第5話 魔都の洗礼

 祝言は、黄昏時に始まった。


 野分の上海着任の祝いも兼ねていたから、軍服姿で高砂に座るのはまあいい。だが、左側に据えた金襴の座布団にいるのが白無垢に鬼隠しの乙女ではなく、一抱えほどある紅い繭玉が鎮座している。これが奇異でなくて何なのだろう?


「やれ、今宵は目出度い日ぃや」

「ええ聟さんに来てもうて、これで仁保里も安泰やなあ」

「ほんまやなあ。姫御前も野分殿を気に入りょう」

「安心めされよ、野分殿。姫御前はたいそうべっぴんじゃ。そうやなかった例はあらへん」

「そうやそうや、姫御前に惚れぬ聟はおるまいて」


 両親と同じく紋付き袴や留め袖に身を包んだ人々は、どうやら生母の縁戚らしい。初対面の野分に屈託のない様子で、妻となる娘の器量を言い立て、やれ目出度いと繰り返して酒の杯を重ねる。


 媒酌人の立花を始め、親戚たちの話は酒のせいで呂律が回らず、脈絡がないうえ繰り言も多く、要領を得ない。


 宴から引き上げる段になってようやく分かったことだが、仁保里には紅い大繭が二十年に一度くらいの頻度で生まれる。この繭から生まれた女は蚕女と呼ばれ、聟を迎えて次代の繭を生む使命を負っているそうだ。


 つまり迎えられた『聟』が野分で、負わねばならぬ『使命』というのは、そのまま『祝言』のことだった――らしい。

 本来ならば、羽化した繭から美しい娘が現れて、しゃなりと三つ指ついて野分を迎えるはずだったのが間に合わず、今回の仕儀となったという。


(おかしいのは、おれのほうなのか?)

 仮祝言とはいえ、手順は省かぬようで、赤繭と共に『初夜』を迎えることになった野分は、浴衣姿で胡座をかき、延べられた布団に置かれた繭を見つめる。


 馬鹿馬鹿しいと思わないでもなかったが、まさか狂言でこんなことをしているわけでもあるまい。


(この世で娘に化ける繭を嫁にするのはおれくらいやろな)

 それが蚕女の村に生まれた男の定め、と言われればそれまでだが、妙な巡り合わせになったものだ。


 興味に駆られて、繭を撫でてみるとかすかではあるが、動いている――生きている。深くゆっくり呼吸をするような脈動が、手のひらを通して伝わってきた。凡そ人智では計り得ないこの繭が、己の伴侶なのか。


(……厄介なことになったなあ)

 軽く頭を撫でる。指に絡む髪の感触にはまだ違和感がある。それはそのまま、今の自分の状況にも似ている。


 一晩中、繭を見つめていたところで、正体など分かるはずもない。 諦めた野分はため息を一つこぼし、薄い布団に転がる。明日には早々に村を発ち、半月後には上海の地を踏んでいることだろう。


 特に眠気は感じてはいなかったが、やはり慣れない宴の席に緊張し、気が昂ぶっていたのだろう。目を閉じると幾ばくかも経たぬうちに、野分は眠りについた。


 ――その夜、おかしな夢を見た。

 赤い衣に身を包んだ少女がこちらを見下ろしていた。黒目がちの大きな瞳が、不思議そうに野分のわきの顔を眺めたあと、不意に微笑んだ。

 確かに美しい少女だと思った。彼女が軽く首を傾げた拍子に、長い黒髪が肩口からさらりと流れ落ちる。絹糸のように滑らかなそれに触れてみたくて手を伸ばしたが、何の感触もなかった。


 目が覚めた野分は、傍らに繭がないことに焦り、身を起こす。それが夢の残滓であったと気づくのにしばらくかかった。


 上海赴任にあたって、野分は呉淞路ウーソンルー沿いの義豊里ぎほうりにアパートを借りた。狭い洋間はほぼ寝台と箪笥に占められていたが、軍営の窮屈さに比べれば天と地ほどの差がある。

 そも、戦時中であっても衣食住に不足しないだけ上等なほうだろう。


 時刻はまだ早朝だが、意識は冴えている。窓を開けると、独特の潮の香りを伴った風が部屋の中に流れ込んできた。


 虹口ホンキュウ周辺は日本租界と称されるだけあって、郷里の雰囲気が色濃い。気候そのものも日本に近く、潮の香りがなければ上海にいることを忘れそうになる。

 眼下に視線を向ければ、老爺が犬を散歩させている。その長閑な情景も日本の田舎町を彷彿とさせた。


 野分は手のひらを見つめた。祝言の夜以降、赤い衣の少女の夢が続いていた。少女は何かを訴えるようにこちらを見るだけで消えてしまうが、あれが祝言の席でさかんに噂されていた『姫御前』なのだろうと、確信に近いものを感じていた。


 恩田は仁保里の大繭が紛失したと言った。あの少女は夢を通して『聟』に……野分に助けを求めているのではないか?

 となれば、助けてやるのが筋というものだろう。何の因果か娶ってしまった以上、見捨てるのも忍びない。


 野分はひとつ息を吐くと、水場を借りて身支度を整えた。

 最初の目的は恩田から紹介された馬漢堂という店だ。共同租界南端の棋盤街きばんがいにある薬種店で、店主は葉健イェジェンと名乗る元陸軍大尉の常葉健治。彼は民間協力者の一人だという。


 今の野分は、知人の伝手で上海日報社に入った新聞記者ということになっている。出自は大阪の薬種商、すねかじりの次男坊が生計を立てるために上海にやってきた、と。


 野分は嘘が苦手だ。全くの別人に成りきるよりも、ある程度、真実に近いほうがぼろも出にくいだろう。


 大馬路ダ―マールーはすでに人でごった返している。黄江浦ホワンプーシャンに面した外灘バンドの商社勤めらしい白人や日本人が洋装姿で肩を切って闊歩する。ゆったりとした長袍に馬掛マーグア姿の裕福そうな支那人買弁がいる一方で、その買弁の乗る人力車を引く苦力クーリーがいる。


 浅黒い顔に色鮮やかなターバンを巻いたシク教徒のインド人警官がにらみを利かせる横を、ドレスで華やかに飾り立てた貴婦人たちを乗せた馬車が行き交う。

 できたばかりの百貨店が軒を連ねて絢爛さを競い、洒落たチョコレートショップやコーヒーハウスが居並ぶ様は、外国の絵葉書をそのままだ。


 虹口に漂う日本的な空気とは一線を画す、活気の洪水に翻弄されながら、野分は福利公司を左に折れた。


 向かい合う里弄リーロンに挟まれた細い路地のあちこちから炊煙や蒸気の筋が上っている。里弄の間に渡された細縄には大量の洗濯物が吊るされ、その下を食事に繰り出す支那人が行き交う。


 威勢のいい呼び込みと野卑な喧噪が飛び交う中、疲れ果てた様子で座り込んだ物乞いが、身なりの良い商人の足下に追いすがり、哀れっぽく小銭をせびる。商人は物乞いを蹴り飛ばすと、罵声を浴びせて遠ざかる。倒れ込んだ物乞いは商人に呪詛を吐き、どさくさ紛れに手近な店から蒸し上がった饅頭を掠めて走り去る。逃げる物乞いの背に店主の怒号、しかしすでに物乞いの姿は人の波に呑まれて消えていた。


 大馬路が綺麗に整えて澄ましているその裏で、恥じらいを忘れたかのような派手な喧噪が繰り広げられていた。


 がたついた窓が軋んだ音を立てて開いたかと思うと、赤い斑点の浮かんだ乳房も露わな女が煙管をふかす。茫洋とした女の瞳はしばらく通りをさまよい、やがて野分の視線を絡めて捕らえると、化粧気のない顔で蠱惑的に微笑んだ。野分が帽子を下げて目を外すと、面白がるような女の嬌声が聞こえた。


 炒め物やら饅頭の匂いに吐瀉物や腐臭、黄江浦から吹きつける潮の香が混ざり、得も言われぬ空気に満たされていた。

(これが、上海か)

 野分は思わず顔を顰める。生気と死臭が手を取り合い、無尽蔵に駆け回っているような、そんな都市だ。


(常葉の御仁は、ようこんな所に店を構える気になったもんやな……)

 呆れながら足を進めていると、ふと野分はひやりとする。

 雑多な気配の中から、明らかな敵意を感じ取った。気のせいかと思ったが、暗い気配はぴたりと一定の距離を保ちながら、野分の背後につけていた。


 こちらの素性がばれたか、あるいは追い剥ぎの類いか。とっさに、懐に忍ばせた拳銃の感触を確かめる。軍から支給された南部十四年式と、祖父からの餞別である二十六年式がそれだが、できれば使いたくない。市中で使えば目立つし、任務に支障が出る。


 相手を撒こうと南へ南へと向かうが、だんだん胡乱げな場所になっていく。右手側に見える高い壁、その奥には反り返った屋根をもつ望楼が視界に入る。県城だろう。


(となると、南市ナンシーの近くか)

 小刀会による県城占領後、県城に住んでいた支那人は県城周辺に居を移し、支那人街と化している。租界の外にある中華の世界――華界かかいだ。この辺りの治安は工部局警察の管轄外となる。


 嫌な予感が強くなる。だが、今更引き返せはしない。仕方なく小路を折れると、行き止まりだった。

(誘い込まれた――!)

 焦った野分が振り返る。と、背後に立っていたのは馬掛姿の老爺だった。まさか、この老人がつけていたのか? 警戒する野分に、老爺は不思議そうに首を傾げた。


「道に迷うたんか? あんた、日本人やろ。こないなところで何したはんねん」

 老爺の口から零れたのは日本語、しかも故郷の言葉の響きをしていた。

 先ほどまで感じていた気配はいつの間にか消えている。目の前の老爺と関係があるのかはわからないが、気を取り直して野分は口を開く。


「……いえ、人を探しています。この辺りに馬漢堂という店があるのをご存じですか? 主人の常葉という御仁にお目にかかりたい」

「ああ、ようくご存じだとも。そりゃ俺のことやからな」

 呆気にとられる野分に向かって、常葉はにっと笑った。

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