第4話 匂紅の里

「やあ、今日はええ日和や。婚礼には相応しゅうございますなあ。里も野分のわきはんを歓迎しとるようですわ」


 飯田一家を先導する老爺はそう言ってにこりと微笑んだ。野分はなんと答えるべきかを迷い、「恐れ入ります」とだけ返した。


 父母はこの日のために誂えた紋付きの袴に留め袖、野分は真新しい軍服に身を包み、媒酌人の立花老人の後に続いて、黙々と山を登っていた。


 綾部市内までは車が用意されていたが、花嫁の里は弥仙山みせんさんの直中にあり、麓から徒歩で山道を行くしかなかった。獣道さながらの入り組んだ細い道だが、下生えを整えている跡が見て取れた。


 野分の生家・飯田商店は北船場の道修町どしょうまちにある老舗の薬種店だ。看板薬の『金虎散きんこさん』は創業当時から名薬として名高く、庶民のかかりつけとして長年贔屓されている。


 この『金虎散』の評判を聞きつけた東京の製薬会社から、毎年のように出店の打診があるが母は乗り気でない。


『うちで扱うてんのは生ものやさかい、土地が変わりましたら管理が大変ですやろ』

 などと、やんわりとした口調で、もっともらしい言い訳をして断っているが、西洋医学の潮流に押されつつある昨今、船場の本店と開いて間もない京都支店の維持に手一杯、というのが正直なところだろう。


 穏やかで常に笑みを絶やさぬ父と、計算に明るくてきぱきと手代を仕切る母、父母の長所を兼ね備えた兄と、甘え上手で愛嬌のある妹、剣道の師範で私生活でも厳格な祖父に囲まれて、野分は育った。


 野分が飯田家の誰とも血の繋がりがないと知らされたのは、野分が十八歳の時。確か、関東軍への配属が決まった日のことだった。


 ――お前はもう大陸へ行くんやし、知らせなあかんな。

 と、父がいつになく厳しい顔つきで、野分にそう告げたのだった。


 曰く、野分の生母は仁保里におりの村女だったが、野分を生んですぐに亡くなった。実父はさる名家の跡継ぎで、子の養育を飯田夫妻に任せたそうだ。

 父は『さる名家』の名を口にしなかったが、大方想像はつく。華族か裕福な商家の放蕩息子が戯れに村の女に手をつけた、その結果が野分というわけだ。


 真実を知ったところで特に感慨はなかった。家格の高い家の庶子など、体裁のために間引かれていてもおかしくない時世である。

 野分は体格に恵まれ、病ひとつ知らず、国のために戦える身だ。実子と分け隔てなく育ててくれた両親には感謝しかない。不満に思おうものなら罰が当たる。


 関東軍は厳しい環境だとも聞く。二度と相まみえることも叶わぬかもしれない。神妙に頭を下げる野分に、続けて父は信じられないことを言った。


 ――お前はいずれ、使命を負わねばならぬ。ついては、良き日を選んで祝言をあげるつもりやから、心しておくように。

 父は『使命』の内容を詳しく語らなかったが、どうも野分の実父の家にまつわることらしかった。それと『祝言』とどう結びつくのか全くわからなかったし、実感も湧かなかった。


 自分の使命とやらより、兄を差し置いて先に嫁を取ることへの後ろめたさのほうが勝った。

 後日思い切って、兄本人に相談したのだが、当の兄は少し考え、

「俺はお前と違うて戦争行くわけやないし、ええんとちゃうん」

 と、こちらが面食らうほどあっさり答えただけだ。


 父の告げた『良き日』は七年後、上海駐在憲兵隊に配属が決まった直後に訪れた。野分が海を渡ってしまえば、しばらく帰って来られないだろう。その前に仮祝言だけでも、という話になったらしい。


 里に近づくにつれ、橘の爽やかな香りが鼻先をくすぐる。三月半ばとは思えぬ陽気だが、花の時期には早いのではないか。野分がそう声をかけると、立花老人はおおげさなほど目を丸くして「お気づきにならはりましたか」と笑った。


 仁保里村は世にも珍しい鮮やかな紅い生糸を紡ぐ『匂紅におうべに』の産地で知られる。『匂紅』は大陸原産の『緋紅ひこう』の改良種で、桑ではなく橘の葉を好む。そのため里中に橘の香が立ちこめており、かつては『匂里』とも記されていたとか。


 媒酌人の立花は祖父と変わらぬ年頃で、自身も仁保里の生まれだといい、道中、飯田家の人間に村の所以を詳しく語った。

 立花老人は急勾配の山道を何食わぬ顔でゆく。一回りも二回りも年下の父母のほうが息を切らし、立花の話に相づちを打つのが精一杯だ。


 野分もまた遅れがちの父母の荷を持ち、手を貸すなどしていたら、立花の話など右から左へと抜けていく。だが、流石に己の『許嫁』のことは耳に留まった。


「姫御前はそら美しいお人ですよ。村では大層大事にされとります。きっと聟殿も気に入らはりますよって」

 と立花に笑いかけられたが、「そうですか」と芸のない返答しかできない野分である。


 元より降って湧いたような縁談だ。相手を選べる立場でもなし、細君となる女の造作などどのようなものでもいつか慣れるだろう。とはいえ、美しいに越したことはない。


「ほうら、着きましたよ。ここが仁保里村にございます」

 立花老人が誇らしげに示す村の様子は、つましいの一言に尽きる。

 世にも珍しい赤い絹を紡ぐ神秘的な山里、と聞けば、何やら特別な場所であろうという期待があったが、目前の仁保里は実に当たり前の集落であった。


 よくよく見れば、山間の小さな集落の割には清潔感があり、道行く村人たちの顔には切羽詰まった様子がない。豊かな村だと知れた。

 村の奥にたくさんの橘の木が植えられている。五月になれば、あれらの木々に赤い繭が鈴なりになるのだろう。


 婚礼を控えているこの日は、炊煙がいくつも立ち上り、女たちのやり取りと小気味良い包丁の音がする。

 立花老人の気勢に比べると、飯田家の面々の反応は間の抜けたものになった。野分と同様、父母も肩すかしを食らったのか、おお、だの、ええ、だの、締まりのない声が漏れただけだ。


 期待したほどの反応がなかったからか、立花老人は少しばかり残念そうな顔をしたが、一瞬だ。すぐさま笑みを浮かべて続けた。


「ささ、お支度もございますでしょう。どうぞ母屋へお越し下さいまし」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2024年11月30日 17:00
2024年12月1日 17:00
2024年12月2日 17:00

千年蚕娘 上海蠢爾編 乾羊 @inuiyou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画