千年蚕娘 上海蠢爾編

乾羊

第一章 女媧之腸《ニュウァヂーチャン》

第1話 茶楼の看板娘

 昼時を迎えた金華茶楼には大勢の客が列を成している。


 四馬路スーマールーで、かつて高級娼館として栄えた三階建ての楼閣、その偉容に見合う立派な垂花門もんには往時の風情を残す『金華楼』の扁額を掲げている。


 敷居の高さに気後れしてしまいそうな垂花門に、粗末な風体の男たちが続々と吸い込まれていく姿は、ここ数ヶ月の上海で新しく見られるようになった光景のひとつだ。


小姐シャオジエ油炸排骨ユーティパイグゥ菜飯ツァイファン!」

「はい、ただいま!」


 店内を埋め尽くす男たちに混じって、揃いの白い旗袍きほうをまとった少女たちが、料理の乗った皿を手にあっちこっちへ奔走する。


「朱小姐シャオジエ、こっちにも油炸排骨、追加してくれ!」

「また!? 三杯目じゃない!」


 常連客にわざとらしく目を剥きながら、しゅ雅文がもんは注文を厨房に向かって叫ぶ。

 奥から厨師長のさいえいとその部下たちの威勢のいい諾が返ってきた。


 ひっきりなしに飛んでくる注文を捌き、的確に仕事をこなす雅文は、この茶楼の看板娘だった。


 滑らかな象牙色の肌に切れ長の黒い瞳、薄い唇。もうすぐ十六歳になるというのに化粧っ気ひとつなく、額に浮かぶ汗の珠が唯一、少女の身を飾るものだった。


 身体の線に添う旗袍にボブ風の編み込みという出で立ちは、近頃よく見られるようになったものだ。

 二の腕も露わなこの格好を、扇情的すぎると嘆く文人も多いのだが、雅文の場合は色気よりも少年っぽい溌剌さが勝った。


 彼女はその細腕に四つも五つも皿を乗せ、一気に狭くなった店内を泳ぐように移動する。


 厨房を仕切る蔡栄は、北京仕込みの宮廷料理から上海下町の料理まで、およそ作れぬ料理はないと豪語し、その大口に見合うだけの腕を持っていた。


 この時間帯は日銭稼ぎの苦力クーリー黄江浦ホワンプーシャンで働く水夫相手の飯屋だが、蔡栄の作る上海料理は絶品と名高く、観光客らしい外国人も姿を見せるほどの盛況ぶりだ。


 と言っても、いかにも些末な身なりの人々がひしめく店に、堂々と踏み込む西洋人は、そういない。彼らが嫌な顔をして侮辱の言葉を吐き捨て、逆上した客ともめごとを起こすのも珍しくない。


「はい、油炸排骨お待ち!」

 雅文が注文の料理を卓に乗せたその時、背後から少女の悲鳴が上がった。

 さっと振り向いた雅文が見たのは、給仕の少女の腕を引く男の姿だった。


 躊躇うことなく人波を割って駆けつけると、酒精を帯びた男が嫌がる少女の腰を抱き寄せていたところだった。雅文が容赦なく男の腕をひねり上げると、情けない悲鳴が響き渡った。


「女の子はうちの商品じゃないのよ! 女が欲しけりゃ別のところで買えば? 野鶏ヤーチーだって、あんたみたいな下衆を相手にしたくないでしょうけど!」

 少女が逃げたのを確認し、雅文は男の腕を解放し、ついでに蹴りを入れて床に転がす。


「この女ァ、下手に出ればつけ上がりやがって……!」

 顔を真っ赤にして立ち上がった客だが、彼を取り巻くように三人の男が現れたのを見て、明らかに怯んだ。店の奥から出てきた男たちはいかにも屈強で、荒事に慣れた風情があった。


「店内で乱暴は困りますよ、お客さん」

雲雕うんちょう!」

 客の正面、つまり雅文を守る形で割り入った男――方雲雕ほううんちょうが、あくまで穏やかな口調で告げるのと同じくして、他の二人が客の両腕をがっちり押さえた。


「うちとしてもね、穏便に事を済ませたいんですよ。意味は分かるだろう?」

 な、と雲雕が客の肩を叩くのを合図に、男たちは客を入り口まで引きずっていく。それを見送った雅文は、へたり込んでいる少女に手を貸した。


「大丈夫? 怪我はない?」

「はい……ありがとうございます、朱小姐」

「怖かったよね。でも大丈夫、またやってきてもあたしが助けてあげる」

 雅文が励ますと、少女は照れくさそうに小さな笑い声をこぼす。


「ほら、まだまだ忙しいんだから、手伝ってもらわなきゃ。蔡老さいろうに新しい料理をもらってきて。ね?」

 少女の肩を軽く叩いて厨房に戻すと、雅文は床に散らばった食器や料理の後始末にかかる。

 周囲の男たちも手を貸して、あっという間に堂内の空気は元に戻った。


「また雅文のファンが増えたなあ」

 しばらくしてから戻ってきた雲雕に、からかい混じりに声をかけられた。

「お疲れ様。いつもありがと」

 雅文は雲雕を労ってから、ふと首を傾げた。


「……殺してないわよね?」

「いくら上海が自由ったって、人を殺しゃあ警察が飛んでくる。まあ、歯の一、二本くらいは我慢してもらおう」


 にかっと笑った雲雕は、雅文が物心ついたときから兄と慕う人物だ。彼の腕っ節をあてにして、もめ事の仲裁に度々手を貸してもらっている。金華茶楼が無事に営業できているのは、雲雕たちの協力あってのことだ。


「あんまり大事にするのはやめてね。店の評判に傷がつくから」

「はいはい。了解しましたよ、朱小姐」

 花庁ひろまを去って行く雲雕を見送った雅文は、気を取り直して仕事に戻った。明るい声を出しながら、新しい注文を次々と捌いていく。


 そのてきぱきとした動きの裏で、そっとため息をこぼした。

(やっぱり、昼に女の子を使うのやめようかなあ……)

 四馬路は妓楼が多く立ち並ぶ界隈で、金華茶楼の前身も高級娼館だ。飯店として昼にも商売を始めたのはほんの最近のことで、勘違いする客が絶えない。


 蔡栄が『堅苦しい料理ばっかやってらんねえ』などと不満をこぼして昼もやってくれるのは、茶楼にとってはありがたい話だが、夜とは客層が違いすぎるのが難点だ。


 日が落ちてからの金華茶楼には宮廷料理風の菜譜が並び、給仕も西洋式だ。裕福な商会の買弁や西洋人が商談や会食に使う酒店として、そこそこの評判を得ていた。


 品の良い客はもめ事とも縁遠く、女給たちにとっても働きやすい。このままだと、恐れをなした女給がやめるのも時間の問題だ。


(劉大人ターレンに相談してみよう)

 金華茶楼の老板ラオバン(差配人)・劉清穆りゅうせいぼくは話の分からない人物ではない。何かしら対策を打ってくれるはずだ。


 ただ、劉大人はなかなか忙しい人で、店には月に二度ほどしか姿を見せない。ならば、この金華茶楼の所有者である花香琳かこうりんに相談をもちかけるべきなのだが――


(もう、肝心なときにいないんだからっ! いったいどこをほっつき歩いているのよ、媽媽かあさんはっ!)

 雅文がいささか乱暴に料理の皿を置くと、何事かと目を剥く客と視線が合った。


 内心のいらだちが出てしまったことに気づいた雅文は「お待たせしました」と取り繕うように笑顔を浮かべ、厨房へとって返した。

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