第3話 猟犬

飯田野分いいだのわき伍長。貴官を上海駐在憲兵隊への配属を命じる」

「はっ。了解であります」

 恩田おんだ幸三郎こうざぶろう少佐の言に、野分はかっ、と軍靴を鳴らし、敬礼する。


 隙なく身につけた陸軍の制服に、真新しい黒い腕章。日本人にしては背が高く、物心ついた時から武道に打ち込んできた野分には、二十六歳らしからぬ威風すら漂っていた。


 関東軍に配属されて三年。兵役を終える前に当時の上官の薦めもあって、憲兵科に転属した。法学の勉強や間諜の心得など、三年近くの訓練を終えて、晴れて着任の日を迎えていた。


「飯田は仁保里におりの生まれだったな」

「はっ、左様であります」

 野分の本籍は京都綾部市仁保里村にあるが、大坂道修町どしょうまちの薬種商・飯田商店の次男として育てられた。


 兄のように人当たりが良いわけでも商いに向いているわけでもない。得意の武芸で身を立てられる職は軍人くらいしかなかった。家に居座って穀潰しになるよりはましだろう、と志願したのは十八の時だ。


 この程度の情報なら、すでに恩田も把握済みだろう。本題の前に枕を振ったにすぎない。


「貴官の役目は、猟犬だ」

 静かな部屋の中に恩田の声が響く。


 恩田は年の頃四十あたり。すらりと細身で、鷹のような鋭い目つきをしているが、不思議と威圧感はない。


 恩田の薄い唇からこぼれる台詞から感情が欠落しているせいだろうか。表情の変化が乏しく、彼の見た目からは何を考えているのかをいまいち図りかねた。


「貴官の憲兵隊配属は赤間機関からの出向という扱いになっている。無論、皇軍の一員として法に従い、勤めを果たすのが本分だが、貴君には生園衆しょうおんしゅうの『手』としての働きも期待する」

 恩田の訓示に、野分は諾の返答をする。


 赤間機関は陸軍参謀局麾下の特務機関の一つだ。元をたどれば侍従武官府の出先機関で、野分にはその印象が強い。


 憲兵は主に軍内の犯罪を取り締まるのが任務だが、赤間機関に属する以上、野分の任務は特殊なものになるはずだ。恩田がわざわざ口にした生園衆、という言葉がそれを裏付けていた。

 恩田は続けて、二枚の写真を差し出した。


「名は坂井陽厚さかいきよあつ。元陸軍軍医だ。専門は細菌学、血液学。彼は防疫に関わる資料を関東軍から持ち出した嫌疑がある」

 恩田は坂井陽厚の経歴が書かれた書類を野分に示す。


 彼の父親はさる藩主の御典医を務め上げたのち、一家を引き連れ上海に渡る。父親と同じく医学の道を志した陽厚は、伝手を頼って単身日本へ戻ると、一八九五年から国立感染病研究所に在籍、一八九九年から軍医として関東軍に配属。翌一九〇〇年、任務の一環で清国の防疫業務に従事中、忽然と姿を消した――

 野分は内容を素早く叩き込んでから、書類を返す。


「辛亥革命の時分には天津、近年になって上海で目撃されている。坂井の根城を見つけるのが貴官の任務だ。加えて、仁保里の大繭が紛失した」

 唐突な話に、野分は眉を寄せる。


 仁保里は京都・綾部にある小さな村だが、有力寺社・生園社しょうおんしゃの荘園として栄えてきた過去がある。


 この一帯では古くから養蚕に携わり、生園社の始まりも、家畜を守護する馬頭観音めずかんのんを祀っていたことが所以だ。村に生まれた男児は生園社の寺奴や僧兵となって社を支え、いつしか生園衆と呼ばれるようになった。


 仁保里一帯を仕切り、時の大名の庇護も拒んで独立を貫いた生園衆だが、近年の廃仏毀釈の影響で多くの寺領を失った。今の仁保里村は、当初そうであったように、細々と糸を紡いで暮らす山間の寒村に立ち返っている――ことになっている。


 生園衆は今や赤間機関と名を改め、陸軍内部に深く食い込んでいる。在籍する仁保里者の総数も名前も把握していないが、少なくとも赤間機関の軍人は全て仁保里村出身者だという。恐らく、軍属の中にも多くいるだろう。


「繭の紛失に、坂井が関わっているのですか」

「……黄金栄こうきんえいは近頃、不老不死の妙薬『紅蚕ホンツァン』を手に入れたと吹聴している――我々が匂里の大繭を紛失して間もなく、な」

 それきり恩田は口を噤む。必要なことは全て言った、とばかりの態度に野分は戸惑う。


 公董局こうとうきょくトップの黄金栄は青幇チンパンの首領を兼ねている。表と裏の権力を駆使して、その地位にのし上がったことは公然の秘密だ。叩けば埃はたくさん出てくるだろうが、それだけに近づくのも容易ではない。


 配属されたばかりの新人に、とんでもない任務を与えるものだ。とはいえ、命令を蹴ることは野分には許されない。

 直立した野分に向かって、恩田が机上で組んだ手に顎を乗せたまま続ける。


「貴官の細君の危機だ。余人に任せるよりはよかろう」

 素っ気ない恩田の台詞が本心なのか冗談なのかを迷った。恩田は冗談を嗜む質には見えないが、己の『細君』の存在自体は冗談のようなものであるのは、確かだった。


 いくら考えても、気が利いた返しが思い浮かびそうにない。諦めた野分は敬礼をするだけに留め、その場を辞した。

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