第2話 李少爺

 大陸には、数多くの『パン』が存在する。幇とは血縁や友人知人が互いに助け合うための共同体で、大陸に生まれた以上、幇との関わりなくして生きることは難しい。


 ひとくちに幇といっても、離散すれば自然消滅するような集まりから、義理と掟に縛られ、生涯その幇に尽くすような組織まで様々だ。特に、後者をして幇会ほうかいと呼ぶ。


 上海で有名な幇会といえば、青幇チンパンだろう。首領の黄金栄こうきんえいは、同時にフランス公董局こうとうきょくの刑事でもあり、実質的にこの租界を牛耳っている。


 雅文がもんも幇会のひとつ、香燈会シャンドンフェイ――通称・香幇シャンパンの一員だ。


 香燈会はかつて孫文に協力して辛亥革命の立役者となったが、中華民国大統領となった袁世凱の命によって一転、お尋ね者の扱いを受ける羽目になった。


 天津から脱出する際、雅文の父は敵の凶弾に倒れ、花香琳かこうりんは幼い雅文を抱えて、命からがら上海へと逃れてきた。

 それから、十三年。雅文にはもう、上海の生活しか記憶にない。


 金華茶楼が昼の営業を終え、酒店の準備も整った頃。雅文を含めた女給たちは一息吐いて、お茶に興じていた。

 飯店から酒店に変わるまでの数時間は、女給たちの自由時間だ。他愛もない話にうつつを抜かしたり、買い物にでかけたり、それぞれ好きに過ごしている。


 この日はたまたま残っている女給が多く、蔡栄さいえいからの差し入れの胡麻団子と、各自が持ち寄ったお菓子をつまみながら賑やかにさえずっていた。


 その内容はこの間、開店したチョコレートショップのお勧め、クラブで流れるジャズとショーのこと、新新公司しんしんこうしにできたガラス張りの広播電台ラジオ局。最新流行の服や靴のこともあれば、仕事の失敗談や悩みの相談、失礼な客への愚痴などきりがない。


 こうした雑多な話題に、相づちを打ったり共感したりするのは雅文の楽しみの一つだ。

このかしましい集まりに参加している女給の一人が、不意に黄色い声を上げた。


李少爺リーシャオイェだわ」

 その囁くような台詞に反応して顔を向ければ、一人の青年が花庁ひろまに降りてきたところだった。


「今日はずいぶん、華やかなんだね」

 彼女たちが密かに李少爺、と呼び慕う青年に声をかけられて、きゃあっとはしゃぐのも無理はなかった。


 彼は大変見目麗しい、絵に描いたような美形で、下手な俳優などよりよほど目の保養になったからだ。

 李少爺、というのはここに来てからのあだ名だ。もっとも、面と向かってそう呼ぶのは雅文くらいだが。


 彼の本名はベネディクト・クロウリーといった。ふわふわとなびく金髪に、表情豊かな翠玉のような瞳。年齢は二十二だと聞いているが、その年の西洋人にしてはあどけない風情がある。

 一気に色めき立つ女給たちとは反対に、雅文は昼間の酔漢相手とは別の疲労を覚えて嘆息する。


「こんな時間までお休みなんて、優雅ですこと」

 皮肉交じりの雅文の台詞に、ベネディクト青年は「まあね」と悠然と応じた。


 母・香琳は金華楼を買い取ると房室の一部を取り壊し、開放的な吹き抜けのある花庁を店の売りにした。減った房室を補うように金華楼裏手の四合院しごういんも買い取り、楼閣との間に門を通じて接している。


 この四合院は主に香燈会の幇員や海外留学生相手の公寓アパートとなっているが、時には訳ありの革命志士などを匿うこともある。

 ベネディクトはイングランド出身の貴族で日本に留学中の学生らしい。彼の縁戚が上海で商社を営んでいる縁もあり、『魔都』と名高いこの都市に渡ってきたとか。


 物慣れないベネディクトは、うかつにも単身で華界かかいに紛れ込んでしまい、胡乱な連中に取り囲まれていた。その場に、たまたま通りかかった雅文が助けたのだ。


 ベネディクトは雅文に恩義を感じると共に、蔡栄の料理が気に入り、その日のうちに茶楼への下宿を決めてしまった。

(ま、すぐに飽きて出て行くでしょ)

 という雅文の予想に反して、彼はかれこれ二ヶ月ほど逗留中だ。


「朱小姐シャオジエ、新聞は揃っている?」

 ベネディクトの問いかけに、雅文が答えるまでもなく、女給たちが一斉に差し出す。青年は一人一人に礼を述べて受け取って、蓮を象った漏窓のそば、庭がよく見える卓に腰かける。ここに来た時からの、彼の定位置だ。


 足を組み、軽く肘をつきながら新聞を開く姿は、雅文には芝居がかって見えるけれども、確かに様になっている。場所が歴史を刻んできた元妓楼というのがまた嫌味なほど似合う。


「朱小姐、紅茶を淹れてくれるかな? 君のロイヤルミルクティは絶品だよ」

 慣れた様子で命じてくるのを無視していたが、当のベネディクトより先に、女給たちのほうがちらちらと視線を寄越してくる。ほら、あなたをご指名よ、とても言うように。


 観念した雅文が立ち上がり、渋々ベネディクトのもとに向かった。

「あのねえ……あたしは今休憩中だし、あなたのお家の使用人じゃないのよ、貸し主よ。あなたは店子よね? 今月の賃料、まだもらってないんだけど?」

「失礼したね。期日を勘違いしていたみたいだ。すぐに人を寄越すよ」

 ベネディクトがそう言うからには、日暮れまでには執事を名乗る品の良い老人がやってきて、賃料を持ってくるに違いない。


 あくまで優雅に応じるベネディクトを前にしていると、一体どちらが主人だか分からなくなる。彼の身なりといい物腰といい、命じることに慣れている人間のそれで、雅文は少し気後れしてしまう。


 彼の執事は若様の奔放ぶりにも慣れているのか、詫びという名目で雅文や女給たちに珍しいお菓子や石鹸、香水などを都度持ってくる。


 他人からの施しを受けるほどさもしくないが、くれるというのを断るのも大人げない。李少爺からの贈り物なら女給たちは喜ぶし、ベネディクトからの細かい注文に応えている迷惑料だと思えば良心も痛まない。


「いつも思うけど、そんなに読む必要あるの?」

 ベネディクトが目を通し終えた新聞を左側によけ、新たに右側に積んだ新聞を取り上げる。これは彼の習慣らしく、これを終えないことにはてこでも動かない。


 上海で発行される新聞の数は優に五十を越える。上海語のゴシップ誌からユダヤ難民向けの機関誌まで、取り寄せる算段をつけるのはなかなか大変だった。香燈会の伝手がなければ到底叶わなかっただろう。


「情報収集は怠らないようにしてるよ。……また、嫦鬼チャングイの記事だ。ここの所、続くね」

 ベネディクトが軽く眉根を寄せるのに、雅文は身を乗り出す。


「近頃特に増えたと思わない? 一体どうなっちゃうんだろ……」

 重いため息をこぼす雅文とは対照的に、ベネディクト青年は焦りや不安とは一切無縁と言わんばかりに優雅に微笑んだ。


「形のないものを心配したって疲れるだけだよ、朱小姐。悩むなら起きたことだけにしておけばいい」

「ええ、そうね、李少爺。ご忠告感謝いたしますわ」

 雅文は刺々しい口調で応え、厨房へと向かう。女給たちに見送られているのをひしひしと感じて、雅文は少し憂鬱になる。


 今、女給たちの間で雅文とベネディクトが付き合うか否かで賭けをしているらしく、一挙一動を見られているようで落ち着かない。そもそも彼に気のある女給なら他にもいるというのに、何故よりよって自分が対象になるのだろう。


 貸し主の娘と店子であれば、多少のやり取りがあってもおかしくないのに、釣り合うからだとか、お似合いだからとか、勝手に盛り上がられても困る。と言ったところで、次に来るのは「じゃあ、他に気になる人がいるの?」だ。絶対にそうなる。


蔡老さいろう! 白茶と胡麻団子はある?」

 大股で厨房に入ってきた雅文に、蔡栄が目を丸くする。こちらも休憩中らしく、蔡栄は厨房の隅で手下の厨師相手に碁を打っているところだった。


「あァ? 今来たの李先生じゃねえのかよ?」

 蔡栄は一見好々爺、髭を長く伸ばせば仙人もかくやという顔立ちだが、その年季の入った巻き舌で初対面の人間を唖然とさせるのが常だ。

 煙管を咥えて片膝を立て、若い厨師と賭け碁をして金を巻き上げている姿には、場末の賭場主も顔負けの迫力がある。


「いいのよ別に。あの人だけ特別にすることないでしょ」

 ベネディクトがやってきた当初はわざわざ紅茶とスコーンをフランス租界の店まで買い付けていた――もちろんその分の支払いはツケてある――が、その内馬鹿らしくなってきた。


「李先生にはえらく当たりがきついじゃねえか。何かあったのか?」

「別に何もないっ! 蔡老まで変な勘ぐりしないでよっ!」

「へいへい」

 蔡栄は煙管を加えたまま厨房に立つ。香琳に注意されて、厨房内では禁煙しているが、煙管を咥えることだけはやめられないらしい。


 これでも蔡栄は清朝宮廷の厨師も務めていたのだから、世の中というのは不思議なものだ。蔡栄の気性が災いし、料理に文句をつけた高官と殴り合いの喧嘩をした挙げ句、紫禁城を飛び出した。

 自由になった蔡栄は、残りの生涯を料理に尽くそうと決め、修行の旅に出たのだ、とは当人の弁である。


「ったくよ、そうやっていっつも真に受けてかっかしてっから小姐たちにからかわれんだぞ」

 どうやら、こちらの会話が聞こえていたらしい。雅文は唇を尖らせる。

「だって、違うものは違う」

「頑固だねえ。けど、李先生に八つ当たりはよくねえなァ」

「うるさいなあ。そんなにあの人が気に入ったのなら一緒に英国に行ってしまえばいいのよ」

「俺ァ洋鬼の国に行きたくねえし、今更誰かの下につきたくねえ」


 蔡栄の料理を口にしたベネディクトは、ことあるごとに蔡栄を自邸の料理人に引き抜こうとしている。

 曰く『蔡老の料理の腕は西洋人シェフを軽く凌駕するよ。ここも悪くないけれど、うちの屋敷で働いてくれないかな。給金は言い値で構わないよ』。


 今のところ、ベネディクトの誘いに乗って金華茶楼を辞める気はないようだが、腕を絶賛されて悪い気はしないのか、蔡栄はかの青年に対して少々甘い。

 蔡栄は好き嫌いがはっきりしている。気に入らなければ徹底的に無視するはずだが、こうなっては雅文のほうが分が悪い。


 用意されたお茶と胡麻団子をもって席に向かう。注文と違う品が出てても、ベネディクトは気にした様子もなく礼を述べた。雑な給仕にも涼しげな風情で、蔡手製の胡麻団子を嬉しそうに口に運ぶ。


 ベネディクトの鼻を明かしてやろうと思っていたのに。肩すかしを食らった雅文は、すっきりしないまま席に戻ろうとする。と、ベネディクトは「確かに、朱小姐の言うとおりかもしれない」と軽く眉根を寄せた。


「何が?」

嫦鬼チャングイ。頻度が増えているというのは数字にも出てる」

 ほら、と青年が指し示す箇所には、連合工部局警察の出動回数が記されている。


「彼らが動くのは大きな事件の時だけだ。そう考えると、頻発しているといってもいい」

「連合工部局なんてろくな仕事しないじゃない」

 雅文が口を尖らせる。連合工部局とは嫦鬼の被害の大きさを愁いた列強が、排除の協力と武装強化のために結成した組織である。


殄鬼扶上海鬼を殄ち上海を扶く』を掲げて発足した混四フンス―軍は県城内の上海シャンハイ県署けんしょを拠点とし、堅牢な城壁と最新鋭の英国製大砲を備え、大いに活躍していた。


 事が長じるにつれ白人の正規兵は減り、職にあぶれた支那人とインド人兵士スィパーヒーが大半を占めるようになった。彼らはおざなりな訓練しか受けておらず使い物にならない、と市民からは『渾肆フンス―』――役立たず、と呼ばれる始末だ。


 加えて、この渾四軍も租界不介入という悪しき習慣を払拭することがついぞできなかった。


 犯罪の取り締まりは各租界警察の領分だが、自国の租界以外には関心がない。彼らの言う『排除』は『自身の租界内から追い出すこと』であり、他に尻ぬぐいを任せたいという本音を隠そうともしない。


「だからこそ、君たちのような人間が必要とされる。そうだろう?」

「……まあね」

 認められて嬉しいような、他人事のように言われて腹立たしいような、何とも言えない気持ちで雅文は相づちを打つ。


 香燈会には志の高い文人や侠客が多く、真剣に上海を救いたいと考えている。己の欲を満たすだけの連中が見捨てた人々をこそ救うべし、というのが香幇の首領・花香琳の信念だ。


 母や香燈会の仲間たちを、雅文は誇らしく思う。だが、それと上海の実情は別の問題だ。


 上海は今、ベネディクトの生国であるイギリスやフランスだけでなく、日本にまで利権を食われている。いくら香幇員の志が高くても、人員や資金の面で圧倒的に不利な立場なのだ。


「連合工部局とて手を拱いているわけではないよ。最も、朱小姐は点数稼ぎだと怒りそうだけど」

「そんなことないわよ」

 咄嗟に否定したが、いかにも自分が言いそうなことだったので、雅文は頬を膨らませてそっぽを向く。


「李先生はまるで工部局参事みたいな物言いをするのね」

 いくら裕福な家の出だとしてもただの留学生だ。観光気分でやってきたこの青年に比べたら、十三年間上海に暮らしてきた雅文のほうがよほど世事に明るいに違いない。

 実際、彼は治安の悪い南市ナンシーにうっかり踏み込んでしまう愚を犯したのだから。


(もしあたしが気づいてなければ、身ぐるみ剥がされて捨てられてたわよ)

 いや、と雅文はベネディクトを見据える。それだけで済んだのなら幸運な方だ。


 ベネディクトほどの容姿ならば好事家にも高く売れるだろう。南市の燕子窩アヘン窟か、新世界ダスカの最上階で鴉片アヘン漬けにされていてもおかしくない。


「内情に詳しいわけではないけれど、社交界に身を置けば聞こえてくることもあるよ。……顔に何かついてる?」

「いいえ。ごゆっくりどうぞ」


 雅文は営業用の笑顔を浮かべて話を切り上げる。視線を感じて振り向けば、女給たちが興味津々な顔でこちらの様子を窺っている。

 手を振って追い払う仕草をすると、彼女たちは大騒ぎしながら卓上に出ていた銀貨や紙幣を配分し始めた。


 雅文が呆れて腰に手を当てたところで、茶楼の扉が開く。今は準備中だと断ろうとした雅文に向かって、見覚えのある男が拱手した。


「朱小姐、方師兄ほうしけいはおりますか?」

 その台詞で、大方の事情は察した。


「早速ですが、愛多亜路アイドゥォヤールーに『猩猩しょうじょう』が二体。例によって、租界の境界ですんで香幇の出番かと」

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