?」


 そんなやり取りを交わしながら、雅文と雲雕は茶楼の門扉に横付けされたフォードに乗り込み、愛多亜路へと走り出す。後部座席に雅文を認めた人々が彼女を指さし、歓声やら口笛やらが向けられる。


香幇うちもずいぶん、有名になったのねえ」

 雅文が何の気なしにこぼした呟きを雲雕が拾い上げ、「よく言うぜ」と肩をすくめる。

「この間、嫦鬼チャングイと大立ち回り演じて衆目を浴びたのは雅文だろうが」

「別に名を挙げようとしてやったわけじゃない!」

 からかい混じりの雲雕の台詞に、雅文は威勢よく吐き捨てた。


 先週、南市近くの寧波路ニンブォルー上で嫦鬼退治に出向いた時、白い旗袍姿で棍を操る雅文が目立ったのか、翌日の新聞に大見出しで『上海に瑤姫ようき再臨す』と書かれる羽目になったのだ。


 瑤姫とは炎帝の娘のひとりで、四姉妹の三人目。容色もさることながら武術にも秀でた仙女の名だ。

 最近封切りされた映画『瑤姫伝』の主役で、それが大当たりした直後だったせいか、嫦鬼を退治する雅文を記者たちがこぞって瑤姫に準えたのである。


「へいへい。精々『上海の瑤姫』の名を高めてやりゃあいい。香幇にとっても悪い話じゃねえ」

 雲雕の能天気な返答に、雅文はふくれ面のまま続ける。


「何であたしだけ持ち上げられてるの? 雲雕の方が強いんだから『関羽』でも『岳飛』でも好きに呼べばいいのに」

「そりゃあ『瑤姫』のほうが見栄えするからだろう。化物をばったばったと倒す美少女の話は古今東西人気なんだ」


 雲雕に笑い飛ばされたが、雅文は唇を尖らせた。新聞の記事というのは誇張も甚だしく、紙上に踊る謳い文句に頭を抱えているのだ。


「雅文、むくれるなよ。ついたぞ」

 愛多亜路には逃げ回る庶民で溢れかえっており、流れに逆らうように進む車に向かって邪魔だと怒号をかけられる始末。だが、雲雕の方も負けていない。


「そら、どいたどいた! 『上海の瑤姫』のお出ましだ! 巻き込まれたくなけりゃ道をあけろ!」

 雲雕の割れ鐘のような声が響き渡り、驚いた人々が一斉にこちらに視線を寄せた。強引な車の存在に苛立ちをぶつけていた連中も、棍を携えた白い旗袍の少女を認めると、周囲がわっと興奮に沸き立つ。


 雅文の内心は苦々しいものでいっぱいだったが、純粋な熱狂に水を差すのも悪い気がして、軽く手を振って応じてしまった。我ながら意志が弱い。


 人の流れに逆らいながら進む車上で、雅文も立ち上がって雲雕と一緒に前を見据える。

 人波の向こうに暴れる化け物が二体。長い黒毛と耳だけは人の形で白いことが、『山海経』に記される猩猩に似ていることから、いつしかそのように呼ばれるようになった。


 猩猩は身長の二倍はあろうかという長い腕を振り回し、猿のように飛び跳ねながら、我が物顔で往来をゆく。その太く長い腕で大の男を軽々と投げ飛ばし、逃げ遅れた女の身体を踏みつける。まだ生々しい色をした血痕や臓腑がぶちまけられ、賑やかな昼時はたちまち酸鼻を極める猟場となった。


 馬に乗って駆けつけた香幇員が待避を呼びかけながら、猩猩の周囲を注意深く取り囲む。香幇員が身につけた香球から樟脳の香が広がって、視界がかすかに煙る。

 人にとってはただの薫香だが、猩猩は道に迷ったかのように歩みを止めて周囲を伺う。

 嫦鬼は視覚よりも嗅覚が発達していると判明してからは、この樟脳の香りは欠かせない物になっている。


 そうこうしている内に数台の車が猩猩に迫る。車にはそれぞれ香幇員が乗り込み、大刀や剣を構えている。

「猩猩に一人で対処しようとするな! 必ず伍を組んで一匹ずつ、確実に首を落とせ!」

 雲雕が吠えて命を下すと香幇員は応、と声を上げ、一斉に車から降りる。


「雅文、お前は大人しくしてろ」

 着いていこうとする雅文を、絶妙なところで押しとどめてくる雲雕に「……はーい」と応え、渋々腰を落とす。

 もし敵の数が増えていたのなら別だが、この調子なら危なげなく仕留められるだろう。それくらいの判断は雅文にもできる。


 香幇員たちも手慣れたもので、手近な五人が隊を組み、大刀や剣の先で威嚇しつつ、徐々に詰め寄っていく。


 刃の気配か人の臭いか、あるいはその両方を嗅ぎ取って、猩猩が腕を振り回す。わっと叫んでその腕を避けたが、猩猩を囲む人垣が広がる。その隙間を抜けようとする猩猩を押し留めようと突き出される刃の切っ先、それが猩猩の腕を、肩を、胴を、目を掠める。痛みで一層暴れ回る猩猩の気魄に圧され、香幇員たちの包囲が崩れた。


「退け、退け! 体勢を立て直す!」

 雲雕の指示が飛び、待避する香幇員だったが、一歩間に合わない。猩猩の爪先が仲間の身体を裂き、吹き飛ばす。猩猩の視線が彷徨ったかと思いきや、鋭くこちらへ――雅文と雲雕の乗る車の方に向き直る。敵を見定めた猩猩は恐るべき跳躍力で包囲を破り、こちらに迫ってくる!


 雲雕が大刀を手にするより早く、雅文が棍を掴んで立ち上がり、座席から一足飛びに運転手の頭上を越え、狭いボンネットを足場に跳躍する。空中で身を捻りながら棍を振るい、猩猩の側頭部に打ち込んだ。


 脳震盪を起こして横倒しになった猩猩の頸椎めがけて、雲雕の大刀が振り下ろされる。猩猩の頭が往来に転がり、断面からは血の色をした糸が伸びる。まるで繊維が引きちぎられたかのような跡だった。


「さっすが雲雕! 猩猩の首を一撃なんて普通できないよ」

「いきなり飛び出すんじゃねえ! 危ねえだろうが!」

 雲雕の叱責に雅文が首をすくめていると、もう一匹も香幇員たちが仕留めたらしく、歓声が聞こえた。


 遠巻きに見守っていた人々からも賞賛やら拍手が向けられ、記者が手帳を片手に雲雕の元に寄ってくる。無遠慮に焚かれるカメラに辟易した雅文が、逃げるように車に戻ろうとするのを記者が取り囲んだ。


 彼らはしつこく「今日も素晴らしい活躍でしたね」「また香燈会の名があがると思いますがそれついてどうお考えですか?」「上海の瑤姫、嫦鬼に対し一言!」などと騒ぐのですっかり参ってしまった。

 ああ、もう、と天を仰いだ雅文は意を決して正面を見据える。


「――これから茶楼の営業がありますので!」

 雅文が記者たちに向かって一喝すると、呆気にとられたような沈黙が落ちる。

「取材ではなく、お客様としていらしてください。歓迎します」

 雅文は営業用の笑顔でいなすと、雲雕が記者を押しとどめている間にさっさと車に飛び乗る。後の処理は雲雕たちに任せ、茶楼へと車を走らせた。

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